ローマ人への手紙11章16〜24節「接ぎ木された異邦人クリスチャン」

2025年2月9日

ローマ人への手紙11章1–15 私訳

私たちの教会では、旧約聖書の物語の全体像を理解することに力を注いでいます。数千年前のイスラエルの歴史が、21世紀に生きるアジアの東の島国に生きるクリスチャンに何の関係があるのかと思う方がいるかもしれませんが、今日の箇所では、「あなたが自然によるオリーブの木から切り取られ、自然に反して、栽培された(良い)オリーブに接ぎ木された」(11:24) と記されています。

私たちは「自然(元の性質)に反して」、真のイスラエルである「栽培されたオリーブに接ぎ木された」のですから、違和感を覚えるのは当然のことです。

ただそれを心に納めて初めて「神の子」とされたことの意味が分かります。あなたは「何のために、救われた」のでしょう。使命感を忘れた信仰生活は、退屈で世界から遊離されたものとなります。

1.「もし初穂が聖であるなら、粉のかたまりもそうなのです。また根が聖であるなら、枝もそうなのです」

使徒パウロは、同胞のイスラエル人がイエスを拒絶したことに関して、「彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、彼らにねたみを起こさせる……しかし、彼らの背き世界の富となり、彼らの失敗異邦人の富となるというなら、何と偉大なことになるでしょう、彼らが満ちる(みな救われる)ことは」(11:11b、12) という恵みが生まれたという逆説を述べています。

パウロの中にはいつも肉の同胞であるイスラエル人の救いを切望する思いがありました。

それで彼は、心の底からの憧れの気持ちを、「もし、どうにかして私の肉(同胞)にねたみを起こさせて、彼らの幾人かでも救うこともあるならと。それは、もし彼らの拒絶が世界の和解となるのであれば、彼らの受容は死者の中からのいのちでなくて何でしょう」(11:14、15) と記していました。

つまり、ここにはイスラエルの救いが、全世界の救いの完成に結びついていると記されているのです。

その上で11章16節では、「もし初穂が聖であるなら、粉のかたまりもそうなのです。また根が聖であるなら、枝もそうなのです」と不思議なことを記しています。

前半のことばの背後には民数記15章18–21節の記述があります。そこでは、イスラエルが約束に地に入って収穫した麦によってパンを食べることができるようになったとき、「初物の麦粉で作った輪形のパンを奉納物として献げ」るように命じられていました。そこで「初穂」が「聖」なるものとして献げられたのなら、残りの麦粉のかたまりも聖なるものとされるとみられていました。

これは11章5節でのパウロをはじめとする「恵みの選びによって残された者たち」が、主に「聖」なるものとして献げられた結果、残りの未信者のイスラエルも聖なるものとされているという論理です。

これはⅠコリント7章14節で、「信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです」と記されていることを思い起こさせます。

これは、家族の一部が「初穂」とされていることで、家族全体が神の前に「聖なるもの」と見られるという不思議です。これは家族の一人が信仰に導かれたら、残りの家族も自動的に救われるという意味ではありませんが、家族を大切にする神は、その人の家族を特別に「聖なるもの」として別格の存在として見てくださるという意味になります。

イエスの最初の弟子はみなユダヤ人で、彼らはユダヤ人の「初穂」としてのクリスチャンでした。それによって、残りのイスラエルの民も神の前に「聖なるもの」と見られているという論理になります。

後半の「根が聖であるなら、枝もそうなのです」とは、彼らが民族の「根」であるアブラハムの子孫であることによって、そこにつながる「枝」である彼ら自身も「聖なるもの」と見られるという意味になります。

とにかく、パウロの「肉」の同胞のイスラエルの民は、アブラハム、イサク、ヤコブの肉の子孫であるということによって、神の前に「聖なるもの」と見られていると記されているのです。

ですから、現在のユダヤ人もイエスを十字架に架けた「異端者の子孫?」であるという前に、神の前に「聖なるもの」と見られているという論理を受け止める必要があります。これはユダヤ人を迫害してきた歴史的なキリスト教会に大きな反省を迫る考え方です。

イスラエルの民が、イエスを主と告白して救いに導かれることは、聖書の歴史の完成のときであり、また「私たちのからだが贖われる」(8:23) という神の民の栄光の復活の時を指す喜びの時なのです。

2.「もし誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」

そしてこれはまた、「エッサイの根」(イザヤ11:10) であるイエスに結びつくものはみな「聖なる者」と見られるという話しに繋がって行きます。

ただそこで、イエスこそが「根」であることを受け入れた者、また拒絶した者のことが11章17、18節で次のように記されます。ここには「接ぎ木」の概念が用いられています。

「もし枝のいくつかが折られ、あなたが野生のオリーブでありながら、彼らの間に接ぎ木され、そしてオリーブの根からの豊かさにともにあずかるものとされているのなら、それらの枝に誇ってはなりません。

しかしもし誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」

私の母は「接ぎ木」の技術で周りの農家からも尊敬されていました。そこでは、たとえば繊細なスイカの穂木をかんぴょうに接ぎ木します。かんぴょうは低温でも育ち、病気に強く、地中の栄養素を吸い上げ、力強くスイカの穂木に繋いでくれるからです。

その場合には台木が野性的で、穂木が繊細と見られますが、ここではその逆のことが行われます。それは野性のオリーブを、神によって大切に育てられたイスラエルという台木に接ぎ木するというたとえです。

しかもここでは「オリーブの根からの豊かさにともにあずかる」と描かれるように、神ご自身が「台木」として機能するように描かれています。

そこではまず、もともとあった肉のイスラエル人としての「枝」が折られ、「野生のオリーブ」である異邦人が、オリーブの木に「接ぎ木され」るというかたちになっています。

その際、スイカやメロンの接ぎ木であれば、良い実を結ぶ穂木を野性的な台木に接ぎ木するということで、接ぎ木される穂木、または「枝」のすばらしさが注目されますが、ここでは、折られた「枝」であるイスラエル人に対して、接ぎ木された異邦人が「誇ってはなりません」と命じられます。

しかもここでは、たとい「誇る」ということがあったとしても、「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」と描かれます。

一般的な「接ぎ木」では、接ぎ木される側の穂木の方が「高価で尊い」ものと見られがちです。それはたとえば、メロンの穂木がかぼちゃの台木に「接ぎ木される」というような例でも明らかです。

しかしここでは神が育てたオリーブの木に、異邦人という「野性のオリーブ」の「枝」が「接ぎ木される」のですから、一般的な接ぎ木とは異なり、根の方がはるかに重要と見做されます。

これはイエスがご自身を「ぶどうの木」にたとえたことに似ています。イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(ヨハネ15:5) と言われました。

そこでは、「枝」自体は無価値です。そのことをイエスは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と断固として言われました。

確かに、この世界では、イエスを知らない未信者の方が多くの成果を生み出しているように見えるかもしれませんが、ここでは神が求めるような「キリストにある愛の果実」を結ぶことができないという意味に理解すべきでしょう。

「人がイエスにとどまり、イエスがその人にとどまる」とは、すべての働きを、イエスとの交わりのうちに行う、イエスまたはイエスの父なる神に祈りながら、すべての働きを行うということです。

そのときに、この世が期待する果実ではなく、イエスが喜んでくださる果実を生み出すことができます。自分が「枝」に過ぎないということをどれだけ理解しているでしょうか。

ところで、「接ぎ木」と「枝」のたとえから見えて来る私たちの生かされ方があります。たとえば、スイカもメロンもかぼちゃの台木に接ぎ木することができます。そこでは繊細なメロンの味が、たくましいかぼちゃによって生かされます。スイカはスイカ、メロンはメロンでありながら、力強い台木によってそのユニークさが発揮されるのです。

たとえば僕は自分の神経質な性格や「傷つきやすさ」を恥じて来ました。しかし、最近になってつくづく、自分がイエス様という台木に接ぎ木され、イエス様という「ぶどうの木」に結び付けられることによって、自分のどうしようもない欠点や弱さと見えたものが生かされると思えるようになりました。

あなたの台木はイエスご自身なのです。イエスはあなたらしい実を結ぶことができる力を与えてくださいます。

3.「ですから、見なさい、神の慈しみと厳しさとを」

19–21節では、「するとあなたは言うでしょう、『枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と。

そうでしょう。彼らは不信仰のゆえに折られたが、あなたは信仰により立っています。高ぶって考えてはいけません。かえって恐れなさい。

それはもし、神が自然による枝を惜しまなかったとするなら、あなたを惜しむこともないだろうからです」と記されています。

ここでは異邦人クリスチャンが、イエスを拒絶したユダヤ人を嘲るように、オリーブの枝であったユダヤ人が「折られた」のは、「私が接ぎ木されるためだった」と言ったことを想定しています。

確かに「接ぎ木」の場合、接ぎ木をされた穂木を生かすために、もとにあった枝を取り除く必要があります。そうしないと、メロンを接ぎ木したつもりで、かぼちゃの実を成らせることになりかねません。

しかしここでは、野性のオリーブの枝である異邦人を栽培されたオリーブの木に接ぎ木するという普通とは逆のことがなされています。しかし、接ぎ木のスペースを作るために、もとあった枝を取り除いてしまうということでは同じです。

パウロはその想定問答に対して、「そのとおりです」というより、それを否定しないという意味で、「そうでしょう」と答えたと理解できます。それは彼が、彼らの失敗異邦人の富となる」(11:12) とか、「彼らの拒絶(彼らが捨てられること)が世界の和解となる」(11:15) という表現を用いて、ユダヤ人がオリーブの木から切り離されたことが、神のご計画にかなっていたと記されていたからです。

しかし、それは一時的に彼らを見捨てたということに過ぎません。そのことが、「彼らは不信仰のゆえに折られたが、あなたは信仰により立っています。高ぶって考えてはいけません。かえって恐れなさい」と言われます。

ここに「信仰」の本質が描かれます。パウロが語る「信仰」とは、自分が誇れる心のあり方ではなく、神の真実に対する心の応答です。そこには神の崇高さ、圧倒的な力や絶対性に対する「恐れ」が伴っています。「私には誇れる信仰がある」と言った途端、その人は信仰の本質から外れています。

その上で21節では、「それはもし、神が自然による枝を惜しまなかったとするなら、あなたを惜しむこともないだろうからです」と恐ろしいことが記されています。

「惜しまない」とは、「放置しない」(Ⅱペテロ2:4、5) とか「容赦しない」(Ⅱコリント13:2) とも訳されることばです。これは、一度、神の民として受け入れた人を「惜しまない」で、神の民の交わりから一時的に排除するという意味になります。

ただこのことばは8章31、32節では、「もし神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対するでしょう。この方は、ご自身の御子をさえ惜しみませんでした。かえって私たちのためにこの方を(死に)引き渡されたのです。それならば、どうして、御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」という用い方がされています。

神が御子を「惜しみませんでした」ということばには、神ご自身の「痛み」を伴った燃えるような愛が隠されています。神のさばきには、私たちの傲慢を砕き、謙遜にするという熱い思いがあります。

神が「自然による枝」を「折って」、肉のイスラエルを神の民の交わりから排除されたことには、神の深い痛みと悲しみがあります。

ですから、不信仰なユダヤ人を軽蔑するような者を、神は惜しまないで、さばきを下されます。

そのことが22節では、「ですから、見なさい、神の慈しみ厳しさとを。倒れた者の上にあるのは厳しさです。しかし、あなたの上にあるのは神の慈しみです。ただし、それはもしあなたが慈しみに留まっていればであって、そうでないなら切り取られます」と記されます。

「見なさい、神の慈しみと厳しさとを」とまず記されますが、ここには、一見矛盾するような神のご性質が印象的に描かれます。神は私たちを遠くから見て、その働きを公平に評価するという方ではありません。放蕩息子の父のように、ご自身に立ち返ろうとする人に駆け寄り抱擁してくださる「慈しみ」に満ちた方です。しかし、神と人との前に傲慢になり、自分を絶対化するような人には、断固としたさばきを下します。

神が誰よりも嫌われるのは、自分を神の立場に置くような人間です。その人は、この社会では有能な人として評価されるかもしれませんが、「神の国」に入れていただくことはできません。それが「倒れた者の上にあるのは厳しさです」と記されます。

傲慢な者をさばく基準は、この世的には厳しすぎるように見えます。それでパウロは、神の救いを喜ぶ異邦人クリスチャンに向けて、「あなたの上にあるのは神の慈しみです」と言うことで、さらに彼らを謙遜に導こうとします。

ただ同時に、「ただし、それはもしあなたが慈しみに留まっていればであって、そうでないなら切り取られます」という警告も発します。

「慈しみに留まっていれば」とは、自分が神の民に加えられたことを、自分の功績とは考えずに、神の一方的なあわれみによると感謝して受け止め続ける謙遜な心を保ち続けているならという意味です。

与えられた「救い」を当然の権利と思う者は、「切り取られる」可能性があると改めて警告されます。その意味で、未信者やユダヤ人に対して傲慢な態度を取る者は、どれほど社会的に評価さるような働きをしていても、恐ろしいほどに危ないところに立っているということを覚える必要があります。

4.「もし、あなたが自然によるオリーブの木から切り取られ、自然に反して……接ぎ木されたのであれば」

11章23、24節では、イエスを信じないイスラエル人に関して、「彼らであっても、もし不信仰の中に居続けなければ、接ぎ木されます。神は再び接ぎ木する力のある方だからです。

それはもし、あなたが自然によるオリーブの木から切り取られ、自然に反して、栽培された(良い)オリーブに接ぎ木されたのであれば、さらにいっそう、自然のうちにあるこの者たちは、自ら固有のオリーブに接ぎ木されることでしょう」と記されます。

「もし不信仰の中に居続けなければ、接ぎ木されます」と記されるのは、ユダヤ人が謙遜になってイエスの救いを受け入れる可能性をパウロは期待し続けているからです。

この世界では、「折られ」「切り取られた」「枝」は、たきぎとして燃やされるしかありませんが、神はそのような「枝」を「再び接ぎ木する力のある方」だと描かれます。

ここに、神ご自身が、イエスを拒絶したイスラエル人を回心に導くことができるという断固として意思を読み取ることができます。ここでは神の「再び接ぎ木するが強調されます。

その上で11章24節では「自然」ということばが三回用いられます。

その第一は、「もし、あなたが自然によるオリーブの木から切り取られ」ということばです。第一世代の異邦人クリスチャンは、それまでの「自然によるオリーブの木」という肉の家の交わりから「切り取られた」ことを指します。つまり、彼らには「自然」の家から一時的に切り離される「痛み」が伴います。

しかもそこで、「自然に反して」、「栽培されたオリーブに接ぎ木」される必要があります。これは、アブラハムから始まった神の民、また神によって栽培された良いオリーブに接ぎ木されることです。そこには「自然に反する」痛みが伴います。多くのクリスチャンは、この部分の自覚が足りないように思われます。クリスチャンにとっての「信仰の父」は「アブラハムです。それは4章16節に記されているとおりです。

ただ、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく……人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり」(2:28、29) と記されるように、私たちは肉のイスラエルに「接ぎ木され」たのではなく、イエスを救い主と認める真のイスラエルに「接ぎ木され」たということを忘れてはなりません。

初代教会は、最初、ユダヤ人クリスチャンだけで始まっています。彼らは、イエスこそがユダヤ人の王であり、旧約のイスラエルに対する預言を成就してくださる方だと信じたのです。

ですから私たちも旧約聖書に記されたイスラエルの物語やイスラエルに対する預言を、自分の物語として受け止める必要があります。

私は昔、自分がアブラハムから始まった家族に接ぎ木されたことをほとんど自覚していませんでした。しかしそれが自覚でき、旧約のイスラエルの物語が、自分の家族の物語として理解できるようになったとき、世界観が変わりました。

イスラエルは約束の地を平和に治めるために選ばれました。そして今、私たちは、この全世界を平和のうちに治めるために導かれています。この地上の生活に対する責任意識を感じない信仰者は、自分の立ち位置を見直す必要があります。

毎回の礼拝の最後、当教会ではイエスによる派遣のことばを繰り返しています。復活のイエスはユダヤ人で構成された弟子たちに向かって、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21) と言われました。

私たちはこの目に見える世界に、新しい神の民として遣わされます。そしてその神の民は、新生したユダヤ人と異邦人から構成されています。ダビデがイスラエルの王であったように、イエスは全世界の王、「王たちの王、主たちの主 (King of kings, Lord of lords)」として、世界を治めておられ、私たちはイエスとの共同支配者として、この世界のさまざまな問題にかかわって行きます。

ただ、多くの異邦人クリスチャンにとって、イエスが「ダビデの子」であり、イスラエルの王であるということばは響きにくい概念です。

そこで、「さらにいっそう(もっとたやすく)、自然のうちにあるこの者たちは、自ら固有のオリーブに接ぎ木されることでしょう」(11:24) と記されます。

「自然のうちにあるこの者たち」とは、イエスを救い主と告白したユダヤ人クリスチャンです。彼らの多くは、小さい時から聖書のことばに馴染んでいます。それゆえ彼らは、「さらにいっそう(もっとたやすく)」、アブラハム以来の真の神の民の交わりに入るという意味で、「自ら固有のオリーブに接ぎ木される」と言われます。

彼らは「固有のオリーブに接ぎ木される」ことによって、ごく自然に、神の民としてこの世界に遣わされ、神の平和を広げるという福音と使命が理解されることと思います。

黙示録5章9、10節ではキリストの贖いのみわざと神の民とされた者たちの使命が、「あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです」と記されます。

私たちは「自分のため」というより神のために贖い」出され、「神のために」「王国とされ、祭司とされた」のです。

私たちは神のご計画のためにサタンの支配から贖い出されました。その目的は「地を治める」ことにあります。ヘンデル作オラトリオ「メサイア」の最後の曲は、「Worthy is the Lamb that was slain(屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です)」というコーラスで終わります。

その直前に、私たちが「神のために贖われ、王国とされ、祭司とされ、この地を治める」と記されます。神がエデンの園を耕させるために最初の人間を創造されたのと同じように、神はこの世界を治めさせるために私たちをキリストの血によって贖い出してくださいました。

救いの目的はこの地を治めることにあるのです。それこそ約束の地に植えられたイスラエルというオリーブの木に接ぎ木された延長に見られる使命です。