詩篇27篇〜やなせたかし——アンパンマン

 NHKの朝ドラの話しで恐縮ですが、この4月からは漫画アンパンマンの作者「やなせたかし」さんとその奥様の生涯が描かれるドラマが放映されます。

 アンパンマンのストーリーの背後には、明らかに、キリストの十字架と復活の物語があります。
 ただ、彼自身はご自身の信仰を証ししておられません。

 アニメのアンパンマンが日本中で見られるようになったのは、彼が70歳になったころでした(1988年)。奥様の暢(のぶ)さんは同学年の方で、彼のマネージャー的な存在だった方で、75歳で亡くなっておられます(1993年)。

 やなせさんは従軍体験をお持ちの方で、戦争の不条理さを心から体験した方です。彼があるインタビューで次のように答えたそうですが、そこに彼の信念が簡潔に現わされているように思います。

 「正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に,パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。
 なにも相手の国にミサイルを撃ち込んだり,国家を転覆させようと大きなことを企てる必要はない。
 だから正義って相手を倒すことじゃないんですよ。アンパンマンもバイキンマンを殺したりしないでしょ?」

 ただ、この背後には、奥様の暢さんがやなせさんに次のように語っていたことばがあるようです。
 「正義は逆転することがある。信じがたいことだが。じゃあ、逆転しない正義とは何か?飢えて死にそうな人がいれば、一切れのパンをあげることだ」

 詩篇27篇は不当な攻撃を受けているただ中で、主のご支配を体験したことを歌ったものです。
 主のご支配は、不条理な戦いのただ中で示されたものでした。

詩篇27篇1、4–8節「私は一つのことを主に願った」

 「主 (ヤハウェ) は。私の光、私の救い・・」という告白は、私たちが人生の暗闇に囲まれ、神の救いが見えなくなっているときこそ、真実になります。
 「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」というバッハ編曲のオルガン曲は、街中のBGMでも聞こえることがあるほどポピュラーな曲です

 この原曲は1597年に、ドイツの片田舎の牧師フィリップ・ニコライがペストが蔓延し毎日十人もの葬式を出すという苦難の中で、朝早く起きて全精神をキリストに向けたときに生まれたものです。

 彼はこの4節にあるように、「主 (ヤハウェ) の麗しさを仰ぎ見・・思いにふける」中で、イエスの救いの光にとらえられました。
 そして、キリストが天から降りてきて私たちを祝宴に招くというビジョンが見え、深い感動に満たされました。
 毎日が地獄のような現実の中で、その意味も分からず、解決の見通しも立たないままなのですが、そのただ中で、神の光に包まれるという救いを体験したのです。そこから生まれたこの曲には心の奥底に希望を生み出すような不思議な力があります。
 
 7節では、著者は必死に神に訴えているのですが、そのただ中で8節では不思議に、もうひとつの自分の心が、神ご自身のみこころ、「わたしの顔を、慕い求めよ」という声を聞かせてくれたというのです。
 私たちは苦難のただ中で、慌てふためき、周りに混乱をさらに広げるような行動を取ることがあります。しかし、そのときに必要なことは、「今、混乱のただ中で、何ができるか・・」に気づかせていただくことなのです。

 教会の伝統に、観想の祈り (contemplative prayer) というのがあります。それは、主の御前に自分のたましいを落ち着かせ、思い浮かぶ様々な思いを主に差し出しながら、主の御前に心を透明にして行く祈りです。
 自分の理性で状況を把握しようとする代わりに、主のみわざに心を開いて行くのです。そこでは、人間の理性では把握しきれない主の御顔にある救いが示され、苦難のただ中に生きる力が生まれることがあります。


【祈り】主よ、私たちにはすべてのことを把握していたいという思いがあります。私が被造物に過ぎないという現実を受け入れ、神のみわざに心を開かせてください。