マタイもマルコも、イエスの十字架上のことばを一つしか記していません。それがこの冒頭の「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びです。
福音書だけを読んで、これに出会った時、愚かにも、「何と往生際の悪いことか……」と失望してしまいました。しかし、今は、「神の御子が私たちと同じ気持ちを味わってくださった……」と、心から感謝できます。
私はずっと、人から見捨てられることを恐れて生きて来ましたが、それは全ての人間の根本的な恐れでもありました。そこで多くの人々は、この世と調子を合わせながら、創造主から離れて生きてしまいます。
イエスは十字架で、確かに私たち全人類の罪を負って、神から見捨てられた者となられたのですが、そのどん底の苦しみの中で、「わたしの神」と呼びかけています。父なる神が沈黙しておられてもあきらめてはいません。
6–8、11–18節では、イエスが十字架で人々から嘲られ、見捨てられた様子が生々しく描かれています。
この苦しみはイエスの千年も前にダビデが描いたものですが、それは全人類が心の底で恐れているものでもあります。そしてイエスは、その人間の根源的な不安をともに味わいながら、「遠く離れないでください……私を救ってください」(19–21節) と、主を呼び求め続けます。
そして、21節三行目から、主が「答えてくださる」様子が描かれます。
22節は、イエスの復活の後の告白としてヘブル人への手紙2章12節で引用されます。そして、主への賛美が初代教会から現代の「地の果て」まで伝わる様子が22節以降に描かれます。
24節では、「主は……御顔を隠されもしなかった」と、冒頭のことばと正反対のことが記されています。
つまり、主が遠く離れておられるように思える主の沈黙は、主の圧倒的な救いを体験するための舞台であったのです。これを心から味わう時、私たちはどんなときにも、人の顔色を見る代わりに、主に信頼し続けることができます。
【祈り】主よ、私たちは人から見捨てられることばかりを恐れて、あなたの眼差しを忘れることがあります。あなたの沈黙を、祈りを深める機会とさせてください。