エレミヤ49、50章「失敗の本質に見られる主のさばき」

2025年2月16日

日本の組織の硬直性を描いた名著に「失敗の本質―日本軍の組織的研究」があります。そこで「成長期には異常な力を発揮するが、持久戦にはほとんど敗者復活ができない。成長期には、組織的欠陥はすべてカバーされるが、衰退期にはそれが一挙に噴出してくる」という結論が記されています。

これはいろんな分野に適用できる知恵です。ただ、同時に日本軍の敗北の最大に原因に「日露戦争の勝利から生まれた高慢さ」があったことも確かだと思われます。

またそれは過去30年余りの日本経済の停滞の原因の中に、1990年のバブル経済崩壊の前に生まれた「Japan as Number One」とおだてられて喜ぶような高慢さがあったとも言えましょう。

今日の箇所には、様々な国に対する神の厳しいさばきが描かれます。そして歴史はその通りに展開しました。この世での失敗の背後に、高慢に対する神のさばきを見ることもできましょう。

1.「わたしの燃える怒りをその上に下す」

49章1–6節で、主(ヤハウェ)はモアブの北にある「アンモン人」の国に対するさばきを宣告されます。モアブ人もアンモン人もアブラハムの甥のロトの子孫で、ヨルダン川東側にあり、イスラエルと争いを続けていました。

そこは昔、ガド族への割り当て地だったため、「イスラエルには子がないのか。世継ぎがないのか。なぜ、ミルコムがガドを所有し、その民が町々に住んでいるのか」(49:1) と問われます。

ミルコムとはアンモンで礼拝されていた偶像の神で、幼児をいけにえに要求する邪教です (32:35)。ミルコムには「王」という意味があるため「彼らの王」とも訳されますが、現在の訳の方が偶像の神が十二部族の一つのガドを支配するという皮肉を現せます。

そして主(ヤハウェ)は、「アンモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ」(49:2) と言われます。ラバはアンモンの首都(現在のヨルダンの首都アンマン)ですが、そこがやがてイスラエルの支配となるというのです。

「ヘシュボンよ。泣き叫べ」(49:3) と言われますが、ヘシュボンはモアブの町としても登場します。それはこの町が、両国の国境にあったからです。アイという町の所在は不明ですが、アンモンの町々が破壊されたことは確かです。

そして、「ミルコム(彼らの王)が、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれるからだ」(49:3) と記されます。ここでも「ミルコム」と訳すことで、アンモン人の神モレク(単数形)が捕囚とされるという皮肉と理解するほうが、48章7節のケモシュの捕囚と並行して文脈に即していると思われます。

「背信の娘よ。おまえの谷には水が流れている。なぜ、その谷を誇るのか」(49:4) とは、彼らがヤボク川近辺の土地の肥沃さを誇っていたことを指しています。

そして彼らは「自分の財宝に拠り頼んで」、「だれが、私のところに来るだろう」と言いながら安逸をむさぼっていました。これはモアブの場合と同じです (48:7、11)。ヨルダン川東の地域は地中海岸の大動脈路とは異なり、大国の支配を避けて平安を保つことができたからです。それに対し主は、「わたしは四方からおまえに恐怖をもたらす」(49:5) というさばきを宣告されます。

ただしここでも、その悲惨の後に「わたしはアンモン人を回復させる」(49:6) というモアブと同じ約束 (48:47) が与えられます。主(ヤハウェ)は、「財宝に拠り頼んで」いた小国をも、謙遜にした上で、救いに導いてくださいます。

私たちも周りにも、大金持ち知恵者でもないのにお金の力に頼り、また危ない教えに頼る人がいることでしょう。しかし、彼らも自分の頼りにしていたものの空しさを知ったとき、真の信仰に目覚めます。

49章7–22節は「エドムについて」のさばきです。これはオバデヤ書と重なっている部分があります。エドムはヤコブの兄のエサウの子孫で、死海の南からアカバ湾に至る地を支配していました。

「テマンには、もう知恵がないのか……彼らの知恵は朽ちたのか」と記されますが、テマンはエドム北部の町で、彼らの誇りは自分たちの知恵でした。それもアンモン人の財宝と同じように、何の役にも立ちませんでした。なおヨブを非難した友人の一人「テマン人エリファズ」は、この地の出身だったと思われます。

また8節の「デダン」とはエドムの南西にあるオアシスの小国で、エドムの災いに巻き込まれることを警告したものと思われます。

「ぶどうを収穫する者が……来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろう……わたしはエサウを裸にし……彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられ、彼はいなくなる」(49:9、10) と記されるのはエドムがバビロンによってそのすべての富を奪われ廃墟とされることを意味します。

そして「おまえのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生きながらえさせる。おまえのやもめたちは、わたしに拠り頼まなければならない」(49:11) と世話をできる成人男性が誰もいないほどに国が無力とされることを示します。

ただそこには、みなしごややもめが自分たちの弱さを心から自覚するからこそ、主に拠り頼むことができるという希望が示唆されます。

そしてエドムの滅亡が不可避なことが、「見よ。その杯を飲むように定められていない者でも、それを必ず飲まなければならない……おまえは必ず飲まなければならない……わたしは自分にかけて誓う……必ずボツラは恐怖のもと、そしりの的……ののしりの的となる。そのすべての町は、永遠の廃墟となる」(49:12、13) と記されます。

ボツラとはエドムの首都で、その徹底的な破壊が預言されます。しかもそれは近隣の諸国からの一致した攻撃によってなされ、「国々の中の小さい者、人に蔑まれる者」(49:15) とされると言われます。

「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ。おまえの脅かしと高慢はおまえ自身を欺いている。鷲のように巣を高くしても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす」(49:16) と記されるのは、エドムの地が山の多い高地で、彼らは天然の要害の中に引きこもって安心していたからです。

それに対して、主は、エドムの滅亡が、その北に隣接していた、「ソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのように……人は住まず……人の子は宿らない」(49:18) という徹底したものになると預言されます。

そして、「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしの前に立つことのできる牧者であろうか」(49:19) と、主ご自身がひとりの牧者を立ててこの地を治めるということが預言されます。

ここでも主は彼らの高慢をさばいた後の希望を約束します。人は目の前の権力者の力に失望して初めて、主が立てた牧者を受け入れることができるからです。

その上で、「それゆえ聞け、エドムに対して立てられた (ヤハウェ) の計画を、テマンに対して練られた策を」(49:20) と言われながら、主ご自身がバビロンの王を用いてエドムを徹底的にさばく計画が預言されます。

そしてバビロンが「鷲」にたとえられ「見よ。彼は鷲のように舞い上がっては襲いかかり、ボツラに対して翼を広げる。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになる」(49:22) と描かれます。

49章23–27節には「ダマスコ(ダマスクス)について」のさばきが記されます。そこは既に紀元前732年にアッシリアに支配されていますから、その約50年後のエレミヤがこれを書く必要が分からないとも言えます。

しかし預言者イザヤの時代にエルサレムの王アハズは、アッシリアの攻撃を受けた直後のダマスコを訪ね、そこにある祭壇に感動して、エルサレム神殿内にそれを模倣した祭壇を築かせるようなことをしたと描かれます (Ⅱ列王記16:10、11)。

そのような記述に、ダマスコがアッシリアの支配下においてもその繁栄の姿を残していたことを伺い知ることができます。そのダマスコの最終的な破滅がここに描かれていると言えましょう。

そこで「ハマテとアルパデは恥を見た」と最初に記されますが、ハマテはダマスコの北185kmにある地理的にはシリアの真ん中に位置する都市国家、アルパデはそのさらに153kmも北にある都市国家で、そこはシリアの最北端に位置します。これらの町々は、シリアの首都ダマスコの悲惨を聞いて、そこに期待をかけていたことを恥じて混乱するというのです。

それを前提に、「どうして、誉れの町、わたしの喜びの都は捨てられたのか」(49:25) と問われます。ただそこですぐに万軍の主(ヤハウェ)ご自身が「わたしはダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす」(49:27) と言われた結果だと記されます。それは、主の御手の中で、どのように繁栄を極めていた都も簡単に廃墟になり得るということが描かれているのです。

49章28–33節には「バビロンの王ネブカドネツァルが打ったケダルとハツォルの王国について」のさばきが記されます。これはヨルダン川の東のアンモンの地のさらに東に広がるアラビア砂漠の遊牧民の王国へのさばきを指すと思われます。

彼らは、常に移動することに慣れているので、大国の支配下に服することは少ないはずですが、そのような彼らも安心していられないということを、主(ヤハウェ)ご自身が、「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、そのすべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって叫ぶ。『恐怖が取り囲んでいる』と」(49:29) と言われます。

また、主は、「ハツォルの住民よ。逃げよ。遠くへのがれよ。深く潜め……バビロンの王ネブカドネツァルが、おまえたちに対してはかりごとをめぐらし……計略をめぐらしているからだ」と言われます。

ただそこで同時に、主ご自身がバビロンの王に向かって、「さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ」(49:30、31) とその攻撃をけしかけているのだと思われます。

32節に「もみあげを刈り上げている者たち」への主のさばきが記されますが、これは砂漠の遊牧民ベドウィンの風習であったと思われます。

49章34–39節には「エラムについて」のさばきが記されます。その時代は「ユダの王ゼデキヤの治世の初め」、つまりエルサレムの滅亡の10年ほど前です (49:34)。

エラムはペルシア湾の北、現在のイランの南西部で、後にバビロン帝国を滅ぼすペルシア帝国の中心地になります。もし、バビロンにユダ王国への攻撃をやめさせるとしたら、エラムに背後から攻撃させれば良いわけで、そこにエルサレムの希望がありました。

しかし主は、その望みを打ち砕くように「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る」(49:35) と言われます。さらに主はその民を周辺諸国に散らし、彼らを怯えさせ、「わたしの燃える怒りを……下す……彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす」(49:38) と宣言されます。

そして主は「わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす」(49:38) と言われます。これはネブカドネツァルが紀元前595年頃、エラムを支配したことを指すと思われます。主は彼をご自身の代理として用いたからです。

ただし、ここでも最後に主(ヤハウェ)は、「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる」(49:39) と言われます。これはモアブとアモンに対する預言と同じです。

なお、これは将来的な異邦人の救いを意味するとともに、短期的には、エラムがペルシア帝国の中心地域として繁栄することを指すとも思われます。エラムの首都「スサ」(エステル1:2) はペルシア帝国の首都として世界の中心都市となるからです。

人間的な感覚から言えば、主(ヤハウェ)はエレミヤにバビロンの王たちの後にエラムがペルシア帝国の中心地としてバビロンを圧倒することを教えた方が良いように思います。

しかし、46–49章では、主ご自身がバビロンの王ネブカドネツァルを用いて、エルサレムの周辺諸国にさばきを下すことが描かれています。それは、残されたユダの民に、ネブカドネツァルの前にへりくだることが唯一の生き残る道であることを示すことにあります。

ですから、ここではエラムへの期待を大きくするような記述は避けられることになります。当時の人々は、だれよりもネブカドネツァルを「主 (ヤハウェ) の剣」として認め、彼との戦いを避けるしか生きる道がなかったからです。この世の権力者の上に、私たちは主のご支配を認める必要があります (ローマ13:1)。

2.「わたしが残す者を、わたしが赦すからだ」

50、51章は「バビロンについて」の主のさばきが描かれます。エレミヤは、当時の偽預言者たちが、「イスラエルの神、万軍の主 (ヤハウェ) 」が「バビロンの王のくびきを砕く」(28:2、4) などと預言していた中にあって、ひとり、「あなたがたはバビロン王のくびきに首に差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」(27:12) と言いながら、バビロンへの服従を勧めていました。

人々は、エレミヤをバビロン王の手先かのように誤解していましたが、これらかの二つの章で彼は、バビロンに対する主のさばきを驚くほど詳しく、また、多くのことばをもって語ります。

この預言は、バビロンがエルサレムを陥落させて間もなくの、向かうところ敵なしの絶頂期になされたものだと思われます。そこではまだペルシア帝国の登場などは誰も想像してはいません。

「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ」(50:2) と言われるのは、バビロンの滅亡が、圧制に耐えているすべての国々の希望になるからです。

「ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた」での「ベル」とはバアルとも訳される神の名、「メロダク」は「マルドューク」とも訳されます。これは国と偶像は一体なので、「バビロンは攻め取られた」ことの象徴になります。

「なぜなら(まことに)、北から一つの国がそこに攻め上り、その地を荒れ果てさせたから」(50:3) とは、エルサレム陥落の約50年後の紀元前539年に、バビロンがその西に生まれたペルシア帝国によって滅ぼされることを預言するものです。

「北」からとは、イスラエルからの通商路の地理感覚のことばで、バビロンの向こうにある国からの攻撃を示します。それがペルシアを指すとはエレミヤにも知らされてはいませんでした。それは、具体的な国名よりも、それを動かしておられる主(ヤハウェ)のみわざを覚えさせるためでもあります。

「その日、その時……イスラエルの民もユダの民も、ともにやってくる。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、主 (ヤハウェ) を尋ね求める。彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて言う。『さあ、私たちは主 (ヤハウェ) に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって』と」(50:4、5) とは、イスラエルの民が約束の地に帰還し、神殿を再建することを示唆する表現です。

モーセはかつて、主に背く民への「のろい」の実現とともに、その後、「あなたの神、主 (ヤハウェ) は、あなたを元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主 (ヤハウェ) があなたを散らした先の、あらゆる民の中から、再びあなたを集められる」と預言していました (申命記30:3)。

50章6節ではイスラエルの指導者が民を迷わせたと叱責されます。さらにそこで主の民の敵も、その滅亡の理由を、主の無力さの故ではなく、「主 (ヤハウェ) に対して罪を犯したためだ」(50:7) と認めると記されます。

さらに「バビロンの中から逃げ、カルデア人の国から出て行け」(50:8) と勧められるのは、それが預言の成就だからです。聖書は、出エジプトとともに出バビロンを描いています。

また「群れの先頭に立つやぎのようになれ」とは、やぎは囲いの門を開くとすぐにそこから走り出るからです。このように勧められるのは、イスラエルの民がバビロンで安定した生活を享受し、移住を望まなくなっている可能性があるからです。

50章10、11節では、「カルデア(バビロンの中心民族)は略奪され、これを略奪する者はみな、満ち足りる」と預言されながら、彼らについて「わたしのゆずりの地を略奪する者たちよ」と描かれます。それはバビロンの民がイスラエルの略奪を喜んだことへのさばきが行われるという意味です。

さらに諸国の民に向けて、バビロンに関して「彼女に復讐せよ、彼女がしたとおりに、これにせよ(50:15) と命じられます。バビロンは「主 (ヤハウェ) の剣」(47:6) でしたが、彼らが残虐に国々を苦しめたことに対応した復讐がなされるというのです。

50章17、18節では、当時の歴史を振り返るように、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついに、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らった。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主 (ヤハウェ) はこう言われる。『見よ。わたしはアッシリアの王を罰したように、バビロンの王とその地を罰する』」と記されます。

これは、北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリアを滅ぼしたのはバビロンである以前に主ご自身であり、主は同じように、神の民の骨までしゃぶりつくした残虐な王を罰するという意味です。

王国の興亡の歴史を支配するのは主ご自身であり、主は何よりも、その王国の傲慢さにさばきを下します。

しかも、イスラエルの滅亡が、主のみわざであるならば、その回復も主に期待できるという意味で、「わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで満ち足りる」(50:19) と約束されます。

「バシャン」や「ギルアデ」のようにヨルダン川の東側にある肥沃な地までが回復されるとは、神の祝福は、人々の期待を超えたものになるという意味です。

そして、「その日、その時、─主 (ヤハウェ) のことば─イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ」(50:20) と言われます。それは主がご自身の主導で主の民の残りの者のすべての罪を赦すという途方もない約束です。

これは私たちの主イエス・キリストにおいて実現しました。神がご自身の民を苦しめるのは、目に見える力や偶像の神々により頼むことの愚かさを教え、私たちが真心から神に救いを求めるようになるためです。

多くの誤解がありますが、聖書が問題にする「罪」とは、人を害するような悪事を働くという以前に、「神を神としてあがめず、感謝もせず……朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えた」(ローマ1:21、23) ことにあります。

そして「罪の赦し」とは、罪人が、創造主に真心から信頼できるようになるという関係の変化への第一歩です。

3.「おまえは……主 (ヤハウェ) に争いを仕掛けたからだ」

50章23節では、バビロンの滅亡の理由が、「全地を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか」と問われますが、最終的にひとことで、「おまえは……主 (ヤハウェ) に争いを仕掛けたからだ」(50:24) と答えられます。

彼らはイスラエルの神を侮り、その宮を廃墟にしました。それによって、彼らは、天地万物の創造主と戦ってしまったことを知りませんでした。

そこで「バビロンの地から逃れて来た者の声がする。シオンで、私たちの神、主 (ヤハウェ) の復讐のこと、その神殿の復讐のことを告げ知らせている」(50:28) と記されます。これは、主の宮を破壊したことに対する主の復讐の知らせが、バビロンから逃れて来た者たちによって告げ知らされているという意味です。

そしてそのような厳しいさばきを受ける理由が、「主 (ヤハウェ) に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ」(50:29) と描かれます。

そして、「高ぶる者よ。見よ。わたしはおまえを敵とする……わたしがおまえを罰する時が来たからだ」(50:31) と記されます。これはバビロンへの主のさばきの宣言ですが、私たちにとってサタンとそれに従う者たちへの宣告としても理解できます。

預言者イザヤは、バビロンの王に対して、「明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか……」(14:12) とその高ぶりに対するさばきが宣告されていましたが、それは、しばしば、サタンに対するさばきとしても解釈されることがあります。

そして、これはすべて、自分を神として高ぶる者たちへのさばきとして適用できます。

50章30–32節では引き続き、バビロンの高ぶりに対する主のさばきが宣告されます。また33、34節では「イスラエルの子らとユダの子らはともに虐げられている」と記されながら、バビロンの責任が、「彼らを固くつかんで解放することを拒んでいる」と非難されます。

そして「彼らを贖う方は強い……主は、必ずや彼らの訴えを取り上げて、その地を憩わせるが、バビロンの住民は震え上がらせる」という逆転が描かれます。

さらに35–37節では「主 (ヤハウェ) の剣」であったカルデア人に、主の剣が下ると五回にわたって繰り返されます。そして38–40節では、バビロンの地がエドムと同様にソドムとゴモラのような廃墟とされると預言されます。

50章41–43節でのバビロンに対するさばきが「見よ。一つの民が北から来る・・残忍であわれむことがない……彼らのうわさを聞いて気力を失い、苦しみが彼をとらえる。産婦のような激痛が」と記されますが、これは6章22–24節でのエルサレムに対する表現と同じです。

また44–46節でのバビロンに対するさばきの表現は、エドムに対するさばきとほとんど同じ表現です (49:19–21)。主 (ヤハウェ) のさばきの理由も、また方法にも、共通した原則が見られます。バビロンは自分が国々を苦しめたのと同じように苦しめられるのです。

エドムとバビロンに対する主のさばきには似たような表現が繰り返されソドムやゴモラのように滅びると記されます。

一方で、モアブ、アンモン、エラムには、主 (ヤハウェ) ご自身が「わたしは……回復させる」と約束してくださっています。そこには主のさばきに私たちを謙遜にし、建て直すというあわれみを見ることができます。

なお、イスラエルに対するさばきには、バビロンに対するのと同じような厳しい表現が見られましたが、その先には主ご自身がイスラエルを根本から造り変え、「わたしが残す者を、わたしが赦すからだ」(50:20) という圧倒的な救いのみわざが保障されています。それがキリストにおいて私たちに成就しているのです。