イチローさんが米国野球殿堂入りを果たしましたが、改めて彼の以下のことばに感心しています。
選手としての評価、プロ野球選手の評価という意味では、これが最後。比べるものがない。これが最初で最も大きいもので、最後のものになる。これ以上はないし、この後ももちろんない。
だから僕は別の、野球人として違う道をこれから進んでいきたいと思っています。
もちろん(頂いた評価は)トップのものではあるんだけども、特殊なのは過去に対する称賛であるということ。これがポイントだと思います。
今やっていることへの称賛ではなく、過去への称賛なので、あくまでも今をどう生きるかということを僕は考えていきたいと思います。
野球殿堂入りを、「過去への称賛」と呼び、「今をどう生きるかを考えていきたい」と自然に言葉が出ることに本当に感心しました。
だから、たとえば日本各地の高校を訪問しての野球指導に関しても、何とも言えない感動とやる気を残してゆくことができます。
僕の母校 旭川東高校 一度も甲子園に行けてないけれど、彼の教えを宝物のようにして、あと一歩のところまですぐに成長できたようです。
すると、まったく違った分野で同校出身の、北口榛花さんがオリンピックのやり投げで金メダルを取ったりしています。
僕自身は71歳にもなって、何の誇れるような功績もないけれど、改めて、以下の詩篇15篇のことばを、心から味わっています。
これこそ、今、私が日々の生き方で、心に留め続けるべきみことばだと心から信じています。
詩篇15篇「だれが、聖なる山に住むのか」
この詩は、主の御前に出る者が、自分がそれにふさわしい者であるかを主に問いかけ、主からの答えを得て、自分をきよく保とうとするために歌われたと思われます。これとほとんど同じものが詩篇24:3-6、イザヤ33:14-17に記されます。
ダビデはまず、「主 (ヤハウェ) よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか」(1節) と問いかけ、主からの答えを、「正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」(2節) と受けます。
そこでは日々の歩み方、行動、ことばが、主の前に問われています。
そして3節では特に、「その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない」と、その人の隣人に対する言動が問われています。
ただし、そこで自分に「罪はないというなら、私たちは自分を欺いており」とも言われることを覚えるべきでしょう (Ⅰヨハネ1:8)。
そこでは「自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(同9節) と断言されます。
大切なのは、主に問いかけ、主からの答えを聞き、主の赦しを願うという、主との対話に生きることです。
4節の「神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主 (ヤハウェ) を恐れる者を尊ぶ」とは、主が見るように人を見るということで、苦しんでいる人を、「主のさばきを受けた……」と軽蔑することではありません。
イエスの視点を思い浮かべるべきです。
そして最後に、その人が自分の損得勘定を超えて生きる者の祝福が、「損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない。人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない」と言われます。
私たちは、ときに、不安な思いに苛まれて、主のご支配を忘れて、自分の身を守ることに汲々とすることがあります。しかし、主はあなたの心の真実をこそ評価してくださいます。
【祈り】 主よ、あなたは、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(マタイ5:8) と言われました。
聖霊によって私のこころをきよく保ってください。