最初に、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている」と記されますが、「愚か者」とはヘブル語でナバルと記されます (Ⅰサムエル25:25参照)。
後にダビデの妻となったアビガイルは、愚かさのため自滅した夫のナバルに関して「あのよこしまな者」と呼びました。家来もナバルを避けていました。
彼は自分の羊の群れがダビデによって守られていたことを知ろうともせずに、ダビデの怒りを買いました。
「愚か者」とは、「知性が足りない」ことではなく、世界を自分の尺度で計り、見るべきものを見ようとしない「傲慢さ」を意味します。
使徒パウロはローマ人への手紙3章10–12節で、1–3節を引用しながら、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(同3:23) と結論付けています。
「神はいない」と宣言すること自体が、神の怒りを買う罪であると描かれます。
パウロが、「彼らが神を知ろうとしたがらない」(同1:28) と記しているように、「神を尋ね求め」ようと「意志しない」こと自体が、罪の始まりとされているのです (2節)。
そして、主は、「不法を行う者ら」は、「パンを食らうように、わたしの民を食らい、主 (ヤハウェ) を呼び求めようとはしない」とその罪を指摘されます (4節)。
しかし、彼らは、主が「正しい者の一族とともにおられる」ことを知って、主を心から「恐れる」ようになります (5節)。
たとい彼らが、「悩む者のはかりごとをはずかしめようとする」ことがあても、主は「悩む者」の「避け所」となってくださいます。主の民が苦難にあってもそれは一時的なことに過ぎず、主の救いはやがて明らかにされます (7節)。
私たちの目は、ときに、自分の見たいものしか見ることができませんが、それこそ「愚か者」のしるしです。「神はいない」と思える現実があったとしても、そこで「神を尋ね求める」なら、神のみわざを認め、神の救いを楽しみ喜ぶことができます。
【祈り】 主よ、私は身勝手な基準で世界を見ることがあります。「愚か者」にならずに、みわざを、いつでもどこでも見られるように、霊の目を開いてください。