詩篇16篇〜市場経済と選択の自由

 グローバル市場経済の問題点が指摘されることが多くなっていますが、お金を介した自由貿易は、互いを生かし合うすばらしいシステムだと思われます。
 ただそこには、それぞれの国の競争力が劣った一部の産業に犠牲を強いることがありますし、貧富の格差を無制限に生み出すという難点があります。
 しかし、競争から疎外された人を保護し、やり直しの機会を与えることはまさに政治の責任です。格差を無くそうと経済活動の自由自体を制限するなら、配分するための原資自体を得ることに支障を生み出します。
 自由な経済活動と政治による再分配は、三千年前に記された聖書に明確に記されています。
 私は約50年前に米国の大学との交換留学の機会にイエスを救い主と告白する信仰に導かれました。そこで何よりも感動したのは、自分の思いを自由に表現し、それを実行に移すことができる自由です。思想信条の自由と経済的な自由選択とは切り離せない関係があります。

 それを最も明確に現わしているのが以下の詩篇16篇です。

詩篇16篇「私の幸いは、あなたのほかにはありません」

 イスラエル王国の栄光を体験したダビデは主(ヤハウェ)に向かって、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」(2節) と真心から告白しました。
 私たちはときに、主ご自身との交わり自体よりも、目に見える富や権力、栄光を求めてしまいがちではないでしょうか。この告白の意味を心から味わってみましょう。
 人はすべて目に見える人との交わりに生きていますが、3、4節は、私たちが同じ神を礼拝する者たちとの交わりを最優先することを告白したものです。
 そして、5、6節では改めて、主が与えてくださる「何か」ではなく、主ご自身が「私へのゆずりの地所」であり、また喜びの「杯」であると告白されます。
 同時に、著者は、「測り綱は、私の好む所に落ちた」と、実際に、主が私に割り当ててくださった生活の場を、「すばらしいゆずりの地」として感謝して受け止めています。それは、「置かれた場所で咲きなさい」というタイトルの本の通りとも言えましょう。
 8節では、天地万物の創造主を覚えながら、「私はいつも、私の前に主  (ヤハウェ) を置いた」と言われますが、それは、私たちにとっては、御子イエスが、「私の右におられ」、私のために執り成してくださることを前提としての告白になります。
 そこには、「私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう (9節) という安心感が伴います。
 また10節の「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」とは、ペテロとパウロがそろって、イエスの復活を、聖書の成就として論証する際に引用したものです (使徒2:27、13:35)。
 またそれは「イエスを主」と告白する私たち自身にとっての約束となっています。ですから私たちも。主に向かって、「御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と真心から告白することができます。


【祈り】 主よ。あなたがお与えくださる何かではなく、あなたご自身との交わりの中に「いのちの喜び」を体験し続けることができるように、私の心を守ってください。