今日の礼拝で最初に読んだ詩篇40篇6–8節「いけにえも供え物もあなたはお喜びになりません。私の両耳をあなたは開いてくださいました……そのとき申し上げました。『今私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります……みこころを行うことを私は喜びとします。わが神よ……み教えは私の腹の中にあります』」こそ、新約における私たちの礼拝生活を現しています。
「巻物の書」つまり、聖書に「私のことが書いてあります」とは、私たちの信仰告白の原点と言えましょう。聖書の物語の中に自分を見出し、その自分が神に愛され、世界に愛を広げるために用いられる、それこそが神の御計画です。
1.「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」
パウロのユダヤ人の救いを切望しながらの神のご計画に関しての話しは11章34–36節の頌栄として、「『だれが、主の心を知っているのですか……だれがまずこの方に与え、この方からの報いを受けるのですか。すなわち、すべてのものがこの方から発し、この方によって成り、すべてがこの方に至るからです」で完結します。
神の命令の核心は、「聞け (シェマー)。イスラエルよ。主 (ヤハウェ) は私たちの神。主 (ヤハウェ) は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」(申命記6:4) にあります。
そこからから生まれた告白が「たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、私たちには父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また唯一の主なるキリストがおられるだけで、この主にあってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです」(Ⅰコリント8:5、6) と記されています。
これこそ新約における「聞け(シェマー)」という祈りの核心と言えましょう。人は無意識のうちに自分を世界の中心に置き、知恵と能力で周りの世界をコントロールしようと頑張って(我を張って)います。
しかし、自分の期待通りに動かいない時には、自分を無力な被害者の立場に置き、泣き落としによる同情を引くことで世界を動かそうとします。そのときの涙は、ウォーターパワーなどとも呼ばれます。
それに対し、この世界のすべては創造主なる神のご支配の中にあるということが明らかになるなら、私たちに求められるのは、自分を支配者や被害者の立場に置く代わりに、神の御手の中にこのままの自分自身を差し出し、神のご計画のために自分を用いていただくことです。
それを前提に12章1、2節では、私たちがなすべき応答が次のように記されます。
ですから、私はあなたがたに勧めます、兄弟たちよ、神のあわれみを通してですが。あなたがたのからだを献げなさい、神に喜ばれる聖なる生きたささげ物(いけにえ)として。それこそがあなたがたにとって理にかなった礼拝です。
この時代(世界)に同調してはなりません(この時代の枠(型)にはめられてはなりません)。むしろ、心を新たにすることで自分を変えていただきなさい。そうすれば、あなたがたは神のみこころが何かを見分けるようになります、すなわち、何が良いことで、(神に)喜ばれ、完全であるかに関してです。
ここに登場する「神のあわれみ」とは一般的な「あわれみ」よりも強いことばで、他者に対するさばきとの比較で与えられる特別なあわれみを指すことばです (出エジプト9:15との対比での33:19)。
また「からだを献げなさい……ささげ物(いけにえ)として」とは、神殿に屠られた動物の「ささげ物(いけにえ)」を献げることとの比較で、人間の「からだを生きたまま」で「いけにえ」として献げるという途方もないことが意図されています。
しかもそれが「神に喜ばれる聖なるもの」であるとは、私たちの「からだ」が既に「聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19) となっているからです。
ただその際、「もし御霊によってからだの行いを殺すならば、あなたがたは生きます」(8:19) とのことばを思い起こす必要があります。
さらに「それこそが理にかなった礼拝です」とは、屠られた動物を献げることとの対比表現です。
そのために必要なのは「この時代が要請する枠(型)にはめられる」代わりに、来たるべき「神の国」の論理に合わせた生き方をすることです。
興味深いのは英語で「Do not be conformed to this world, but be transformed by the renewal of your mind」(ESV, NRS) と訳されるようにこの世的な価値観に conform されるかわりに、根本から transform される必要があるという勧めです。
そしてその目的が「そうすれば、あなたがたは、神のみこころが何かを見分けるようになります」と記されています。そしてその「神のみこころ(ご意思)」とは、「何が良いことで、(神に)喜ばれ、完全であるかに関して」のことです。
しばしば、自分の人生の選択に関して、「神のみこころは何なのでしょう」と、神に問いかける場合がありますが、ここでは「心を新たにすることで、自分を変えていただく」ことが何よりも大切と記されているのです。
ですから、人生の選択に迷うときに何よりも必要なのは、右か左かの選択ではなく、今ここで、神に喜ばれる「生き方」は何かを問うことです。それは日々の生活の仕方に関わることです。
イエスは律法の専門家から、「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と問われたとき、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性(力)を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 これが重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です」と言われました (マタイ22:36–40)。
それがあなたの日々の生活において具体的に何を意味するかは、あなたが生きているこの時代の要請に合わせることよりも、神がこの世界に何を実現したいと願っておられるのかという神のご支配とご計画の視点から考えられるべきです。
神はお一人おひとりに対して、ご自身の固有な計画をお持ちです。ただそれは、日々の生活の中で、ご聖霊が導いてくださることから明らかにされます。たとえば、「どうして多くの人は、この問題の大切さを認識しないのだろう。でも、自分はこの問題をそのまま放っておきたくはない」と心に迫ることから新しい、神のみこころに沿った働きが始まるかもしれません。
ただし「心を新たにすることで自分を変えていただきなさい」と命じられる前提に、神はあなたのそのままの「からだ」を、「生きたささげ物」として受け入れてくださるということがあります。そこであなたの長所も欠点も含めたそのままの気質や体形が豊かに用いられます。
この時代の価値観に「同調する」代わりに、「心を新たに」して創造主の視点から自分を見ることによって、結果的にあなたは「変えられて」ゆきます。その際、自分の容姿や性格をまず変えなければ、神のお役に立つことはできないなどと悩む必要はありません。それが生かされる場が必ずあります。
反対にこの世の要請に合わせようと頑張り出すと、どこまで行っても欲求不満が残ってしまいます。この世の要請はどんどんエスカレートしてゆくからです。たとえば、あなたが何かのノルマを果たせたと思ったとたん、より高いノルマが課せられるというのがこの世の常です。ときにそれが燃えつき症候群に達するまで要求はやまないということがあります。
ですから、ここに記されている勧めは、一見したところ難しいように見えても、それこそがあなた自身を生かす道に通じるのです。そして私たちは神に生かされているという実感の中で、自分自身も「変えられて」行きます。
そしてそこで改めて、「神のみこころが何かを見分ける」ことができるようになっています。まさに変化の好循環です。
2.「一人ひとりは互いに器官なのです」
12章3–5節は次のように訳すことができます。
それは私に与えられた恵みをとおしてあなたがた一人ひとりに言うからです。思い上がってはいけません、思うべき限度を超えて。むしろ慎み深く考えなさい、神が各自に与えてくださった信仰の量り(測り竿:基準)に応じることによって。
それは、私たちは一つのからだに多くの器官を持っていますが、すべての器官が同じ働きを持つことがないのと同じように、そのように大勢いる私たちもキリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
最初の勧めは、「思い上がってはいけません、思うべき限度を超えて」です。
僕の神学校時代にローマ12章1節の「あなたがたのからだを……献げなさい」というみことばを聞いて、伝道者になる献身の決意に導かれたという神学生がいましたが、彼はそれを母教会の牧師に話したら、すぐに続く箇所に「思うべき限度を超えて思い上がってはいけません」とも書いてある。それが本当に神の召しなのか、一年間、考えて見なさいと言われたという人がいました。
一年間、かけて改めて神の召しを確信したので神学校に入って来たと証ししておられました。別に伝道者になることが「思い上がる」ことと言うわけではなく、「神が各自に与えてくださった信仰の量り」に基づく、神の一方的な召しの確信が何よりも大切なのです。
ここの「思い上がってはなりません」と似た表現が11章20節で、ユダヤ人と異邦人クリスチャンに関して、「彼らは不信仰のゆえに折られたが、あなたは信仰により立っています。高ぶって考えてはいけません。かえって恐れなさい」と記されていました。
またその25節では、「あなたがたが自分を知恵ある者としないためです。それは、イスラエルの一部の頑なさが生まれたのは異邦人の満ちる時が来るまでであること、またそれによって、すべてのイスラエルが救われることです」と記されていました。
つまり、ここで命じられている第一の趣旨は、異邦人クリスチャンがユダヤ人の不信仰を軽蔑してはならないということにあります。
ただしその文脈の中で、「慎み深く考えなさい……信仰の量りに応じて」と記される「量り」とは「測り竿」とも訳されることばで、共通の信仰の基準に応じてという意味です。
それは、10章9節で「もしあなたの口においてイエスを主と告白し、あなたの心において神はこの方を死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われることになります」と記されていたイエスを救い主と受け入れる信仰に他なりません。
「信仰」は「神が各自に与えてくださた」という一方的な賜物で、そのレベルを測れるようなものではありません。ですから、「信仰の量り」に応じてとは、与えられた信仰によってという意味に過ぎません。
「私たちは一つのからだに多くの器官を持っていますが、すべての器官が同じ働きを持つことがないのと同じように、そのように大勢いる私たちもキリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです」(12:4、5) という表現には、この文脈では、ユダヤ人とギリシア人が、キリストにあって一つのからだで、それぞれかけがえのない一器官であるという意味に他なりません。
これとほとんど同じ表現が、コリント人への手紙第一12章12、13節では、「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分(器官)があり、からだの部分(器官)が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです」と記されています。
当時の社会では、ユダヤ人とギリシア人がいっしょに食事をすることはありませんでしたし、奴隷と自由人には決定的な格差がありました。自由人には市民としての権利がありましたが、奴隷は人格権のない商品と見られていました。
そのように当時の社会では決して一つのからだに属する存在と見られなかった者たちが、互いをキリストのからだの一部とみなすことができました。その秘密は、一つの聖霊の働きが、多くの器官を一つにまとめることにありました。
そのコリント書の続きでは、「実際、部分(器官)は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかよりも弱く見える部分(器官)が、かえってなくてはならないのです」)同12:20–22) と記されています。
これは先の「大勢いる私たちもキリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです」ということばの意味をよく表しています。
私たちはつい一つのグループの中で、誰がこの中でより重要な存在かという比較をしがちですが、「弱く見える部分が、かえってなくてはならない」と記されているのは画期的です。
実際、たとえば小学校のクラスに他の人の助けを適度に必要とする障害児がいるときに、クラスの雰囲気が変わってみんなが優しくなると言われるのと同じです。反対に荒れているクラスは、目立った弱い子がいなく、みんなが互いに張り合っていると言われます。
それはキリストのからだである教会でこそ豊かに体験できることではないでしょうか。聖書も開いて読むことができず、賛美の声も上げられないような人が、かえって交わりを豊かにする場合があるのではないでしょうか。
3.「私たちは、与えられた恵みに従って異なる賜物を持っている」
12章6–8節はひとつの文章で、厳密にはそこには主動詞が用いられていません。それは原文の直訳によれば次のように訳すことができます。
そして私たちは、与えられた恵みに従って異なる賜物を持っているので、もしそれが預言であれば信仰に応じて、奉仕であれば奉仕において、教えることであれば教えることにおいて、勧め(励まし)をするのであれば勧め(励まし)において、分け与えるのであれば惜しむことなく、指導するのであれば熱心さの中で、慈善を行うのであれば喜びにおいて(行いなさい)。
感動的なのは最初に「私たちは賜物を持っているので」と、一人ひとりが例外なく、「与えられた恵みに従って異なる賜物を持っている」ということを前提として、それに続いて七つの賜物がリストアップされます。なおそこでも、預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善それぞれにおいての動機が問われています。
「預言であれば」とは、何かの未来予言をするのではなく、数千年前に記された神のことばを今の時代の人々の心に分かりやすく語ることだと思いますが、そこでは「信仰の割合に応じて」と、分け与えられた信仰に応じてのみことばの分かち合いが問われるということです。
また、「奉仕であれば奉仕において、教えることであれば教えることにおいて、勧め(励まし)をするのであれば勧め(励まし)において」と三回にわたっての「おいて」ということばで、奉仕の動機が奉仕自体の中に、教えの動機が教え自体の中に、勧め(励まし)の動機が勧め(励まし)自体の中にあることを意味します。
それぞれの賜物が何かの目的のためというよりも、賜物を生かせること自体が喜びになっているという意味です。
さらにそれが、「分け与え」の動機が「惜しむことなく」、「指導」の姿勢が「熱心さの中で」、「慈善においては喜びにおいて」という心の在り方が描かれているということです。
つまり、御霊の賜物を生かすとは、まるでそこでは自分の身体が自然に動くというような姿勢になっているというのです。これは心理学的には「フロー」の状態と呼ばれます。そこにはストレスや不安はなく、まさに何かの動かされるような自由な感覚があります。
ですから、ここには動詞形が用いられずに、神に与えられた賜物が自由に生かされるという感じが描かれているのです。
なお、Ⅰコリント12章にはこのリストとは大きく異なる九つの賜物が描かれていますが、その流れの中で、それらの賜物を「誇る」ことの落とし穴を指摘されており、その結論でそれらすべてが「愛がなければ何の役にも立ちません」とまとめられます (同13:3)。
賜物を発見することが大切なのではなく、無意識のうちに自分の心とからだが聖霊によって動かされ、そこに「愛」が現わされているということ自体が大切なのです。
ですからここでも12章9–13節で、「愛は偽りがない(偽善がない)ものです。悪を憎み、善に結びつき(親しみ)、兄弟愛において互いに慈しみ、互いへの尊敬において競争し合い、熱心さに怠けることなく、霊に燃え、主に仕え、望みにおいて喜び、苦難に耐え、祈りに専念し、聖徒たちの必要に参加し合い(コイノネオー)、旅人のもてなしに努めながら」と訳すことができます。
ここにも主動詞はありません。すべてが最初の、「愛は偽りがない(偽善がない)ものです」を説明する12の分詞または形容詞句になっています。
最初の「愛」は「偽りがない」(12:9) とは「偽善ではない」と記されています。それは心の底から聖霊の働きで湧き出すものであるという意味です。
それに続いて「悪を憎み、善に結びつき(親しみ)」という私たちの心の動きが「憎む」と「親しむ」という明確な対比として描かれます。それこそ「偽善ではない」ことの現れとも言えましょう。
さらに10節の「兄弟愛」とはフィラデルフィアというギリシア語で米国の都市の名にもなっていますが、「兄弟愛において互いに慈しみ(愛し合い)」と勧められます。
ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人が神の家族として、互いに慈しみ合うという交わりのただ中に、真実の愛が証しされるのです。
また続く「互いへの尊敬において競争し合う(新改訳『互いに相手をすぐれたものとして尊敬し合いなさい』」というのは本当に面白い表現です。「愛」のギリシア語のアガペーに一番近いことばは「尊敬する」とか「大切にする」という意味です。ですから生活困窮者に上から目線で施すような行為は「愛」の本質に反します。相手の人格への尊敬が愛の基本です。
これは、たとえば互いに「あなたこそ上座にふさわしい方です」「あなたこそこの働きにおいて名誉を受けるべきです」と言い合うような関係で、最近のことばでいえば「マウントを取る」の正反対の概念です。「尊敬競争」と呼ばれる行動をぜひ私たちの教会でも実践してみたいものです。
11節の「熱心さに怠けることなく(勤勉で怠らず)」の「熱心さ」とは、8節の「指導するのであれば熱心さの中で」と言われた「熱心」と同じことばで、それにおいて「怠惰にならない」ようにという勧めです。
「霊に燃え、主に仕え」(11節) とは、まさに信仰生活の核心を突くような簡潔な表現です。
私たちの愛は「霊に燃え」るという聖霊の熱い働きから生まれます。また私たちはこの世の職場や自分が置かれている共同体に仕えますが、その背後には「主に仕える」というすべての働きの基本があります。
また「望みにおいて喜び」(12節) は、まさに「喜び」の原点が「望み」にあるという意味です。
また、「苦難に耐え、祈りに専念し」も面白い表現です。ここには、「苦難を避ける」ことではなく「苦難に耐える」ことが勧められています。「愛するとは傷つくこと」とも言われるように「苦難に耐える」覚悟がなければ人を愛することができません。
またその中で「祈りに専念する」ことが勧められています。
また、13節では「聖徒たちの必要に参加し合い(コイノネオー)、旅人のもてなしに努めながら」と、まさに隣人愛の実践が勧められています。
「聖徒たちの必要」に「参加し合う」とは、クリスチャンが互いの必要を自由に語り合い、その必要を満たすために自分の持つ財産を自由に分かち合うこと(コイノニア)ができる恵みです。
また「旅人のもてなしに努める」とは、隣人愛を見知らぬ人にも広げるという動きです。これらすべてにおいて、「愛」が何かの義務ではなく、それぞれの心の底から生まれる純粋な働きとなることが求められています。
「」というドイツ語の賛美あります。それはこの教会が始まった年の曲で、それから間もなくこれをドイツ人の宣教師から紹介され、深い感動を覚えました。そこでは、このままの自分を神に喜ばれる生きたささげ物とすることの幸いが歌われています。
神はこのままの私を、そのままの姿で招いてくださっています。そこで何よりも問われるのは、神の前に正直であることです。イエスの十字架を前に、私たちは自分の罪深さを隠す必要はありません。
ただ同時に、私たちはそのままの姿に留まる必要はありません。神はご自身の目的のために、私たちの個性を良く生かす道を開いてくださいます。
「愛は偽りのないもの」とありますが、私たちそれぞれの賜物が生かされる固有の愛し方があります。聖書には、あなたのことが書いてあります。そこには私たちの想像を超えた、全能の神の御手にある生かされ方があるのです。