去る2月2日(日)~4日(火)日本福音自由協議会総会が約120名の代議員を迎えて開かれました。
日本福音自由教会は今から15年余り前に、それまでの働きの仕組みを大胆に見直す再出発を始めていました。そのような中から、有志の教会で東京都心伝道を考えるプロジェクトが始まり、約6年間の調査を経て2018年から東京都心ミニストリーが始まりました。昨年4月には月島駅そばですばらしい礼拝の場を借りることができました。
福音自由での宣教は以前、国内宣教委員会というすべての福音自由教会の協力を求める組織を作って、北海道から沖縄へと日本各地に広がる宣教を展開して来ましたが、そのような組織体制を見直し、有志の教会を募ってミニストリーを展開するという形へと変わりました。
現在、東京都心ミニストリーは24の福音自由教会によって支えられております。数カ月に一度の委員会では、開拓宣教師である下村先生の相談に先輩の牧師たちが親身に載って、今後の教会形成を無理なく勧めるような素晴らしいチームワークができています。
今回の協議会総会では、福音自由教会的なスピリットとして「内発性の重視」ということが強調されました。それは「内なる聖霊の導きに従い、内側から喜びをもって与えられる意欲を重視し、それを大切にすること」と定義されています。
教会形成において「役割」とか「義務」という意識ではなく、それぞれの中から内発的に生まれて来た思いを最大限重視するという展開です。
そのような考え方に従い、約50年前に作られた「信徒の手引き」を全面改訂することが決められました。
また、海外宣教においても、宣教師を派遣することよりも、宣教地の牧師や神学生を奨学金で支え、その宣教報告を日本でしていただくような、宣教地の教会の内発的な働きを応援する体制へと変わって行きます。
また青少年伝道での協力体制をますます強化する仕組みを作り始めています。一方で、新しい牧師や神学生の訓練システムを整えるような仕組みも始まります。
40年間近く福音自由の総会に参加していますが、これほど充実した学びと話し合いの場となったのは初めのような気がしています。
広島教会の北野献慈会長をはじめとする協議会役員の方々のリーダーシップに心より感謝する機会となりました。北野先生も、副会長の高橋正則先生(宇治教会)も、東京都心ミニストリーをともに立ち上げて来た大切な仲間です。
ところで、「内発性」という点では詩篇17篇にとっても興味深い記述があります。それは罪の自覚以前に、自分の内側から湧いてきた思いをストレートに主に訴えるという大胆な生き方です。
詩篇17篇「正しい訴えを聞いてください」
1–6節でダビデは、繰り返し自分の正義や純粋さを訴えながら、主の救いを求めています。
私たちはときに、「罪深さを知れば知るほど、キリストの十字架の赦しの恵みが分かる」という論理で、主の御前で過度に謙遜ぶることがあるかもしれません。
しかし、パウロが、「私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるわけではありません」(Ⅰコリント4:3) と記すように、内省的になり過ぎるのも危険です。
それは、主の御前に正直になることに反します。実際、私たちは他の人と争うとき、自分の正義ばかりを主張したがる傾向があるのですから、それと同じ気持ちで、主に訴えることが許されているのです。
7節の「あなたの奇しい恵みをお示しください」の「恵み」とは先の13篇で解説した「真実の愛」です。主は私たちをご自身の「右の手」で守ってくださいます。
8節では、「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください」と訴えます。それは主が、一方的な愛でイスラエルの民を選び、守り通してくださったことを思い起こさせる表現です (申命記32:10)。
それは、イスラエルの功績ではなく、その存在自体が、主ご自身の目の「ひとみ」のように「高価で尊い」ものであったからです。
9–13節では、ダビデは自分を襲う「悪者」の罪を訴えながら、主の救いを求めています。
14節は、「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」が体験する祝福の空しさを描いたものでしょう。
15節はその対比で、「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」と告白されます。それは、詩篇16篇にもあったように、主ご自身との交わりこそが。ダビデにとっての最高の満足をもたらす真の「宝」であるからです。
主は私たちのどんな過ちをも見過ごさない減点主義者ではなく、私たちの正直な気持ちを、喜び評価してくださる方です。
【祈り】 主よ。私の罪ではなく、私の内側にある真実に目を留めてくださることを感謝します。
いつでもどこでも、大胆に主に祈ることができるように導いてください。