詩篇19篇〜寺村幸雄神学生の卒業メッセージ

 昨日は当教会から四人で、聖書神学舎での寺村幸雄神学生の卒業メッセージを聴きにお伺いしました。
 ご本人の了解を得て、私が理解した趣旨をごく簡潔に書かせていただきます。

 寺村さんは卒論で士師記に繰り返される以下のみことばを中心に、「自分の目に良い」がどのようなニュアンスを示し得るのかを研究しました。

そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと思えることを行っていた。
士師17:6、21:25

 ここでの「良い」とはイザヤ40章3-5節では「まっすぐ」と訳されていることばで、「大路をまっすぐにせよ」「曲がったところはまっすぐになり」と用いられます。

 寺村さんは長らく関西の市役所で道路用地の買収や道路整備の仕事をしておられました。
 そこであるとき、平面的な地図の上でまっすぐな道路を造る計画を立てて、用地の買収に向かいましたが、実際には、その地の高低差という立体的な側面が問題になり、事業化ができなくなりました。

 そのような経験から、ここに記される「まっすぐ」がどのような意味かが気になりました。
 それは、多くの人とが思い描く平面的な地図の上での「まっすぐ」ではなく、盛り土を重ねて、でこぼこをや、山や谷をなくしての、つまずくことのないフラットな道という意味でした。

 とにかく、人が思う「まっすぐ」と、神の目に見える「まっすぐ」は決定的に異なるということを、改めて教えられました。
 士師記での「自分の目に良い」も、それは人間の目にはまっすぐに見えながら、主の目には真っ直ぐではないものでした。

 私たちは「主のみこころ」と言いながら、自分が思い描く「まっすぐ」を主のみこころと誤解してしまう部分があります。
 繰り返し、主のみこころにそった「まっすぐ」に立ち返る必要を感じさせられました……という趣旨だったかと思います。

 勝手ながら、ふと、僕の本のタイトル「正しすぎてはならない」と通じることを覚えさせられました。

 そのときそのとき示される主のみこころに柔軟に対応して行くことができる寺村さんらしいメッセージであると感動しました。
 本当に、主ご自身が寺村さんを当教会に導いてくださったことを感謝できる一時となりました。

 今日は、詩篇19篇をご紹介します。これはまさ詩篇の中の詩篇ともいわれる美しい詩です。まさに、寺村さんのメッセージのタイトル「主にふさわしく」を思い起こさせていただける詩篇です。

詩篇19篇「天は神の栄光を語り、御教えは心を生かす」

 この詩の美しさは比類ないものです。ここには天からのことばにならない語りかけと、ことばを用いた神の語りかけの二つが記され、「こころ」を創造主に向けさせます。
 
 宇宙は、無言のことばで「神の栄光」を語っています。私たちは「自然」と呼びますが、宇宙が自然に生まれるでしょうか。ところが、聖書は、大空に広がる広大な世界を、神の「御手のわざ」と呼びます。
 この世界では、愛する人がいなくなったり、会社が倒産したりなどということが日常茶飯事で、明日への不安を抱かざるを得ません。ところが、神の御手のわざは、変わることなく存在し続けています。

 聖書によると、昼と夜の繰り返しは、自然ではなく、神が、ご自身の契約を真実に守り通しておられることのしるしだというのです (創世記8:22)。
 世界は、ことばや理屈が多すぎるのかもしれません。自分が世界を把握しようとするのではなく、これらの被造物を通して、神が発しておられる「声も聞かれない……ことば」を味わって見るべきではないでしょうか。

 7–9節では、「主のみことば」が六種類の表現で、「主 (ヤハウェ) の……」と描かれ、それらをまとめて、「金にまさり……慕わしく、蜜よりも……甘い」(10節) と言われます。
 聖書こそ、私たちにとっての最高の宝、こころの最高の栄養、また活力なのです。
 13節でダビデは、「傲慢の罪から守ってください」と祈ります。サタンは、「いと高き方のようになろう」(イザヤ14:3) と願って天から落ちた神の御使いのなれの果てです。
 また最初の人アダムは、「あなたがたは神のようになる」(創世記3:5) という誘惑に負けました。「すべての罪の始めは高慢である」と言われることはまさに真実でしょう。

 私たちは自分が生まれながら、神の世界に包まれ、生かされていることを意識し、また、神のみことばなしには、生きる意味も目的も理解できないと分かるなら、そのときこそ、神が願われる「全き者」に達したことになるのではないでしょうか。


【祈り】 この詩の最後に添って、「私の口のことばと、心の思いとが、御前に受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主 (ヤハウェ) よ」と祈らせてください。