エレミヤ45〜48章「万軍の主 (ヤハウェ) の前での謙遜と誠実」

2025年1月26日

歴史は神の物語である (History is His story) という見方があります。しかし、それはときに社会的弱者に一方的な忍耐を強いることばにもなります。

ただ、神は私たち一人ひとりの「祈り」に耳を傾け、ご自身のときにあなたの必要を満たしてくださるというのは永遠の真理です。それゆえ私たちは、逆境においても、神のご支配を信じ、今ここでの「誠実を尽く」勇気をいただくことができます。

自分の道を開くために、隣人の機嫌を取ろうとし、また操作しようとする代わりに、神のご支配に信頼する謙遜さを神は喜ばれます。

ただそれにしても前回の箇所で、「万軍の主 (ヤハウェ) 」ご自身が当時の具体的な支配者の名を出して、「見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に……渡す。ちょうとユダの王ゼデキヤを……彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように」(エレミヤ44:30) と言われたことは何とも不思議です。これは、ゼデキヤがエジプトの王ファラオ・ホフラに頼って、ネブカドネツァルとの契約を勝手に破って滅亡したという現実を前提に記されています。

私たちは、目に見える権力者の背後におられる「万軍の主 (ヤハウェ) 」に目を向ける必要があります。権力者を罵る前に、すべてを支配する主 (ヤハウェ) に祈り求めることこそが何よりも大切です。そして、そこで問われるのは、主と人に対する私たちの「謙遜さ」と「誠実さ」です。

1.「見よ。わたしがすべての肉なるものに、わざわいを下そうとしているからだ」

45章1節の「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年」とは、この前の44章から約20年間余りの時代を遡る、紀元前605年にエジプトがカルケミッシュの戦いでバビロンに敗北したときを指します。

「ネリヤの子のバルク」は「エレミヤの口述によって」、このエレミヤ書として残される「ことばを書物に書き記して」いました。しかし、そのときバルクは、「ああ、私はわざわいだ。主 (ヤハウェ) は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」(44:3) と嘆いていました。

それに対し、主(ヤハウェ)はエレミヤを通してバルクに、「見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く、この全土をそうする」(45:4) と、ご自身も心を痛めながら、イスラエルをさばこうとしておられることを知らせます。

ただ主(ヤハウェ)は不思議にここでまずバルクに、「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」(45:5) と言われます。彼は自分の家族や同労者を含めて、主に従ったことへの「大きな」報酬を期待したのかもしれません。

しかし主は、「見よ。わたしがすべての肉なるものに、わざわいを下そうとしているからだ」と現実を直視するように勧めます。バルクはイスラエルの滅亡にしか目が向かっていなかったのでしょうが、これは神のさばきが、神の民イスラエルばかりかすべての肉なる者」に及ぶという宣言です。

同時に主はそこで、「しかし、わたしは、あなたの行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」(45:5) という保証を与えます。バルクは自分のいのち」が守られることだけで満足するしかなかったのです。

これはエジプトが坂を転げ落ちるように没落し始める時期のことばです。世界が滅亡に向かうときに、主ご自身が「私一人」の「いのち」に目を向けてくださっていることをまず覚えるべきなのです。

2.「エジプトの王ファラオは、時機を逸して騒ぐ者」

その上で46~51章で、主は、当時の国々の滅亡を予告されますが、その第一が、エジプトです。そして、先の「エホヤキムの第四年」というときに関して、「ユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について……バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った」(46:2) と描かれます。

主はエジプトの敗北の様子を、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る……北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。エジプトはナイル川のように湧き上がり奔流のように逆巻く(46:5–8) と劇的に描きます。

そして「その日は、万軍の主・ヤハウェの日、敵に復讐するための復讐の日(46:10) とその意味が語られます。しかも、「北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の主・ヤハウェに、いけにえが献げられる」と、エジプト軍の血が主へのいけにえであるかのように描かれます。

46章13節では、今後のことが「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を打つことについて、主 (ヤハウェ) が預言者エレミヤに語られたことば」(46:13) と記されます。

その内容が「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聞かせて言え。『配置について、備えをせよ。剣がおまえの周りを食い尽くすからだ』」(46:14) と、44章1節で描かれたイスラエルの残りの民が後に寄留する地の滅亡が予告されます。

そればかりか、「なぜ、おまえの雄牛は押し流されるのか…… (ヤハウェ) 彼を突き倒されたからだ」(46:15) と、エジプトのそれらの都市で崇められていた偶像の神が主ご自身によって倒されたと記されます。

しかも17節では「エジプトの王ファラオは、時機を逸して騒ぐ者と描かれますが、これは37章5、11節に記されていたエルサレムのゼデキヤ王にエジプト軍の助けを期待させたファラオを指すと思われ、彼が時代遅れの存在であると嘲られています。

そして主は、「エジプトに住む娘よ。捕虜となる身支度をせよ。メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ」(46:19) とエジプト北部の中心都市がエルサレムのように破壊されることを予告します。

そして19–23節ではエジプトが北からの攻撃に耐えられなくなるようすが描かれ、それらをまとめるように「娘エジプトは辱められ、北の民の手に渡される」(46:24) と記されます。

なお、この七十年近く前の紀元前671年にはエジプト北部の中心都市メンフィスが、紀元前664年にはナイル川上流にある神聖都市テーベがアッシリア帝国によって攻撃されたようすがナホム書3章にも描かれています。しかし歴史の記録によると、バビロンの王ネブカドネツァルはエジプト攻撃に失敗し、メンフィスを支配することはできませんでした。エジプトはこの後に生まれたペルシア帝国の時代に完全に支配されることになるからです。

ただし、エレミヤに与えられた啓示の趣旨は、エジプトに頼ることの愚かさ、また、エジプトに逃れて自分たちの安全を謀ろうとしたカレアハの子ヨハナンなどの指導者の間違いを指摘することにありました。ですから、このような預言は、固有名詞が示す時代を超えた、神のご支配を現すものとして理解される必要がありましょう。目に見える大国よりも、目に見えない神のご支配を信じるべきなのです。

3.「しかし、あなた(イスラエル)を滅ぼし尽くすことはない」

46章25節で、「イスラエルの神、万軍の主 (ヤハウェ) 」のことばとして、「見よ。わたしは、テーベのアモン(偶像の神の名)、ファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に拠り頼む者たちとを罰すると、エジプトに対するさばきが宣告されます。

その際、「わたしは彼らを……バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す」(46:26) と言われます。当時の人々の目にはエジプトは永遠と思われ、そこに身を寄せることがネブカドネツァルの支配から逃れる道と思われましたが、そのエジプトがバビロンの攻撃に耐えられないと言われるのです。

ただ主は「その後エジプトには、昔の日のように人が住むようになる」とも予告されます (47:26)。それは(ヤハウェ)こそがエジプトの真の王であることを強調するためです。彼らは敗北を通して謙遜にされ、主(ヤハウェ)を礼拝するように導かれるという意味かと思われます (イザヤ19:19–25参照)。

その上で主(ヤハウェ)は、「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て……脅かされずに平穏に安らかに生きる」(46:27) とバビロンに捕囚とされた人々への希望を語ります。

しかも主は自業自得で国を失った民に、「わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ」(46:28) と断固として言われます。

さらに彼らを苦しめた国々に関して「わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす」と言われます。それと同時に「しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはないとも保証されます。

ただそこで、「さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはないとも付け加えられます。これは、イスラエルは罰を受けることはあっても、彼らに対する神の契約は、罪によっても反故にされないという意味です。

主はイスラエルを「ご自分の(目の)瞳」(申命記32:10) と呼ばれました。主が彼らを懲らしめ、罰したのは、偶像の神々やエジプトのファラオに頼ることを止めさせ、(ヤハウェ)以外には頼りになる方はいないことを腹の底から悟らせるための愛の笞であり、彼らを捨てるためではありません。

この原則は現代の私たちすべてのクリスチャンに適用できます。後にヘブル人への手紙の著者は、

「彼ら(肉の父)は、わずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、この方(霊の父)は、私たちの益のために、ご自身の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

すべての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思えるものですが、後になると平安の実を、これによって鍛えられた人々に義を結ばせます (ヘブル12:10、11私訳)「後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安な実を結ばせます」(新改訳2017)」と記します。

私たちも人生で様々な痛みを体験しますが、それを通して、主は私たちを謙遜にし、(ヤハウェ)だけが神であることを知らせ、「平安の実」を結ばせてくださいます。

4.「ああ、主 (ヤハウェ) の剣よ。いつまで休まないのか」

47章1節は、「これは主 (ヤハウェ) のことばである、預言者エレミヤにあったペリシテ人に関しての、それはまだファラオがガザを打つ前のことである」と記されます。この「ガザ」とは現在の悲惨な地ガザの南部の中心都市です。

このときのガザの攻撃者はエジプトのファラオ(王)でした。それがいつを指すのかは分かりませんが、ファラオ・ネコが紀元前609年にペリシテの地を北上し、それを阻止しようとしたヨシヤを殺したときに、未来を預言したこととも解釈できましょう。

ただ、ここでは「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり、地とそこに満ちているもの、町と住民を押し流す」(47:2) とバビロンからの攻撃によってペリシテの地が滅ぼされることが預言されます。

これは、エジプトからの攻撃の前にバビロンの攻撃があったことを現すようにも解釈できます。その場合、ガザの北にあるアシュケロン(現在のガザ地区北部)が北のバビロンの王ネブカドネツァルに滅ぼされるのが紀元前604年ですから、それ以降の時代を指したとも考えられます。

とにかく、当時のペリシテ人にとっては南のエジプトのほうが脅威に思えましたが、主は北からの脅威のほうがはるかに恐ろしいということをここで告げておられます。それは、「すべてのペリシテ人を破滅させる日」と呼ばれ、さらにペリシテと同盟関係にあったとも言われるフェネキヤの二つの要塞都市を指してツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来た」(47:4) と描かれます。

さらに続けて「主 (ヤハウェ) が、カフトルの島に残っているペリシテ人も破滅させるからだ」と記されますが、ペリシテ人は紀元前13世紀末にクレテ(カフトル)から渡ってきたと言われていますが (アモス9:7)、その島さえも破滅するというのです。

そして47章6節では、バビロンの攻撃が「ああ、主 (ヤハウェ) の剣よ」と呼ばれながら、「いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め」と言われます。ただすぐに、「どうして、休めるだろうか。 (ヤハウェ) が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸、そこに剣を向けられたのだ」(47:7) と、紀元前604年にアシュケロンと周辺の国々がバビロンによって完全に滅ぼされることが予告されています。

当時の世界ではエジプトの王ファラオの権力が衰えて来たとは言え、エジプトの権力を中心に世界政治が予測されていましたが、ここではイスラエルの神、主(ヤハウェ)こそが世界の支配者で、バビロンの王ネブカドネツァルを「(ヤハウェ)の剣」として用いていたと描かれています。

これは、当時のエルサレムの王エホヤキムが、エレミヤの預言の巻物を暖炉の火で焼き尽くす頃の世界を現わします。エホヤキムは目に見える世界情勢で心が一杯でした。そこではエジプトの「ファラオがガザを打つ」ことや、バビロンの王ネブカドネツァルの残酷さばかりに目が向かい、歴史を支配する全能の(ヤハウェ)のご支配に目が向かっていなかったことが問題だったのです。

5.「われわれは聞いた、モアブの高ぶり (proud) を」

48章は「モアブについて」(1節) ということばで始まり、死海の東の小国に対するさばきが驚くほど詳しく描かれます。イザヤ15、16章にも「モアブ」に対する「宣告」が記され、似た表現が数多く登場します。彼らはアブラハムの甥ロトの子孫、ルツの故郷です。

彼らはダビデのときもウジヤのときもユダ王国に服従しながら国として存続し続けていましたが、イザヤ15章1–4節ではモアブの中心都市がアッシリアの攻撃によって「一夜のうちに……荒らされ」、「モアブは泣き叫ぶ」「そのたましいはわななく」と描かれていました。

ここでは、「イスラエルの神、万軍の主 (ヤハウェ) 」が、「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた」と記されます (48:1)。「ネボ」は、モアブの北にあるモーセが約束の地を見渡した山かと思われ、キルヤタイムもその近辺の「砦」だと思われます。そのような要害が滅びることは、モアブが徹底的に敗北したしるしです。

「もはやモアブの誉れはない。ヘシュボンは、これに悪事を企んでいる」(48:2) とは、モアブの最北の町ヘシュボンの中で、バビロン軍がモアブ攻撃の策略を練っている様子を描いたものと思われます。

マデメン、ホロナイムはモアブの中南部に位置する町だと思われますが、そこに滅亡が迫った結果、「その幼き者たちは叫び声をあげる」(48:4) と記されます。この箇所は新改訳第三版では「その叫びは」、死海の南端に近い「ツォアルまで聞こえた」と訳されており、解釈が分かれます。

48章7節では、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く」と記されます。これは人間をいけにえとする (Ⅱ列王記3:27) モアブの神ケモシュがバビロンの虜とされるという意味です。

そして、「谷は滅び失せ、平地は根絶やしにされる」(48:8) と記されますが、モアブの西側はヨルダン渓谷、東側は標高約1、000mの高原地帯で、肥沃な農業地帯ですが、そこにある「町々は住む者もなくて荒れ果てる」(48:9) と描かれます。

そして10節での「主 (ヤハウェ) のみわざをおろそかにする者はのろわれる(よ)」という表現は、バビロンが(ヤハウェ)ご自身の意思に従って、モアブの破壊を執行せざるを得ないことを指しています。

48章11節での「モアブは若いときから安らかであった」とは、地理的な関係から大国の犠牲になることが少なかったという意味ですが、そのような国さえも今、バビロンによって滅ぼされるのです。

そのことが「モアブは、ケモシュのために恥を見る。イスラエルの家が、彼らの拠り頼むベテルのために恥を見たように」(48:13) と描かれます。これは邪教や偶像礼拝に対する神のさばきを指します。モアブはケモッシュを礼拝しながら大国の狭間で安逸を貪り、自己満足に浸っていましたが、それがさばかれる時が来たのです。

「どうして、おまえたちが言えるのだろうか。『われわれは勇士、戦いの豪の者だ』と……選り抜きの若者たちが屠り場に下って行く」(48:14、15) とは、モアブが軍事力を誇っていながら、それが何の役にも立たないという意味です。

そして、「モアブの滅びは近づいた。そのわざわいは速やかにやってくる……モアブの角は切り落とされ、その腕は砕かれた」(48:15–25) という表現において、モアブの全地域の破滅が告げられます。

そしてその悲惨の原因が、 (ヤハウェ) に対して高ぶったからだ……イスラエルは、おまえにとって笑いものではなかったのか」(48:26、27) と、彼らが主(ヤハウェ)と主の民を嘲ったことの報いであると記されます。

そして48章29、30節では、「われわれは聞いた、モアブの高ぶり (proud) を——彼は実に高ぶる者(非常に高ぶっている)——その傲慢(尊大さ)、その高ぶり(高慢)を、その誇り(思い上がり)、その慢心(心を高ぶらせること)を。わたしはその不遜さ (arrogance) を知っている。——主 (ヤハウェ) のことば——その自慢話 (empty talk) は正しくない。その行いも正しくない」と記されます。

ここには七つの異なった単語でその「高ぶり」の姿が描かれ、最後に「自慢話 (empty talk) は正しくない」とまとめられます。これはイザヤ16章6節を少し膨らませたような表現です。ここにモアブがさばかれる根源的な理由が記されています。これは現代の私たちにも通じる話です。

ところが48章31節では、主ご自身がわたしはモアブのために泣き叫び、モアブ全体のために叫ぶと、主の嘆きが記されています。イザヤ16章11節でも「わたしのはらわたはモアブのために……竪琴のようにわななくという表現がありました。主(ヤハウェ)はロトの子孫モアブの「高ぶり」「傲慢」「高慢」「誇り」「慢心」「不遜」にさばきを下しながら、その滅亡を「はらわた」を「わななかせ」ながら深く嘆いておられたのです。

48章32、33節ではモアブの農産物の豊かさ失われることが描かれ、34–39節では彼らの偶像礼拝が断たれ、「富も消え失せ」、辱めと嘆きに至り、「モアブは、その周りのすべての者の笑いものとなり、恐怖のもととなった」と描かれます。これは先の高ぶり」の正反対の状態が実現するという意味になります。

そして42節では、「モアブは滅ぼし尽くされて、民でなくなる。 (ヤハウェ) に対して高ぶったからだ」とまとめられます。

そして46節では「ああ、モアブ。ケモシュの民は滅びる」と記されます。彼らの偶像の名を持って「ケモシュの民」と呼ばれ、「おまえの息子は捕らわれの身となり、娘は捕虜になって連れ去られるからだ」と彼らがユダヤ人と同様に捕囚とされることが描かれます。

これが主(ヤハウェ)の対する「高ぶり」の結果です。

ただその上で、「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる(48:47) という希望が記されます。主はロトの子孫を謙遜にした上で最終的な救いを保証されたのです。これはイスラエルの場合と同じです。

モアブのような小さな国のことがこれほど詳しく描かれているのは不思議なことですが、それはこの国が昔からイスラエルと深い関係にあるからです。

彼らはモーセのときにイスラエルの民を、「娘たち」の惑わしによって偶像礼拝に誘い込みました (民数記25:1、2)。その後、モアブの女ルツがイスラエルに移住し、ダビデの祖父を生みます。彼らはその後、ダビデ王国にしばしば服従し、また離反するようすが繰り返しイスラエルの歴史に登場します。

彼らはいつでも小国のままなのですが、イスラエルをしばしば誘惑し、悩ませ、最後にはネブカドネツァルの手先になってイスラエルを攻撃します (Ⅱ列王24:2)。

ここでは、モアブがさばかれたのは自己満足と高慢の故であると描かれていますが、私たちを日々悩ますのもこのような人々ではないでしょうか。私たちを圧倒する「強さはない」のに、強がって、自分の世界に閉じこもりながら、擦り寄ってきたり、裏切ったり、様々な誘惑を仕掛けたりと、悩みの種になります。

ふと私たちも「どうして、あの人は自分のことが見えていないのだろう!」などと言いたくなります。しかし、主は、そのような不誠実なモアブを苦しめ悩ませ、自分の弱さや醜さを思い知らせ、信仰に導き、その繁栄を回復させてくださるというのです。

使徒ペテロは、様々な試練にあっている人に慰めの手紙を書きましたが、その結論で、「みな互いに謙遜を身に着けなさい。『神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる』のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:5–7) と記しています。

これこそ、聖書のテーマではないでしょうか。

私たちは、いろんなことが順調に行っているとき、自分の生き方に問題があるということに気づきません。それどころか、神を信じていようがいまいが、何も変わりはしないなどと思ってしまいがちです。しかも、昔の罪に満ちた生活をなつかしく思うことさえあるかもそれません。

しかし、ふと、「だれも自分の痛みをわかってはくれない」と思うような孤独を味わうただ中で、真に私たちのことを「心配し」、「支え」また「包み」、「守り通して下さる方」に目が開かれるのではないでしょうか。

「神は真実(誠実)な方です」(Ⅰコリント10:13)。ですから私たちがその主の真実(誠実)に謙遜に、誠実に応答して生きることこそが、何よりも大切なのです。