ローマ人への手紙11章1〜15節「イスラエルの救いのために用いられる異邦人」

2025年1月19日

ローマ人への手紙11章1–15 私訳

キリスト教の歴史の中で、ユダヤ人はイエスを十字架刑に追いやった異端者として罵られ、迫害を受け続けてきました。その結末がナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅計画でした。

しかし、現在の異邦人中心の教会の基礎を作った使徒パウロは、同胞のユダヤ人の救いを心の底から切望していました。彼が「異邦人への使徒」となったのは、「自分の肉(同胞)にねたみを起こさせて」、イスラエルの民の「何人かでも救うこともあるなら」という不思議な願望と結びついています。

つまり、パウロの熱い異邦人伝道の目的は「イスラエルの救い」にあったという面があるのです。

イエスは預言されたイスラエルの王であり、同時に全世界の王となるというのがダビデの詩篇2篇に明確に記されています。それこそが福音の核心です。肉のイスラエルを忘れた福音宣教は、神の救いのご計画に反していることを改めて覚えるべきでしょう。神が多くの異邦人を救いに導いたのは、「イスラエルにねたみを引き起こすため」(11:11) とさえ記されているからです。

日本福音自由教会が信仰箇条に「千年王国」を明記しなくなったのは「肉のイスラエル」の最終的な「救い」を軽く見るようになったという意味では決してありません。その点で私たちの立場は一貫しています。

1.「あなたがたは知らないのですか、聖書がエリヤにおいて何と言っているのかを」

使徒パウロは異邦人たちの救いに関しての神ご自身の一方的な主導権を、「わたしは……自分を現わした、わたしを尋ねなかった者たちに』」と記しました (10:20)。これはイザヤ65章1節からの引用でした。

それを前提に11章1節でパウロは、「それで今、私は言いましょうか『神はご自分の民を退けてしまったのでは』と。決してそうではありません」と不思議な自問自答をしています。これは今も昔も、異邦人クリスチャンから出される可能性のある質問とも言えましょう。

その上で彼はすぐに、「それは、この私もイスラエル人だからです。アブラハムの子孫(種)であり、ベニヤミン族の者です」と、自分自身が神によって選ばれた肉におけるイスラエルの民であることを明言します。神が生粋のイスラエル人であるパウロを異邦人伝道のために用いるということ自体が、神がイスラエルを大切に思っていることを何より明らかにしています。

そしてパウロは明確に、「神は退けたのではありません、前から知っているご自分の民を」(2節) とまず記します。これは当然のことですが、それを敢えて記す必要があったことこそ不思議と言えましょう。

その上で2節後半から5節で、「それとも、あなたがたは知らないのですか、聖書がエリヤにおいて何と言っているのかを。それは彼がイスラエルに対して神に訴えていることです。

彼は言っています、『主よ、あなたの預言者たちを彼らは殺しました。また、あなたの祭壇を彼らは壊しました。ただ、この私だけが残されました。そして私のいのち(たましい)を求めています』と。

しかし、託宣は彼に何と言っているか、『わたしは残している、わたし自身のために、七千人の男たちを。彼らは、バアルに膝を屈めなかった者たちである』。ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます」と記します。

この背後にはパウロ自身が三回にわたる伝道旅行で体験したことがあると思われます。彼は最初ユダヤ人を中心に伝道を続けましたが、一回目の伝道旅行の際にユダヤ人たちの激しい反発を受け、「見なさい。私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」(使徒13:46) と宣言しました。

しかしそれでも第二回目の伝道旅行でもユダヤの会堂を中心に伝道しましたが、主の不思議な導きでギリシアの地へと導かれます。パウロはテサロニケやベレアのユダヤ人の会堂で福音を伝えますが、ユダヤ人の激しい反発を受け、アテネを経由しコリントの地で教会を築くことができました。

そして三回目の伝道旅行でもユダヤ人の激しい反発を受けながら、ようやくコリントに落ち着くことでこの手紙を書いています。彼の心には大きな葛藤がありました。イエスは旧約預言を成就する救い主ですから、旧約を知らない人には、イエスが救い主であるという福音は理解し難いものです。

コリントでは多くの異邦人が信仰に導かれますが、その貿易都市でのでのふしだらな生き方は、簡単に変わりはしません。彼には誰よりもユダヤ人クリスチャンの仲間を多く必要としていたのです。そのようなときに彼はエリヤの記事から多くの慰めを受けたのだと思われます。

エリヤは北王国の悪王アハブの支配下で、神のさばきを宣告し続けました。それによってイスラエルには「日照り」が続きましたが、神は三年目にエリヤをアハブのもとに遣わし、カルメル山にバアルの預言者を集めさせ、ご自身の圧倒的な力を見させ、バアルの預言者450人を滅ぼすことができました (Ⅰ列王記18章)。

しかしアハブの妻イゼベルが、怖じることなくエリヤのいのちを狙っていると聞いた時、彼は急に弱気になって「主 (ヤハウェ) よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」(同19:4) と嘆くほどに落ち込みました。これは今もエリヤの「燃えつき体験」、うつ状態として呼ばれます。

エリヤはその後、「四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた」(同19:8) と描かれます。エリヤは洞穴で一夜を過ごしますが、そこで「かすかな細い声(沈黙の声 a sound of sheer silence: NRS)」(同19:12) を聴いて、洞穴の外に出て神と対話します。

その時エリヤが最初に語った嘆きのことばが「『主よ、あなたの預言者たちを彼らは殺しました。また、あなたの祭壇を彼らは壊しました。ただ、この私だけが残されました。そして私のいのち(たましい)を求めています』」(11:3) ということばです。

しかし神はその時すぐに、彼にエリシャという彼に「代わる預言者」を用意していると語った上で、「わたしは残している、わたし自身のために、七千人の男たちを。彼らは、バアルに膝を屈めなかった者たちである」(11:4) と告げられました。

そればかりかパウロはそれに加えて、「ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます」と記しています。パウロはこの手紙を書いた後、自分がユダヤ人からいのちを狙われていることを理解した上でエルサレムに向かいます。それは、神が自分の後継者をユダヤ人の中からも残してくださっていることを確信できたからでしょう。

そして、それが一方的な神の「恵みの選び」であることを、「それが恵みによるのであれば、もはや行い(働き)に基づきはしません。それがもし恵みによるのでなければ、恵みとはならないからです(そうでなければ、恵みが恵みでなくなります)」(6節) と記します。

パウロは9章3節で、「もしできるなら、この私がキリストから引き離されて、のろわれた(アナテマ)者となることさえ願っています、私の兄弟たち、肉による同胞のためになら」と記すほどにユダヤ人の救いを願い、また自分の働きの後継者が旧約の律法に精通したユダヤ人の中から起こされることを願っていたことでしょう。

しかしパウロも絶望的な状況の中で、エリヤの記事から慰めを受け、今できることの最善の策としてこの手紙を書き、今この手紙が聖書となっています。

私たちもときに、目の前の危機的な状況を見てうつ状態になることがあるかもしれません。しかし、パウロ自身が絶望的な状況の中でエリヤの記事から慰めを受け、今、ここでできる最善を行ったのと同じように、私たちも明日のことを思い煩うことなく、今ここでの最善を目指すなら、主が道を開いてくださいます。

なお、エリヤの後継者エリシャは、彼にまさる大きな働きをすることになります。実際、エリシャの行った奇跡は、救い主イエスの前触れのようなものばかりでした。

しかし、パウロはここでエリシャのような後継者ではなく、「七千人が残されている」と「残された者たち」の交わりを述べています。実際、パウロに匹敵する後継者は歴史上、どこにも生まれなくて当然でしょう。しかし後継者の交わりを、神は残してくださいました。

2.「彼らがつまずいたのは、倒れるためなのでしょうか」

11章7、8節でパウロは、「では、どうなのでしょう。イスラエルは追い求めていたもの、それを獲得しませんでした。しかし、選ばれた者たちが、それを獲得したのです。そして残りの者たちは頑なにされたのです。それは記されているとおりです、『神は彼らに与えられた、鈍い霊と見えない目と聞けない耳とを、今日に至るまで』と」と記されています。

これは申命記29章4節、イザヤ29章10節のことばを用いての引用ですが、その基本には新約で何度も引用されるイザヤ6章9、10節の預言があります。

それは主が「だれを、わたしは遣わそう」と呼びかけたことに、イザヤが「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答した時に、主がイザヤに言われたことばです。

そこでは、「すると主は言われた。『聞き続けよ(聞いて、聞け)。だが悟るな。見続けよ(見て、見よ)。だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒されることもないようにと記されます。これはしばしば「心を頑なにするメッセージ」と言われます。

イエスご自身がマタイ13章での「種蒔きのたとえ」で、一般の人々には理解しがたいたとえで話す意味を、弟子たちに向かって、「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たち(一般のユダヤ人たち)には許されていません」(11節) と言われた際に引用されたことばです。まさにこれこそ聖書の核心とも言える不思議なことばです。

イザヤの場合は、イスラエルという国が滅亡して初めて、イスラエルの民がイザヤ預言の意味を理解できるようになることを指します。

またイエスの場合は、ご自身に既に従うという覚悟を決めた選ばれた「弟子たち」にだけ意味を伝え、聖書を理解していると自負する知識人からはそれを隠したという意味になります。神は人々が自分の「心の貧しさ」を理解するまで、彼らの心を「頑なにされるのです。

しかも、9、10節でパウロはダビデの詩篇69篇のことばを引用して、「そしてダビデも言っています。『彼らの食卓が(彼らにとって)、罠となるように、落とし穴となるように、つまずきとなるように、報いとなるように。彼らの目が暗くされますように、見えないように。彼らの背がいつも曲げられますように』」と記します。

これはダビデが神に向かって「あなたは、私が受けているそしり、恥、侮辱をご存じです。私に敵対する者はみな、御前にいるのですから」(詩篇69:19) と自分の切羽詰まった状況を訴え、「あなたの憤りを彼らに注ぎ、燃える怒りで圧倒してください」と、神のさばきを求めたときの「祈り」のことばです。

イエスは「ダビデの子」として現れましたから、イエスを迫害した者たちにもダビデが願ったさばきが実現し、イエスを十字架にかけるようにローマ総督ピラトを脅したユダヤ人は、神の厳しいさばきを受けるようになるという意味になります。

ただ詩篇69篇では、そのような祈りの結果が、「神を尋ね求める人々よ。あなたがたの心は生き返ります」(32節) という慰めのことばへと結びつきます。拙著「」のタイトルはこの言葉から生まれました。

自分に代わって神が復讐してくださるという確信が、私たちの心を生かすことになり、そこから神への賛美の輪が、世代と地域を超えて、全世界に広がって行きます。これは、神の救いを信じるように導かれた人の「目が見える」ようになり、背を伸ばして歩くようになることの対比のさばきと言えます。

11章11、12節では、「それでは私は言います。彼らがつまずいたのは、倒れるためなのでしょうか。決してそうではありません。かえって彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、彼らにねたみを起こさせるためです。

しかし、彼らの背き世界の富となり、彼らの失敗異邦人の富となるというなら、何と偉大なことになるでしょう、彼らが満ちる(みな救われる)ことは」と記されます。

使徒の働き13章にはパウロが第一回目の伝道旅行の最初にピシディアのアンティオキアのユダヤ人の会堂で語った説教が記されます。そこで彼は、「神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主を送ってくださいました」(23節) と語りました。

パウロが何よりも熱く紹介したのは、イエスがダビデ契約を成就する救い主であり、死者からの復活によって「イスラエルの王」であると証明されたということです。

しかも詩篇2篇によればこの方は「地の果てまで」(8節) を治める全世界の王だと預言されていました。当時のユダヤ人クリスチャンは、イエスは「イスラエルのために国を再興する」(使徒1:6) 救い主でした。ですからパウロも当初は多くのユダヤ人クリスチャンが生まれることで全世界がキリストの支配に従うという順番を考えていたことでしょう。

ところが、ユダヤ人の激しい反発に会い、「私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」(使徒13:47) と言わざるを得なくなったのです。ただ、その結果としてギリシア人の中から多くの信者が生まれることになりました。つまり、パウロの異邦人伝道の成功は、ユダヤ人から拒絶されたところから始まっているのです。

そのことをパウロはここで、「彼らの背きによって、救いが異邦人に及び……彼らの背き世界の富となり、彼らの失敗異邦人の富」となったという逆説を語ったのです。

しかしイエスはあくまでもイスラエルのための救い主ですから、彼らがイエスをイスラエルの王として受け入れることが神の救いの計画の核心なのです。ですから「何と偉大なことになるでしょう、彼らが満ちる(みな救われる)ことは」と記されているのです。

3.「もし、どうにかして私の肉(同胞)に妬みを起こさせて、彼らの幾人かでも救うこともあるなら」

11章13–15節でパウロは次のように記しています

そこで、あなたがた異邦人に対して私は言います。確かに実際、この私が異邦人たちの使徒である限りは、私の務めを栄光あるものとします。もし、どうにかして私の肉(同胞)にねたみを起こさせて、彼らの幾人かでも救うこともあるならと。それは、もし彼らの拒絶が世界の和解となるのであれば、彼らの受容は死者の中からのいのちでなくて何でしょう。

パウロはここで改めて自分が「異邦人たちの使徒」と神から与えられた自分の使命を述べます。

それは彼がダマスコへ向かう途中に「天からの光」に照らされ、復活のイエスから「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」(使徒8:4) と問いかけられた後に、アナニアを通して示された「選びの器」としての使命でした。パウロはその自覚を徐々に深めていったことでしょう。

ですから、パウロが自分の「務めを栄光あるものとする」とは、異邦人が数多くキリストのもとに導かれることを指します。しかし、その目的がここでは「どうにかして私の肉(同胞)にねたみを起こさせて」、イスラエルの民の「幾人かでも救う」という内心の憧れと結びつくと言われているのです。

パウロはここの原文では敢えて、「同胞」と言う代わりに「肉」と呼んで彼らが自分の一部であることを意識させながら、もし、どうにかして私の肉(同胞)にねたみを起こさせて、彼らの幾人かでも救うことがあるなら」という仮定法的な願望の表現を用いています。

それは先の11節で「彼ら(イスラエル)の背きによって、救いが異邦人に及び、彼ら(イスラエル)にねたみを起こさせるため」(11:11) と述べられていたことと同じですが、ここにパウロの切実な思いが込められています。

またこの「ねたみを引き起こす」という話しは、10章19節で申命記32章21節を引用しながら記されていたことで、イスラエルが「愚かな国民」と見る異邦人の救いからどのように導かれるかという、神の救いの不思議な計画を語ったものです。

とにかくイスラエルが「神のねたみ」を引き起こしたことから、神のイスラエルに対するさばきが引き起こされ、そこから神が異邦人を救いに導くことで「イスラエルにねたみを引き起こす」と記されているのです。

「救いが異邦人に及ぶ」ことで、イスラエルに「ねたみが引き起こされる」という話しの背後には、イエスの「放蕩息子のたとえ」があるのかもしれません。

ルカ15章でのたとえでは、弟息子が父親の遺産を先取りして受け取り、放蕩三昧をして無一文になり、飢え死にしそうになって父親のもとに帰ることになったという物語が描かれます。

そのときのようすが「まだ家から遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」(20節) と描かれます。そればかりか、息子の悔い改めのことばを聞くのも厭うかのように、彼に一番良い衣を着せ、手に指輪をはめ、足に履物を履かせて、肥えた小牛を屠らせて、祝宴を開きました (22–24節)。

そのようすを見た兄息子は、「怒って、家に入ろうとしなかった」ばかりか、父親を「あなた」と呼びながら、「ご覧ください、長年の間、私はあなたにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。

それなのに、遊女と一緒にあなたの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんなあなたの息子のために肥えた子牛を屠られるとは」(29、30節) と、大きな不満を述べました。これこそ「ねたみ」の感情です。

イスラエルの民はバビロン捕囚以降、もう二度とこのようなさばきを受けることがないようにと律法を真剣に守るようになりました。ところがパウロが語った福音は、異邦人に律法を守るように教えることもなく、彼らがイエスを主と告白するだけで神の民となれるというものでした。

ユダヤ人は律法を熱心に守る自分たちの努力が軽蔑されたと怒り心頭に達しパウロを迫害しました。この「ねたみ」とは、異邦人が神から特別待遇を受けていることへの嫉妬です。

しかし一部のユダヤ人は、異邦人がそのままの姿で聖霊を受け、神の民とされ、その生き方が変えられることに、ねたみと同時にそこに神のみわざを認めたことでしょう。パウロはその証しとしての異邦人の献金を集め、殉教の死も覚悟しながら、エルサレムのユダヤ人クリスチャンに届けました。つまり、イスラエルの民が拒絶されたように感じ、ねたみを引き起こされたことを通して、異邦人に神の民の輪が広がるという「和解」が生まれたのです。

それと同時に、放蕩息子のたとえでは、父親が兄息子に向かって「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然だ」(32節) と述べました。

そこには、兄息子自体が、父親の身近で生活していながら、失われていた存在であると示唆する意味も込められています。イスラエルは異邦人の救いを通して、自分たちの神の愛に対する誤解が正され、「死者の中からのいのち」を体験するように導かれようとしているのです。

先の15節の彼らの拒絶世界の和解となるのであれば、彼らの受容は死者の中からのいのちでなくて何でしょう」での「彼ら」をイスラエルの王であるイエス・キリストに当てはめると、イエスの「拒絶」という十字架が「世界の和解」につながり、イエスが神によって「受け入れられた(受容)」ということの「現れ」としてイエスの「復活」があったと理解することができます。

ただ、ここでの「彼らの受容」とは、肉のイスラエルが「神の民」として教会に受け入れられることを直接には意味します。それは、肉のイスラエルの心が柔らかくされ、彼らがイエスを主として受け入れることは、歴史のゴールとしての全人類の「贖い」に通じるとも理解できます。まさにイエスは「イスラエルの王」として十字架で死んで世界に和解をもたらし、復活することによって、イエスに従うすべての人に復活のいのちを与えたのです。

そしてそれをイスラエルの民が信じるとき、そこに世界の人々にとっての「死者の中からのいのち」という大逆転につながるとも理解できましょう。

イスラエルが神の民として「受け入れられる」ことは「死者の中からのいのちでなくて何でしょう」という不思議な表現は、私たちの救いのゴールを指しています。

なぜなら、8章23節では、私たちの「救い」の「望み」に関して、御霊の初穂を受けている私たち自身も自分の中でうめいています、子(息子)とされる(の立場とされる)こと、すなわち私たちの身体が贖われることを待ち望みながら」と描かれていました。

「身体の贖い」とは、ここでの「死者の中からのいのち」と言われる私たちすべての「復活」のときです。それは全世界が神の平和(シャローム)で満たされるときでもあります。

放蕩息子のたとえは、救いの途中でしかありません。兄息子が、それまでの父の愛に気づいて心からの感謝の気持ちを持つとともに弟息子の回復をともに喜ぶようになることこそが、たとえに隠された神の意図です。

この世では兄息子のように責任を果たす人が感謝されますが、そこに創造主と弟息子のような人々との「和解」がなければ救いは完成しません。

「放蕩息子のたとえ」は、身を持ち崩した人に向けてではなく、律法を熱心に守っていたパリサイ人に向けて語られています (ルカ15:2、3)。

一見真面目なユダヤ人に向けてのイエスからの「救い」の招きなのです。