多くの人々は回心の体験と聞くと、「真理を真面目に探究した結果、また自分の人生に深く悩んだ結果、イエス様以外に救いはないということを発見できた」というイメージを抱きがちです。
しかし私たちの仲間の中にそのような人は殆どいません。多くの場合、何か説明はできないけれど、「ふと、信じたいと思った」というものです。しかし、実はそれこそが健全な回心です。なぜならそれは聖霊のみわざだからです。
このことに関してイエスは、「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」(ヨハネ3:8) と言われたからです。
使徒パウロは、多くのユダヤ人がどうしてイエスを救い主として信じられないのか深く悩み、葛藤し、そこから神の「奥義」を旧約聖書から示されることになります。まさに回心とは、啓示されている「奥義」です。
1.「奥義——イスラエルはみな救われる」
使徒パウロは、救い主を拒絶したユダヤ人が再び導かれる可能性に関して、「彼らであっても、もし不信仰の中に居続けなければ、接ぎ木されます……もし、あなたが自然によるオリーブの木から切り取られ、自然に反して、栽培された(良い)オリーブに接ぎ木されたのであれば、さらにいっそう、自然のうちにあるこの者たちは、自ら固有のオリーブに接ぎ木されることでしょう」(11:23、24) と記しました。
つまり、ユダヤ人は異邦人よりも本来は回心に導かれ易く、主の民として「接ぎ木」され、豊かな実を結ぶ可能性があると述べていたのです。ユダヤ人が「頑なにされ」たのは、「主のみこころ」だったからです (9:18)。
11章25–27は一つの文章で、原文の語順では次のように記されます。
「私はあなたがたに知らないでいて欲しくはありません、兄弟たちよ、この奥義に関して。それは、あなたがたが自分を知恵ある者としないためです。
それ(奥義の内容)は、イスラエルの一部の頑なさが生まれたのは異邦人の満ちる時が来るまでであること、またそれによって、すべてのイスラエルが救われることです。
それは、次のように記されているからです。『シオンから救い出す者が現れる。そしてヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶ(彼らのために結ぶ)わたし(から)の契約である。それはわたしが彼らの罪を取り除くときである』と」
パウロはユダヤ人の最終的な「救い」は人間の知恵による理解を超えた「奥義」であるとまず記します。そしてその内容に関してまず「イスラエルの一部の頑なさが生まれたのは異邦人の満ちる時が来るまで」と記します。
「異邦人が満ちる」とは、曖昧な表現ですが、イエスご自身が「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタイ24:14) と言われたことを指すと思われます。
異邦人は知恵や信仰を誇ることはできません。ユダヤ人がイエスを救い主として受け入れないのは、異邦人宣教が進められるためだったというのです。
その結果が、「それによって、すべてのイスラエルが救われる」と記されます。それは文脈からすると、すべての肉のイスラエルがイエスを主と告白することを明らかに示します。それこそが「奥義」であり、旧約の預言の成就として実現することだというのです。
中心的に引用されたことばはイザヤ書59章20、21節からのもので、そこでは「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに。―主のことば。これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と記されていました。
そこでの「シオンに……来る」が、「シオンから……現れる」という逆の表現になるのは何とも不思議です。
しかも、そこでの「ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに(来る)」という表現をパウロは、「ヤコブから不敬虔を除き去る」という表現に変えています。
この違いはギリシア語七十人訳でも明確には解決できません。しかし、それはイザヤ59章全体の文脈から明らかになります。
イザヤ59章ではその11節で「公正を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、私たちから離れている」とまず記され、15節後半と16節では、「主 (ヤハウェ) はこれを見て、公正がないのに心を痛められた。主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに唖然とされた。それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を支えとされた」と記されていました。
つまり文脈からすると、明らかにヤコブが自分で「背きから立ち返る」わけではなく、主が立ち返らせてくださるのです。
しかも、「シオンに来る」が「シオンから現れる」と変えられる背後には、イエスが十字架でイスラエルの罪を「贖う」ために来て、その後、復活し、「シオンから」「救い出す者」として「現れ」、「ヤコブから不敬虔を除き去る」ということになります。
まさにイザヤ書59章にイエスの「十字架と復活」を合わせて見ると、それはローマ書の11章26節と同じになるのです。その上で、それが主ご自身から生まれた一方的な「契約」であると述べられることになります。
また、その「契約」について、「それはわたしが彼らの罪を取り除くときである」と記されるのは、イザヤ27章9節からの引用です。
ただそこでのヘブル語原文もローマ書とは異なり、「これが、自分の罪を除いて得る実のすべてだ」と記され、彼ら自身が目の前の偶像を捨て去るという「行い」によって「自分の罪を除く」かのように記されています。
ただしこのみことばはイザヤの黙示録とも呼ばれる24–27章全体の文脈から理解される必要があります。特に25章1節の「主 (ヤハウェ) よ、あなたは私の神……あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに真実に成し遂げられました」という記述は決定的です。
その主の一方的なみわざから始まり、「万軍の主 (ヤハウェ) は……万民のために……永久に死を呑み込まれる……主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる」(25:6-8) と、主の一方的で圧倒的な救いのみわざが記されていました。
26章19節でも「あなたの死人は生き返り、私の屍は生き返ります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ……地は死者の霊を生き返らせます」と記されます。
つまり、イスラエルの民は、自分の意思で偶像を取り除いているようでありながら、主の圧倒的な救いのみわざを体験する結果として、偶像を破壊し「自分の罪を除いて」いるのです。つまり、主が「それはわたしが彼らの罪を取り除くときである」と語られたのは、文脈全体の要約なのです。
また、これが神ご自身の側からの一方的な「契約」と呼ばれるのは、イザヤ59章21節の成就ですが、それはエレミヤ31章34、35節でより分かりやすく、「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである……わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す……
彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ……わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ」と記されています。
これもまさに、圧倒的で一方的な主の救いのみわざです。
つまり、「それによって、すべてのイスラエルが救われる」とパウロが記すために引用されたイザヤ預言は、「神の奥義」が旧約預言からパウロに現わされた結果の、自由な引用だったのです。
このみことばから、終わりの時代にすべての肉のイスラエルが、イエスを救い主と信じなくても自動的に救われるとか、神はイスラエルのために「千年王国」という特別な計画を用意したとか、様々な解釈が生まれていますが、これはイザヤやエレミヤその他、旧約の預言から見たら、ごく当然の結論に過ぎません。
小生は拙著「小預言書の福音」において、「預言書全体には、『イスラエルの死と復活』という一貫したメッセージがあります」ということばを引用していますが、まさに「イスラエルの復活」とは、イスラエルの最終的な「救い」であり、それは神の「新しい契約」として、異邦人クリスチャンばかりか、肉のイスラエルにも実現することです。
神は、私たちの想像を超えた形で、イスラエルの民に聖霊を注ぎ、彼らの中にイエスを主と告白する信仰を生み出してくださいます。まさに、異邦人が救われたと同じように肉のイスラエルも救われるのです。
2.「神がすべての者を不従順に閉じ込めたのは、すべての者をあわれむため」
11章28、29節には、「福音に関しては、あなたがたのゆえに彼らは神に敵対している者です。しかし、選びによれば、父祖たちのゆえに神に愛されている者です。それは取り消されることがないからです、神の賜物と召命は」と記されます。
最初の「あなたがたのゆえに」とは、異邦人が律法を守ることなく「神の子」として受け入れられるという「福音」に、ユダヤ人が猛反発して「神に敵対している者」となっていることが背景にあります。異邦人の救いが進んだ結果として、ユダヤ人は、無意識のうちに「神に敵対して」しまったのです。
しかし、それは彼ら自身の側で、神を捨て、「神に敵対した」という意味ではありません。彼らは確かに全世界の民族の中から、アブラハムの子孫として神に選ばれ、「神に愛されている者」なのです。
そのことはパウロが9章で彼らの救いを切実に望みながら、「この人たちはイスラエル人です。息子とされること (sonship) も、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らからのものです」(4、5節) と記していたとおりです。
しかも11章11、12節では彼らがイエスにつまずいた理由が、「彼らがつまずいたのは、倒れるためなのでしょうか。決してそうではありません。かえって彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、彼らにねたみを起こさせるためです。
しかし、彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるというなら、何と偉大なことになるでしょう、彼らが満ちる(みな救われる)ことは」と記されていました。
先に「異邦人の満ちる時」と言われた同じ表現で、「彼ら(ユダヤ人)が満ちる」と表現されています。つまりパウロの中では、ユダヤ人がイエスを救い主と告白する教えに「つまずく」のは、「救い」が異邦人に及び、ユダヤ人にねたみを起こさせ、最終的に彼らが「満ちる(みな救われる)」というゴールに至るプロセスなのです。
ただ、異邦人が一人残らず救われるということが「満ちる」を意味はしないのと同じように、「彼ら(ユダヤ人)が満ちる」ということばも、肉のユダヤ人が一人の例外もなく救われるということを意味するわけではないと思われます。
大切なのは、ユダヤ人がイエスを信じることへの「つまずき」が取り除けられることではないでしょうか。それはユダヤ人を迫害し続けてきたキリスト教会の歴史が、徹底的に悔い改められ、ユダヤ人がイエスを信じることの文化的、社会的な障害が取り除けれられることと言えるかもしれません。
なお、ユダヤ人が「神に愛されている者」であるという理由が、「それは取り消されることがないからです、神の賜物と召命は」(11:29) と記されます。
最初のことばは「変わることがない」と今まで訳されてきましたが、その中心的な意味は「後悔されることがない」というものです。それで今回の新改訳2017年版でも、聖書協会共同訳でも「取り消されることがない」と訳されるようになりました。
とにかく、神はイスラエルという民族を選んだことを「後悔することはない」という意味になります。確かに、主(ヤハウェ)はかつて「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ」(Ⅰサムエル15:11) と言われたことがありました。
ただその直後にサムエルは、「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることなく、悔やむことがない。この方は人間ではないので、悔やむことがない」(同15:29) と言っているように、その神の「悔やみ」は、人間的な意味での「後悔」ではありません。それは深い悲しみを意味します。
私たちの場合も神の一方的な「選び」によって賜物を与えられ、「神の子」として生きるように召命を受けたました。
つい私たちは自分の成長のなさや愚かさを知れば知るほど、神は私たちを選んだことを、サウルの場合と同じように「悔やまれる」のではないかと誤解することがあるかもしれません。
しかし、神がダビデの罪のゆえに彼を退けなかったのと同じように、私たちを退けることはありません。何よりも心に留めるべきなのは神の圧倒的な愛です。
それは8章31、32節で、「もし神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対するでしょう。この方は、ご自身の御子をさえ惜しみませんでした。かえって私たちのためにこの方を(死に)引き渡されたのです。それならば、どうして、御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」と記されていたとおりです。
神はこのままの私たちを、ご自身の計画に用いるために、永遠のご計画の中で「選んで」くださいました。実際のところ、あなたがその先祖から受け継いでいる弱さや、親と同じ過ちを繰り返すことも、神にとっては想定外のことではありません。
自分の様々な弱さを、先祖から受け継いでいるものと見ることで、自分を受け入れやすくなるかもしれません。神はあなたが繰り返し同じ間違いを犯すことを理解した上で、あなたを選び、賜物を授けてくださったのです。
さらに11章30–32節には、「それはちょうど、あなたがたはかつて神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえにあわれみを受けているのと同じように、彼らが今、不従順であるのは、あなたがたのものとされたあわれみのゆえで、それは彼ら自身も今、あわれみを受けるためなのです。
すなわち、神がすべての者を不従順に閉じ込めたのは、すべての者をあわれむためだったからなのです」と記されます。
ここには「今」ということばが三回繰り返されます。三回目の「今」が省かれている異本も多くありますが、これに続く「不従順に閉じ込めたのは……あわれむため」とのつながりを理解するためには、「ユダヤ人も『今』、あわれみを受けるため」と訳した方が文章が理解しやすくなります。
これは、過去二千年間のイエスを拒絶してきたユダヤ人が、すべて、今、神のあわれみを受ける対象と言われるという大きな宣言です。
異邦人は、まことの神を知らず、神に不従順でしたが、彼らが神の民とされたのは、ユダヤ人がイエスを救い主であることを認めなかったためでした。そのことが、ユダヤ人の不従順が、異邦人を従順に導いたという逆説として語られます。
そして今、神の「あわれみ」が異邦人クリスチャンの「ものとされている」ように見えるのは、ユダヤ人が「あわれみを受けるため」だと言われます。
さらにそれが、「神がすべての者を不従順に閉じ込めたのは、すべての者をあわれむためだった」と記されます。
私たちはみな、かつては神の目に「不従順」だったのですが、自分の知恵や信仰によって「神の子」とされたのではありません。それはすべて神の一方的な「あわれみ」のゆえでした。
人間の目には、多くの人の「不従順」という現実が見えて初めて、神の一方的なあわれみが明らかになります。ユダヤ人の一時的な不従順は、神のあわれみを際立たせるための神のご計画であって、私たちが彼らの不信仰を軽蔑できる立場にはありません。
3.「だれが、主の心を知っているのですか」
11章33–36節は、9章から続く議論をまとめるような神への賛美のことばです。それは原文の語順では、
「ああ、何と深いことでしょう、神の知恵と知識の豊かさは。
それは何と極め難いことでしょう、そのさばきは。
また何と測りがたいことでしょう、その道は。
というのも 『だれが、主の心を知っているのですか、
だれが、この方の助言者になったのですか。
また、だれがまずこの方に与え、この方からの報いを受けるのですか。
すなわち、すべてのものがこの方から発し、この方によって成り、すべてがこの方に至るからです。どうかこの方に、栄光がとこしえにありますように、アーメン』」
と訳すことができます。
最初の「神の知恵と知識の豊かさ(または「神の富と知恵と知識」)」は、人間的な「深さ」の尺度では計り得ないものです。
かつてヨブは、因果応報に似た論理を説く友人たちに向かって、自分が厳しいわざわいを受ける理由が分からないと訴え、「知恵はどこで見つかるのか……それは生ける者の地では見つからない。深淵は言う。『私の中にそれはない』。海は言う。『私のところにはない』」(ヨブ28:12–14) と告白していました。
それは人間の知恵の決定的な限界を認めることばでした。私たちもわざわいに会う原因を人間的な知恵に求めてはなりません。
一方、「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです」(Ⅰコリント2:10) ということばもあることは慰めです。御霊は必要に応じて私たちに神の「知恵」を与えてくださいます。
一方で、「主 (ヤハウェ) のさばき」に関しては、「主 (ヤハウェ) はとこしえに御座に着き さばきのために王座を堅く立てられた。主は義によって世界をさばき 公正をもって もろもろの国民をさばかれる」(詩篇9:7、8) と記されるように、主ご自身がこの世界を治めておられることを指しますが、その基準は人間の目には「何と極め難い (unsearchable) ことでしょう」と言われます。
また「その道」は「何と測りがたいことでしょう」とは、beyond tracing out, untraceable とも訳され、イスラエルが紅海を横断したときの神のみわざが「あなたの道は 海の中……あなたの足跡を見た者はいませんでした」(同77:19) と記されることを思い起こさせます。
引用された「だれが、主の心を知っているのですか、だれが、この方の助言者になったのですか」とは、イザヤ40章13節からの「だれが主 (ヤハウェ) の霊を推し量り、主の助言者として主に教えたのか」かと思われます。
そのギリシア語七十人訳では、「主の霊」が「主の心(ヌース、考え、意見、定め)」と訳されています。これは主の救いの「みこころ(ご計画)」は、人の「思い」をはるかに超えているという意味になります。
また続く「また、だれがまずこの方に与え、この方からの報いを受けるのですか」ということばの背後にはヨブ記41章11節での主ご自身による 「だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ」という宣言があります。
私たちは自分の信仰や祈りを、私たちの思いや行いから始めようとする傾向がありますが、それこそが問題なのです。主のみこころは神の啓示によってのみ明らかになります。聖書の黙想がすべての出発点であるべきです。
また最後の頌栄として、「すなわち、すべてのものがこの方から発し、この方によって成り、すべてがこの方に至るからです」と記されます。
この背後にはパウロによる「聞け。イスラエルよ」(申命記6:4) から生まれた黙想、「たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、私たちには唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです」(Ⅰコリント8:5、6) があります。
ところでヨブは、自分の苦しみの原因を最後まで知ることはできませんでしたが、最終的には、自分のわざわいも、自分には把握しようのない神のご支配の中にあることを認め、神に向かって「あなたには、すべてができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました」(42:1) と告白しました。
そしてさらに不思議なことに、「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました」(42:5) と言うことができました。これは彼が自分の肉の目によって「神を見た」のではなく、主の直接的な語りかけを聞いて、すべてのことが神の支配下にあるということを心の底から悟ったことを意味すると思われます。
それこそ私たちが目の前の悲惨の「なぜ、今私に」が理解できないまま、「すべてのものがこの方から発し、この方によって成り、すべてがこの方に至るからです」と告白し、同時に「どうかこの方に、栄光がとこしえにありますように、アーメン」と賛美できる理由です。それこそが私たちに求められている応答です。
私たちはみな、不思議な創造主の導きの中で、イエスを救い主と告白するようになりました。その信仰自体が、私たちの心の働きから生まれたというよりも、神の一方的なあわれみのみわざ、創造主なる聖霊の働きによって生まれたものでした。
ですから、そこで私たちに問われるのは、私たちの「信心の堅さ」のようなものではなく、神から示されたことに対する「心の柔軟さ」と言えましょう。
パウロは「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか」とあのコリントの信者に問いかけながら、「しかし、私たちはキリストの心を持っています」と宣言しました (Ⅰコリント2:16)。
「御霊を消してはなりません (Do not quench the Spirit)」(Ⅰテサロニケ5:19) と命じられるように、私たちは自分の頑固さのゆえに神の「息(聖霊)」の働きを窒息させることができるのかもしれません。
「すべてのものがこの方から発し、この方によって成り、すべてがこの方に至るから」からこそ、私たちが何もしなくてよいというのではなく、私たちが「神の御手の中で」大胆に生かされるということになります。自分の可能性を自分で閉じる代わりに、神によって大きく開いていただきましょう。