昔は、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ……その人は……ときが来ると実がなりその葉は枯れない。その人は何をしても栄える」という約束が、仕事の成功と結びついて嬉しく思えました。
しかし、さまざまな悩みを抱えた方に接しているうちに、それがあまりにも楽天的に見えてきました。ところが二篇とセットで読むようになった時、その意味が納得できました。なぜなら、ここに聖書の要約があるからです。
ノー天気な信仰も危険ですが、暗いことばかりを見る信仰はもっと始末が悪いかもしれません。
詩篇一篇は「幸いな人よ」ということばから始まり、二篇は「幸いなことよ、すべて彼(御子)に身を避ける者は」ということばで終わります。そして「幸いな人」として生きるための秘訣は何よりも、「主 (ヤハウェ) の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを思い巡らす(口ずさむ)」ことにあるというのです。
そして私たちへの命令が、「恐れつつ主 (ヤハウェ) に仕え、おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ」と記されます。イエスに臣下の礼としての「口づけ」をする中で、全地の主(ヤハウェ)に仕えることの「喜び」が生まれると描かれます。
1.「幸いな人とは」
この詩篇は、「幸いな人よ!」ということばから始まり、その生き方が2節までひとまとまりに描かれます。人間とは人の間で生きる存在ですから、誰と交わるかは、その人格の形成に決定的な影響を与えます。
ですから、まず三つの否定形で、「幸いな人よ、悪しき者の勧めを歩まず、罪人の道に立たず、おごる者の座に着かず」と歌われます。
聖書では「悪しき者」「罪人」「おごる者」とは、創造主を認めない人です。しかし日本には、神を信じない「善い人」「誠実な人」「謙遜な人」が多いようにも思われます。
ただ、この詩篇は「神の民」と呼ばれるイスラエルの人に向けて記されているということを忘れてはなりません。ですから、あまりに短絡的に、神を信じない人との交わりと一線を画すことが命じられていると考えすぎるのも問題なのかもしれません。
私たちの多くは、ふだんの生活の中で、神を信じない人に囲まれていますし、ときには、明らかに神に敵対する人とも協力しなければ、この社会にとって大切と思われる仕事を成し遂げることはできません。
ただし、同じ信仰に立つことができる人々との交わりを軽んじてはならないことは当然です。先のローマ人への手紙12章2節でも、「この時代に同調してはなりません」と勧められていました。
そのことが「その人は、主 (ヤハウェ) の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを、思い巡らす(口ずさむ)」と言われす。これは、聖書を神のみことばと信じる神の民の交わりの中に生きる人こそが幸いであるという意味と理解できましょう。
なお、「教え」とは原文では「トーラー」ですが、これは新約では「律法」と訳され、狭い意味ではモーセ五書を指しています。ある先輩の牧師が、「僕は以前、主の教え(律法)は蜂蜜のように甘く、それを喜ぶことができるという表現に違和感を覚えていたことがあった。だから、高橋先生がモーセ五書や詩篇の解説の本を出版してくれたことを本当に嬉しく思う」と励ましてくださいました。
なおこれに関し、主(ヤハウェ)はモーセの後継者ヨシュアに、「このみおえしえ(律法:トーラー)の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ(黙想せよ)。そのうちにしるされていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである」(ヨシュア1:8) と語られました。
残念ながら「主の教え(律法:トーラー)」を神のさばきの基準としてしか見ることができず、「聖書を読むと、かえって息苦しくなる……」という人がいます。
しかし、「主の教え(律法)」は何よりも喜びの対象であり、愛する人からの手紙のように、いつでもどこでも思い巡らすことで幸せになることができる教えなのです。
そして「その人」には、「流れのほとり(水路のそば)に植えられた木」(1:3) と同じように、「(神の)時が来ると実を結び、その葉は枯れない」との繫栄が約束されます。
なお「行うすべてが繁栄をもたらす(he prospers: そのなすことはすべて栄える)」という約束の実現には「時が来るの」を「待つ」という忍耐が必要です。
それは、「忍耐こそがあなたがたに必要なものだからです。それは、神のみこころを行い、約束のものを手に入れるためです」(ヘブル10:36私訳) と記されるとおりです。一時的にうまく運んでいないように思えても失望する必要はありません。多くの信仰者が、「忍耐」によって、確かに「繁栄」を体験して来たからです。
それに対し「悪しき者はそうではない。彼らは風が飛ばすもみがら」(1:4) と呼ばれ、彼らが吹けば飛ぶような軽い存在であると言われます。そのことがさらに「悪しき者はさばきの前に立ちおおせない。罪人も正しい者の集いには」(1:5) と記されます。
それは、神が最終的にすべての隠された罪をもさばく方だからです。この世では「罪人」と「正しい者」は混在していますが、やがてその区別が誰の目にも明らかになります。
それを前提に「主 (ヤハウェ) は正しい者の道を知っておられる。しかし、悪しき者の道は 滅び去る」(1:6) と宣言されます。この世の人生のむなしさは、何よりも「正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きする」(伝道者7:15) という不条理にあります。そこにサタンがつけ込み、不敬虔な生き方を刺激します。
しかし、真の繁栄は、天地万物の創造主、すべての豊かさの源である方に結びついた生き方から生まれるのです。
しかも、神の目に「正しい人」とは、社会で尊敬されているような人という意味ではなく、自分の弱さやふがいなさを心から知って、「私は神の助けなしには一瞬たりとも生きられない」と思っている人です。それは、自分の弱さを神の御前にさらけ出して祈る人にほかなりません。
私たちは知らないうちに、神の助けがなくても生きられるような強い人になろうとしてはいないでしょうか。しかし、最後に「滅びる」のは、神のあわれみも真実も認めようとしない人々です。あなたが自分の罪深さを認め、イエスの十字架の贖いのみわざに感謝していることにおいて「正しい人」とされてることを忘れてはなりません。
2.「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしく思い巡らす(つぶやく)のか」
ヘンデル作曲のメサイヤ第二部では、ハレルヤ・コーラスに至るプロセスで詩篇2篇からのことばが四曲も歌われます。
イエスの復活によってサタンの敗北は決まったのですが、それによって戦いがかえって激しくなっている面があります。それはたとえば、第二次大戦でナチス・ドイツの敗北を決定的にしたのは1944年6月のノルマンディー上陸作戦の成功でしたが、ドイツの降伏はその一年後の1945年の5月であり、その間の戦争はそれ以前よりはるかに悲惨なものになっています。
太平洋戦争の場合も真珠湾攻撃から半年後の1942年6月のミッドウエー海戦で日本は空母四隻を失い、日本の敗北は決定的になりました。しかしそれを理解したのは一部の人だけで、その後の三年間、敗戦の兆候が強くなるほど戦いは激しさを増し、硫黄島、東京大空襲、沖縄、広島、長崎の悲劇につながります。
つまりサタンの攻撃が激しくなり暗闇が増し加わっているように見えるのは、実は、勝敗が決定的となったしるしとも言えるのです。
そのことを第2部19曲目では、激しい戦いのイメージの音楽で、1、2節から Why do the nations so furiously rage together、 and why do the people imagine a vain thing? 「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしいことを思い巡らすのか(つぶやくのか)。地の王たちは立ち構え、支配者たちは結束して、主 (ヤハウェ) と、主に油をそそがれた者とに逆らうか?」と歌われます。
つまりここでは、この世の権力者が、神に逆らうばかりか、「油注がれた者」、つまり「メシヤ(キリスト)」に逆らうのはなぜなのかと問われています。
これは、使徒の働き4章では、ペテロとヨハネがイエスの復活の福音を宣べ伝えたことで厳しい脅しを受けた際に、彼らはユダヤ人の最高議会の指導者たちに向かって「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうかを判断してください。私たちは自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはゆきません」(19、20節) と堂々と答えました。
そして、これを聞いた弟子たちは「心を一つにして、神に向かって声を上げ」、「聖霊」が「私たちの父であるダビデの口を通して」、救い主とその教会に対する迫害のことを、予め詩篇2篇1、2節によって予言していたことの成就であることを証ししました (24–26節)。
この世では、「神の民」は少数派にすぎず、神に逆らう者たちの力のほうが圧倒的に強く感じられますが、彼らは「主 (ヤハウェ) と、主に油注がれた者(メシア)」に逆らったことで敗北が決まっているのです。
そのような中で、「国々は騒ぎたち、人々はむなしく 思い巡らす(企む)」と記されていることの内容は、神とメシアに対して「さあ、かせを砕き、縄を切り捨てよう」という反抗です。これは「神の国(支配)」の民として生きることを単に束縛ととらえ、創造主を否定した生き方に自由があると思い込むことを指します。しかし、彼らは自由なのではなく、自分の欲望の奴隷になっているだけです。
聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神の御手の中にあったと知ることができ、また私たちの人生も、この世では試練に満ちているのが常だということを知ることができます。神の敵は、サタンに踊らされているだけです。彼らは隠された霊的な現実を見ることができないからこそ神に反抗できるのです。
2篇4節では、「天に座す方はそれを笑う。主 (ヤハウェ) は彼らをあざけり」と歌われます。それは全能の主が今、天に座しておられ、ご自身の権威を否定する者たちのことを「笑い」、また「あざけって」おられるというのです。
そればかりか5節で、主は彼らを「燃える怒りでおおのかせ 怒りをもって彼らに語る」と描かれます。それは上から見下ろしていた神が、この世の悪に自ら立ち向かうと宣言されることです。
そして6節では宣言された内容が、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」と記されます。これは目に見えない神が、目に見える地上の王をエルサレムに立てたという意味で、その「王」こそ「ダビデの子」のイエスであるという意味です。
ここに「神の国」の実現が宣言されました。私たちには不条理としか思えないことも神のご支配の中にあります。私たちはこの地の真の支配者の存在を忘れてはなりません。
2篇7節では「主 (ヤハウェ) の制定(布告)」の内容が、御子イエスへの語りかけとして「あなたはわたしの子。わたしはきょう あなたを生んだ」と記されます(下線部強調)。これは主(ヤハウェ)がご自身の子を王として即位させたという宣言です。
使徒の働き13章33節では、「神はイエスをよみがえらせ……約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです」と記されています。
イエスの十字架には「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」という「罪状書き」が掲げられていました (ヨハネ19:19)。それは嘲りのようで真実を表しています。十字架こそはイエスの玉座でした。
ヨハネ福音書でのイエスの十字架の場面は、王としての威厳に満ちています。イエスは神の民のすべての罪を負う「王」として十字架に向かわれたからです。バッハもヨハネ受難曲の前奏曲では、「主よ、あなたは驚くべき低さの極みにおいて栄光を受けておられる」と歌われます。
詩篇1篇では神に従う者の「幸い」が歌われました。イエスの十字架は、その原則に反するように見えましたが、詩篇2篇では、目に見える苦しみがあったとしても、この神の民の勝利の原則は変わらないということが保障されています。
3.「あなたは鉄の杖で彼らを打ち、焼き物のように粉々にする」
詩篇2篇8節で、主(ヤハウェ)は御子イエスに、「わたしに求めよ。国々をあなたに受け継がせ 地の果てまであなたのものとする」と言われます。
これは、ダビデに与えられた支配地が約束の地カナンに限られていたことの対比として、「ダビデの子」であるイエスは、全世界の支配者とされるという約束と考えられます。
イエスの十字架刑が決定的になったのは、大祭司の質問に対して、ご自分が神の子キリストであることを認めたばかりか、ダニエル7章13節を引用しながら、「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(マタイ26:64) と宣言されたことにあります。
そこでは「今から後」ということばが強調され、イエスがこれからすぐに天の神の右の座に着くのを、当時の人々が見ることになるという途方もない宣言でした。それを聞いた人々は、全員一致で、神への冒涜として死刑を宣告しました。
それが当時の人々が思ったような大ぼらではなく、真実であるということが、この詩篇の7、8節でダビデの時代からの預言として記されているのです。今も、ユダヤ人はイエスがこの詩篇の預言の成就者だと信じていませんが、これこそがすべてのクリスチャンの共通の告白です。
続けて主(ヤハウェ)が「御子」に、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち、焼き物のように粉々にする」(2:9) と約束されたことばは、ヨハネの黙示録では三度にわたって (2:27、12:5、19:15)、再臨のキリストが「鉄の杖ですべての国々の民を牧する」という、圧倒的な力によるキリストの支配としての成就が描かれています。
これらはすべてダビデの子イエスの最終的な勝利を約束するみことばです。救い主は、二千年前はひ弱な赤ちゃんとしてこの地に来られ、神の優しさを示されましたが、今度は剣をもって神の敵を滅ぼすために来られるからです。
つまり、ここにはキリストの十字架から再臨までが合わさって預言されているのです。
そして今、私たちの救い主イエス・キリストが、すでに「王たちの王、主たちの主」としてこの地を治めておられます (黙示11:15、19:16)。ですから、「ハレルヤ・コーラス」は、この詩篇二篇から導かれる必然的な帰結です。
ハレルヤ・コーラスは、目に見える不条理に中にすでに始まっているキリストの支配を歌ったものなのです。確かに現代のウクライナやイスラエルでの悲惨な戦闘を見るときに、キリストの支配に疑問を持つこともあろうかと思います。しかしそのような悲惨のただ中で傷ついた人に寄り添い、彼らのうめきを自分のうめきとして、神の平和を広げる働きをしておられる方々がいます。
そして現実に、そのような悲惨のただ中で、信仰のリバイバルが起きています。私たちはそこにキリストの支配を見ることができます。それは、イエスは十字架の苦しみのただ中で、ご自身が全世界の王であることを宣言しておられたからです。
ハレルヤ・コーラスの最初は、黙示録19章6節から、「Hallelujah! For the Lord God omnipotent reigneth.(主 (ヤハウェ) をたたえよ。全能の神である主が、支配しておられるのだから)」と繰り返し歌われます。これは、この世の現実が悲しみと不条理に満ちているようなときの何よりの慰めです。
私たちの教会の群れの基礎を築いてくださった古山洋右先生は、ご自身の葬儀の際にはぜひこのハレルヤ・コーラスを歌って欲しいと切に願われ、当時の教会に集っていた有志が突然の葬儀でそれを歌いました。
その頃、私も武蔵野や東村山という三つの会堂の牧会の責任を担いながら、何とも言えない疲れと無力感を覚えていました。しかし演奏者である友人に誘われたメサイヤのコンサートで、この部分の賛美を聞きながら、ことばにできない感動に心が満たされました。
それは、目の前の状況が自分にとってはコントロール不能と思われる中で、「全能の神である主は、この状況を支配しておられる」と確信できたからです。
そのことが黙示録11章15節から、「The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of His Christ and He shall reign for ever and ever(この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される)」、また、黙示録19章16節から「King of Kings、 and Lord of Lords(王たちの王、主たちの主)」と歌われます。
神のご支配は、御子イエスが王として世界を治めるところに現されるのです。この地上を支配しておられるのは、私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス・キリストご自身です。私たちの救い主ご自身が、今、「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるというのは何という慰めでしょう!
なお、このヘンデルの指揮によるメサイアの演奏を聞いていたイギリスの王、ジョージⅡ世は、この部分を聞いたとき、突然、起立したと言われます。それは、「王の王、主の主」であるキリストへの敬意の表現でした。それにならってすべての聴衆が起立し、それ以後の演奏会でも、聴衆がこの部分で起立するようになったと言われます。
黙示録では、キリストが弱さの象徴としての「小羊」と呼ばれながら、同時に「右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ていて、顔は照り輝く太陽のようであった」(1:16) という方として描かれています。それは、キリストがこの世の悪をさばき、この世の不条理をすべて正してくださる方だからです。
キリストの支配は、生まれながらの人間には理解が難しいものです。
詩篇2篇10–12節では、「王たち」「地の支配者」たちに向けて、「恐れつつ 主 (ヤハウェ) に仕え、おののきつつ 喜べ」と記されながら、「御子に口づけせよ」と命じられます。
これは、「主 (ヤハウェ) に仕える」ことが同時に、「御子イエスに対して臣下の礼を取る」ことと同じ意味であるという不思議な宣言です。戦争では指導者と部下は一体のものとなり、指導者の勝利はその部下たちの勝利となるのです。
そればかりかその理由が、「怒りを招き、その道で滅びないために」と記されています。それは御子を自分の王として認めない者には神の「怒り」が下るという意味です。
そして再び、「怒りは今にも燃えようとしている」と記されながら、最後に、「幸いなことよ、すべて彼(御子)に身を避ける者は」と閉じられます。つまり、私たちは「御子に身を避ける」ことによってのみ、「神の怒り」から救われることができると宣言されているのです。
イエス・キリストはすでに全世界の「王」となっておられます。私たちが神の平和を味わうための道は、この方を自分にとっての「王の王、主の主」として認める以外にないのです。
私たちは、このキリストのご支配の現実をどれだけ味わっているでしょうか。ただ、それは武力による支配ではなく、愛による支配です。私たちは、キリストの教えが世界の価値観を変え続けてきたことを思い起こしてみましょう。
このような見方は、信仰生活の持ち方にも影響を与えます。十字架で終わる福音は、死ぬこと自体を美化することになりかねません。犠牲愛ばかりが強調されるなら、息が詰まるような感じが生まれるかもしれません。それは自己犠牲が道徳的に強制されるような気持ちになるからです。
しかし十字架には神の勝利が隠されています。十字架の「のろい」の背後に、神の「祝福」が見られます。私たちはいつもその喜びと、祝福を見ながら、信仰の旅路を歩むのです。私たちの目の前にあるすべての問題は、私たちがキリストにある勝利を味わうための契機に過ぎません。
最終的な勝利はすでにキリストにあって確定しました。それは、私たちに「御子に口づけせよ」と服従が命じられることを実行する中で体験できる祝福です。