ウクライナにしてもイスラエルにしても、毎日のニュースに心が騒がせられます。
戦争を止める選択肢には大きく分けて二つあると言われるようです。
第一は、第二次大戦ように戦勝国と敗戦国が明確に分けられ、そこに新しい平和の秩序が生まれるパターンです。
第二は72年前の1953年の朝鮮戦争休戦のように、より大きな悲惨を防ぐために当面の戦いを止めるというパターンがあるようです。
しかし、この朝鮮半島の休戦状態も、あまりにも多くの問題を現代まで引きずらせているとも言えます。
ただ朝鮮戦争の休戦の前は、日本を占領していたマッカーサー元帥が原爆を使うことを強く進言していたという話しも伝わってきます。そのような最悪の事態を避けるための苦渋の選択もあり得るということなのでしょう。
どちらにしても、戦争が一日も早く終えられる状況を、日々真剣に祈って行きたいと思います。
ただ、政治の世界では、自分が掲げる政策の正しさを分かりやすく、ぶれることなく、断固として主張し続けることが大切なのかと思います。
そのような視点から見ると、日本の石破首相は、あまりにもすぐに反省し過ぎ、政策がころころ変わると批判されているように思います。
しかし、僕は何となく、そこに石破さんの信仰が現れている気がして、嬉しくなっています。
現状の国会議席数では、与党が野党の理解を得なければ予算も政策も実現できないという中で、石破さんのように、すぐに自分の非を認めて、歩み寄るという姿勢は大切なのかとも思います。
世界の政治家の中では、稀有な存在なのかもしれません。
しかし、正義と正義が激しくぶつかればぶつかるほど、戦いは引き返せない状況になります。どこかで互いに、自分の中にあった過ちを適度に謝罪するという姿勢が大切なように思われます。
かつて私は、伝道者の書の解説の本に「正しすぎてはならない」というタイトルをつけ、それがキリスト教世界では話題になりました。
以下のダビデの祈りでは、イスラエルの王であった彼が驚くほど率直に自分の愚かさと罪深さを認めて、創造主なる神にすがっています。
このような政治家が、この地にも増えて欲しいと心から願います。
詩篇25篇「あなたの小道を私に教えてください」
この詩は、一部不完全ながらも、各節の初めが基本的にヘブル語のアルファベットの順番に並んでいる単体の詩としては最初のものです。それは暗記を容易にするための工夫かもしれませんが、その内容は極めて個人的な訴えです。
極めて個人的な内容に、すべての人の心の葛藤に通じる、普遍の祈りが込められるからとも言えましょう。
最初に、主への信頼が歌われますが、4節の祈り、「主(ヤハウェ)よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に知らせてください」こそ、中心的な祈りと言えましょう。
そして、6、7節では、主の「あわれみ」と「恵み(ヘセド:契約の愛)」ということばが繰り返されますが、これこそ、「あなたの栄光を私に見せてください」と大胆に願ったモーセに明らかにされた神の本質であり、そこでは「咎とそむきと罪を赦す者」とご自身を紹介しておられます (出エジプト33:18、34:6、7)。
それを前提にここでは、主に「あわれみと恵み」を「覚えてください」と願う一方で、「罪やそむきを覚えていないでください」と願うことになります。
同時に、それが「あなたの恵みによって私を覚えてください」という訴えに変わります。「覚えるべき」内容を神に率直に願ったのです。
そして、8節から15節では基本的に、主に信頼する者の幸いが描かれ、その真ん中に、「主 (ヤハウェ) よ。御名のために私の咎をお赦しください。大きな咎を」という訴えがなされます。
これは著者が、自分の大きな咎のゆえに、苦しみを招いてしまっていると認識しているからでしょう。
そして、16、17節では、自分の切羽詰まった状況を訴えながら、「苦悩のうちから私を引き出してください」と訴えられます。
何よりも興味深いのは、「私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください」(18節) と訴えられていることです。そこに「私は既に十分に罰を受けているのですから……」という気持ちが込められます。
私たちも、自業自得の苦しみの中で同じように祈ることができます。
【祈り】主よ、あなたのあわれみと恵みに心より感謝します。私が自業自得で苦しむときにも、どうか、私の罪ではなく、恵みによって、私を覚えてください。