最近、スポーツクラブで音楽に合わせて踊っていながら、不思議なことに気づきました。最後の身体をリラックスさせるクールダウンの曲が、1970年代や80年代にヒットした曲が使われることが多いということです。たとえば昨晩は、アバの「ダンシング・クィーン」でしたが、昔のスチュワーデス物語で使われた「フラッシュダンス」などもよく使われます。
最近の曲に比べるとやはりテンポがゆっくりの部分があり、同時に、曲全体にたとえば悲しみから喜びへと変わるようなストーリー性が見られます。
最近は、AIの進歩などにも押されて、何かを話しを聞くときに、瞬時に、これは自分の世界観に合う話しか、どうか、役に立つ話かどうか、などの判断がなされます。
あまりにもそのテンポが速すぎて、ついて行けないことがあります。
イエス様の最も有名な言葉の一つに、「あなたの敵を愛しなさい」ということばがあります。しかし、「あなたの敵」とは、あなたの立場を奪う人、あなたにとって不都合なことをする人を指しますから、そんな人を愛するとは、自分の感情を殺さないとできない、無理な要求と思えます。
しかし、イエス様は決して、私たちの自然の感性を否定するような方ではありません。
明日の礼拝では、ローマ人への手紙12章14–21節の箇所からお話しします。その最初には、「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい」という、無理と思える勧めが記されます。これも「あなたの敵を愛しなさい」と同じ趣旨です。
しかし、詩篇の祈りには、自分の傷ついた心を切々と神に訴える祈りが満ちています。それは、神が私たちの傷ついた心に寄り添ってくださることを現れです。
敢えて言うと、詩篇の祈りによって、自分の感情を正直に訴えることができた結果として、敵を愛し、迫害する者たちの祝福を祈ることができるようになると言えましょう。
聖書の祈りの世界は、瞬時の判断を超えて、私たちの心の奥底に語りかけて、私たちを内側から作り変える力を持っています。
その代表とも言えるのが、詩篇28篇とも言えましょう。
詩篇28篇1–9節「主のさばきを待ちつつ、平和を作る」
1節は差別用語を意識し過ぎると翻訳が難しいですが、神を聾唖者にたとえて、「耳の聞こえない者」「話ができない者」のようにならないでくださいと願った祈りです。
2、3節では、ダビデは自分の祈りの真剣さを訴えながら、自分を悪者たちと区別してくださるようにと願っています。そして、その本質を、「彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪がある」と描きますが、「彼ら」とはダビデの身近な人を指します。
残念ながら、今も昔も、口では「平和」を語っている仲間と思われた人々が、自分にとっての最も恐ろしい敵となることがあります。
歴史を振り返ると、ときに教会が和解の福音を語りながら、争いと分裂を引き起こしてきたという悲しい現実も見えます。私たちはそのような時、自分の正義を訴え、相手の間違いを正したいという誘惑に駆られますが、多くの場合、それはかえって争いを加速することになります。
たとえばダビデの生涯の前半ではサウル王が、後半は将軍ヨアブが彼の前に立ち塞がりました (Ⅱサムエル3:39参照)。しかし、この二人がいなければダビデは王になる道も開かれることはなかったはずです。
それでダビデは自分が彼らと正面から戦う代わりに、4節の祈りにあるように、すべてのさばきを主にゆだねました。大切なのは、「私の心は主に拠り頼み」(7節) とあるように、すべての心配を主に祈り続けることです。
私たちの人生にも、最高の味方と思えた人が、最大の敵となるということがあり得ます。そのようなときに、自分の知恵と力で対抗しようとするなら、神の民全体を傷つけることになりかねません。
すべてを見ておられる神が、ご自身の時に、彼らの悪に報いてくださるようにと祈りながら、9節のように神の民の祝福を祈るべきでしょう。
人は自分の望む「平和」の状態を実現しようと焦り、争いを生み出します。しかし、主ご自身が「羊飼い」として神の民の群れを導いてくださるように祈りましょう。
【祈り】主よ、多くの人は「平和を語りながら」、争いを引き起こします。どうか、主のさばきが現されることを信じながら、平和を作る者とならせてください。