ウクライナ停戦に向けてのトランプ大統領の動きが報じられています。そこには期待と同時に、当時者のウクライナやヨーロッパ諸国抜きに話がすすむことへの懸念が出されています。
しかし、この戦争がロシア国内の過剰な危機感から生まれている以上、その懸念が抑えられなければ、ロシアの攻撃を止めさせることはできません。
ロシアにとっての最大の脅威は、米国であるのは明らかで、彼らの気持ちからすると、ウクライナというより欧米と戦っているというのがこの戦争ですから、米国の指導者が単独でロシアのプーチンさんと会い、彼らの過剰な危機意識を和らげることができるなら、そこには大きな意味があると思われます。
少なくとも、ロシアをよく研究しておられる方の見解によると、2014年2月にウクライナでの親ロ政権が崩壊したマイダン革命の背後には、当時の西側からの破壊工作があったと見られているようです。その首謀者が当時の米国の副大統領であったバイデンさんであったという見方さえあるようです。
その前提には、イデオロギー的な意味での「自由と民主主義」という西欧で養われてきた価値観を押し付けるというネオ・コンサーバティズム(ネオコン)の視点があったとも言われます。
それからするとロシアの政権も政策も、単純に「悪」であって、その巨悪を屈服させるために、正義の戦いをせざるを得ないということになります。
昨年の6月末に、ウクライナで活動中の船越宣教師ご夫妻にお越しいただいた時、日本のロシア外交の頭脳とも認められている外交の専門家がお越しくださいました。
その関係で、最近、元駐日ロシア大使のアレクサンドル・パノフ氏が書いた「現代のロシアVS.西側諸国『戦争と平和』」という著書を友人からいただき、すぐに読ませていただきました。
そこに19世紀のドイツを導いた宰相ビスマルクのことばが引用されていました。
彼は、ロシアに武力行使をしても打ち負かすことはできないと警告し、『ロシアの力を破壊できるのは、ウクライナをロシアから引き離し、一つの国家の中で二つの民族を戦わせた場合だけだ。ウクライナのエリートの中から裏切り者を見つけ出して育成し、彼らの力を借りてウクライナの自己認識を変える必要がある。そうすれば、ウクライナ民族はロシアのすべてを憎むようになる。あとは時間が解決するだろう』と語ったとのことです。
僕は、このビスマルクのことばに従って、米国や西欧諸国がウクライナを動かしてきたとは思いませんが、少なくとも、ロシアの権力者たちがそれを恐れていたのは確かだと思います。だからこそ、プーチンさんは、ウクライナの指導者を「ネオナチ」と呼んでいます。
ロシアは西側諸国から攻撃を仕掛けられていると心の底から信じています。そしてウクライナで起きている反ロシアの動きは、西側諸国の謀略の結果だとみています。ロシアは、第二次大戦を「大祖国戦争」と呼び、それは西側諸国からのロシアへの攻撃と位置付けています。
そしてロシアは第二の「大祖国戦争」によって、自国を西側の攻撃から守ろうと必死なのです。
残念ながら、米国を中心とした西側諸国も、またそれからの攻撃を過剰に意識しているロシアも、現実を超えた観念というイデオロギーの戦いをしているようにも見えます。
その点で、トランプ政権が変化を起こすという期待が持たれています。
なぜなら、トランプさんは、損得勘定しか考えない政治家と見られているからです。彼は「ネオコン」のように、「自由と民主主義」という「正義」を守るための戦争は考えません。
昨年の6月に船越先生が強調しておられたのは、「この戦争は必ず終わりを迎える。ただ、そのときに国内で、絶望感や互いを非難し合う思いが社会の雰囲気を支配するようになることが心配だ」という趣旨のことを語っておられました。そのために船越先生は聖書の福音を語り続けておられます。
戦争は、自分の価値観の枠で相手の価値観を徹底的な「悪」と位置付けてしまうことから正当化されます。絶対的な「悪」を取り除くために、それぞれが正義の戦いに命を懸けてしまうのです。
しかし、人間の「罪」の根源は、自分を神の立場に置いて、自分の価値観を絶対化することにあります。
目の前に何か都合の悪いことが起こったら、それは誰かの責任だと断定し、その価値観を押し通すことができる人が、この世で強い人と見られるということがあります。
しかも、その際、その悪に対する憎しみが、味方の団結を生み出すという皮肉があります。その憎しみ合いは、戦争終結後の世界をも支配します。
今日は、世界の指導者たちのために祈る 詩篇20篇をご紹介します。
詩篇20篇「主よ、王をお救いください」
詩篇20、21篇は「王の詩篇」としてセットになっています。20篇は王の勝利を祈ったもので、21篇はその祈りをかなえてくださった主に感謝するという内容です。
1–5節の「あなた」とは、王であるダビデとその子たちを指し、会衆がそろって王を「あなた」と呼びながら、執り成しの祈りを献げるものです。最初に、「苦難の日に」王の願いがかなえられ、王が高くあげられるように、続けて、王の「全焼のいけにえ」が受け入れられるようにと祈られます。
そして、4、5節では、王のはかりごとが遂げられ、敵との戦いで勝利が与えられるようにと祈られます。これらは、出陣の際の祈りと考えられます。そして、私たちも、指導者たちのために祈る必要があります。
6–8節では、会衆が王のことを覚えながら、主の救いを確信すると告白します。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主 (ヤハウェ) の御名を誇ろう」(7節) とは、私たちが暗唱すべき信仰告白と言えましょう。
私たちは小さい時から、この世の教育で、「より速く」「より強く」「より賢く」なるための訓練を受けています。確かに、神が私たちひとりひとりに預けてくださったタラントを磨いて生かし、主の働きのためには用いていただくことは大切です。
しかし、そこで、「自分の力を自分の神とする者は、罪に定められる」(ハバクク1:11私訳) という霊的な現実を決して忘れてはなりません。私たちは主 (ヤハウェ) の御名をこそ誇るのです。
「彼らは、ひざをつき、そして倒れた」(8節) とあるのは、まさに「自分の力を自分の神とする者」の結末です。
一方で、「主を誇る」「私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った」と告白できるようになります。
そして、最後に、そのことを覚えながら、「主 (ヤハウェ) よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに……答えてください」と祈りが締めくくられます。私たちも指導者のために、このように祈りたいものです。
【祈り】 主よ。私たちの回りに様々な指導者が立てられていることを感謝します。そのひとりひとりのために、このように祈る者とさせてください。