ダビデは、1、2節で「主 (ヤハウェ) 」の御名を呼びながらも、何と四回にもわたって、「いつまで、救ってくださらないのか」という趣旨で、「いつまで……私を永久にお忘れになるのですか」「いつまで御顔を……お隠しになる」「いつまで私は……思い計らなかればならない」「いつまで敵が……勝ちおごる」と大胆に訴えます。
そして3節では、立て続けに、「私に目を注ぎ、私に答えてください……私の目を輝かせてください」と訴えます。
そして、その理由がさらに、「私の敵が」勝ち誇って喜ぶことがないようにと、極めて個人的な視点から訴える様子が描かれています。
これから見ると、しばしば私たちの祈りは、あまりにもお行儀が良すぎるのかもしれません。主は、幼い子供が親に泣いてすがるように、自分の気持ちを正直に訴えることを喜んでくださいます。
ただ、そのように泣きじゃくった結果として、5節では突然、すべてをわきまえた大人になったような気持ちになって、まず「私は」と強調しながら、「あなたの恵みにより頼みました」と告白します。
「恵み」とは、英語では、「unfailing love(尽きることのない愛)」とか、「steadfast love(不動の愛)と訳され、神の真実の愛を表現する特別なことばです。これこそ聖書のテーマとも言えます。
後に、使徒ヨハネは、「全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18) と記しますが、ダビデは、まさに主の懐に飛び込んだ結果として、恐れることなく大胆に、主に訴えることができたのです。
そして、最後にダビデは、主の救いを「喜び」、主のみわざを思い起しながら、真心から「主に……歌い」ます。
この詩は、最初の「いつまでですか」と言う繰り返しの訴えと、この終わりの、主への喜びに満ちた賛美の対照が、何とも不思議です。
しかし、嘆きの訴えから、喜びへの転換こそ、詩篇全体に流れる神の民の物語です。私たちも、詩篇に合わせて自分の心を表現するとき、同じ恵みにあずかることができます。
【祈り】 主よ、様々な不条理に直面する中で、主に大胆にすがり、祈ることができるように導いてください。それを通して、主の真実の愛を喜ぶ者とさせてください。