伝道者の書9〜12章「キリストにある冒険の勧め」

2025年1月12日  

伝道者の書私訳 抜粋9–12章

北海道大学のキャンパスには、建学の基礎となったクラーク博士の銅像が飾られ、そこに彼の別れのことばが、「Boys, be ambitious(青年よ、大志を抱け)」と記されています。それは自分の小さな殻に閉じこもることなく、神の広い恵みの世界にはばたいて、神と人とのために生きることを意味します。

私たちは人生の中で様々な失敗を繰り返しますが、キリストは私たちの罪を赦すために十字架にかかってくださいました。一方で、神の期待に応えることを拒否し何のリスクも引き受けようとしない人に対して、「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ、そこで泣いて歯ぎしりするのだ」(マタイ25:30) と厳しい警告を発せられました。

1.「能力を磨く、その限界を知る……ただし、時と機会はすべての人に巡ってくる」

9章11節では「日の下」における不思議な現実が、「改めて私は、日の下を見た。足が早いからといって競争に勝つわけでも、強いからといって戦いに勝つわけでも、知恵があるからといってパンにありつくわけでも、賢いからといって豊かになるわけでも、知識があるからといって好意を得られるわけではない」と描かれています。

私たちはこの地で「より速く、より強く、より賢く」なるようにと幼いときから訓練を受け続けますが、その期待通りにはならない現実が「日の下」にはあるというのです。

ここには五つの能力が記されていますが、その中でも特に「知恵」「賢さ」「知識」は、この書全体で重んじられているものですから、それらの能力の重要性を否定することが趣旨ではありません。そうではなく、人は、自分の能力を高め、磨くことと同時に、その限界をも常に自覚する必要があるという意味です。

ですから、神は、私たちを謙遜にするために、あえて、能力が生かされない状況をも備えておられると解釈すべきではないでしょうか。

「ただし、時と機会はすべての人に巡ってくる」(9:11) という記述は私たちにとって何よりの慰めです。それは3章11節でも「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある」(3:1) と記されていましたが、「がむしゃらに前に突き進む」ことで問題がこじれるような際、神の時を待つ」という忍耐が何よりも大切です。生きている限り「時と機会は……巡ってくるからです。

たとえば、ナチス・ドイツの強制収容所から生還した精神科医のヴィクトール・フランクルは「私は人生にまだ何を期待できるか」と問う代わりに「人生は私に何を期待しているか」を問う、という発想の転換を勧めます。彼は好んで次のような実話を話します。

あるとき、フランス南部のマルセイユの港から、無期懲役の判決を受けたひとりの黒人が、レビヤタン(ヨブ記41:1などに記されている海の巨獣)という名の船で囚人島に移送されました。その船が沖に出たとき火災が発生しましたが、その非常時に、この黒人は手錠を解かれ、救助作業に加わり、十人もの命を救うことができました。そして、その働きに免じて後に恩赦に浴することができ、釈放されたのです。

彼は、囚人船に乗る前は「生きる意味などはない」と考えていたでしょうが、この船の火災の後は、「人は誰でも人生の期待に答えることから生きる意味が生まれる」という真理を実感したことでしょう。船の名のとおり、海の巨獣のレビヤタンも神の御手の中にありました。

フランクルはこの話を「それでも、人生にイエスと言う」という書に載せていますが、そのタイトルは強制収容所の囚人たちが絶望的な状況のただ中で「私たちはそれでも生きることにイエスと言おう Wir wollen trotzdem Ja zum Leben sagen」と歌って励ましあったことに由来します。

10章8、9節では「穴を掘る者はそれに落ち込むかもしれず、石垣をくずす者は蛇にかまれるかもしれず、石を切り出す者はそれで傷つくかもしれず、木を割る者はそれで危険にさらされるかもしれない」と記されます。

「穴を掘る者」が「それに落ち込む」とは、わなをかけた者が、自分のかけたわなにかかることです(箴言26:27参照)。「石垣を崩す」というのも城を攻撃することに関わります。「石を切り出す」とは、家を建てるための最初の働きですが、これは希望に燃えた働きがその最初でつまずくことを指します。「木を割る」とは、たきぎの準備に関わることです。

これらすべてにおいて、せっかくの努力が仇になっています。

そして10節では、その際の道具の「斧」のことが「斧が鈍くなっているのに、その刃を研がなければ、力をさらに込めなければならなくなる」と記されます。これは闇雲に力任せに働くことの愚かさを指摘するものです。そのような時、「その刃を研ぐ」というほんの少しの回り道をすることで、ずっと楽に、また安全に仕事を成し遂げられるようになるというのです。

そして、これらのことを踏まえて、「それゆえ成功をもたらすのに益となるのは知恵である」(10:10) と描かれます。これはスポーツにおいても「根性」より、練習方法に様々な科学的な知恵が生かされるようになったことに似ています。

一方で、「ただし、まじないをかける先に蛇がかみつくなら、蛇使いの舌は何の益ともならない」(10:11) とは、タイミングがずれることの悲劇です。「蛇使い」は、蛇が衝動的に動く前に蛇の気持ちをコントロールする必要があります。

つまり、斧を研ぐことを厭うほどに急ぎすぎても、また反対にタイミングが遅くなりすぎても、働きを全うすることはできないというのです。

10章12–14節では、「知恵ある者の口から出ることばは恵み。しかし、愚か者のくちびるはその身を滅ぼす。その口のことばの始まりは愚かで、その口の終わりも忌まわしい狂気。愚か者はことばを多くする」と記されます。

「愚か者」の特徴として「わかってもいないことを、さもわかっているかのように話す」という現実が古今東西どこにもあるからです。知恵ある者は少ない言葉で人に恵みをもたらすことができます。

その上で、「人は自分に何が起こるかを知らない。自分がいなくなったとき何が起こるかを、だれが告げることができようか」(10:14) と記されます。これは真の「知恵」とは、分かることと分からないことの区別が明確にされているという意味です。

それに比べて、「愚か者たちの労苦は、自分を疲れさせるだけ。彼は町に行く道さえ知らないのだから」(10:15) と述べられます。「愚か者」は、忙しく動き回りながら、誰でも分かるはずの目先のことさえ見えていないというのです。

これはかつて最先端の技術を用いて資金運用する日本や米国の金融機関で実際に起こったことでもあります。彼らは愚かにも、土地は値上がりを続けるという幻想に囚われ、それを担保に返済の目処も定かでない資金を企業に貸し続けました。

人は、みんな同じ方向に動いていること自体に安心を覚え、行き先がどこかが見えなくなるということが往々にしてあります。

しかし知恵のある者は、自分の人生のゴールがどこにあるかを知っています。彼は身近な町への道を知っているばかりか、天の都への道をも知っているからです。

イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6) と言われました。かつて私は、このことばに独善性を感じました。しかし、このように言われたイエスが、ご自分のいのちを私たちの罪を赦すための犠牲としてささげ、天の父なる神への道を開いてくださったということが分かったとき、このことばが何とも言えない慰めになりました。

かつてはこの世的な成功を保証する「知恵」を求めながら「自分を疲れさせる」ばかりでしたが、今ここで、イエスご自身を知り、イエスとの交わりを深めることこそが最高の「知恵であると分かり安心できました。ここには「日の下」の「空しさ」という不条理と、「天の下」における神のご支配の「正しさ」の対比が描かれています。

2.「どれが成功するかを知らないから……」

11章1節では、「あなたのパンを水の上に流せ。多くの日々がたってから、あなたはそれを見いだすのだから」と記されます。これは様々な意味に解釈されますが、第一には自分の財がなくなるかもしれない危険を覚悟しながら、長期的な投資に賭けることの勧めと言えましょう。たとえば、ソロモンは海上貿易で巨大な富を築きましたが (Ⅰ列王記10:22)、そこに大きなリスクが伴いました。

またそれと同時に、これは貧しい人への「施し」の勧めとも解釈できます。それは差し当たり損なこととしか思えませんが、箴言では「貧しい者に施しをするのは、 (ヤハウェ) に貸すこと。主がその行いに報いてくださる」(箴言19:17) と、この無私であるはずの行為でさえ、主のみわざを体験するための「投資」のように説明されます。財産を自分の手元に安全に守ろうとし過ぎると、お金の流れが止まり、それは結果的に経済を収縮させることになります。その原則は、三千年前も今も同じです。

これはまた、主のことばを伝えるという伝道にも適用できることです。現在も、「子どもの頃、教会学校に通って聖書のお話を聞いていた……」という方が、大人になって、苦しみや不安を抱えたとき、ふと、「教会に行ってみよう……」と思い立って教会の礼拝に来られるということが多くあります。

「受ける分を七つか八つに分けておけ。地の上にどのような災いが起こるかを、あなたは知らないのだから」(11:2) とは、分散投資の勧めと言えましょう。日の下」での経済の見通しが立たない以上、自分の財産を、不動産、預金、証券などに分散することは当然のリスク対策です。

ただしそこでも何よりも優先すべきことは、未来を支配する神との関係ではないでしょうか。その際、献金は神への最大の信頼の表現になります。使徒パウロも「わずかだけ蒔く者は、わずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は、豊かに刈り入れます」(Ⅱコリント9:6) と記しています。

「見返りを期待しないで……」と言いながら、自分を慰め、また褒めたりしてはいないでしょうか。そこでは心の目が自分に向かっており、そこでの見返りがすでに体験されています。それよりはすべての行為を、創造主である神との対話のうちにするというのが聖書の勧める「信仰」です。

11章3、4節では、「雲が雨で満ちるなら、それは地に向けて空(から)になる。木が南に、または北に倒れようとも、木は倒れた場所にそのままになる。風を見守っている者は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない(11:4) とは、最低の投資で最高の収益を得ようとタイミングばかりを計りすぎてしまうなら、かえって時期を逸してしまうというアイロニーです。

人は誰しも、無駄な労力や投資は避けたいと思うものですが、それが怠惰や臆病の言い訳になってしまっては本末転倒です。

さらに「あなたは、風(霊)の道がどのようなものかも知らず、また、妊婦の胎内での骨々がどのように成長するかを知らないのと同じように、すべてを成し遂げられる神のみわざを知ることはできない(11:5) と記されます。これは人が誰でも自然現象や人間の誕生という生活の基本に関わる知識さえ知ってはいないという「知恵の限界」を教えるためです。

なお「風」とは「霊」とも訳せますが、イエスは「風は思いのまま吹に吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこに行くか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」(ヨハネ3:8) と言われました。

人がなぜ、イエスを主と告白し、キリスト者として歩み始めるようになるのか、これは人の誕生と同じように神秘的なことです。それを人間的な努力の成果の尺度で測ってはなりません。

11章6節ではこれらを踏まえて、「朝、あなたの種を蒔け、夕方も手を休めてはならない。あなたはどれが成功するのかを知らないからだ。あれか、これか、または両方が同じように成功するもしれない」と勧められます。

私たちは「成功」が努力を超えた神の御手の中にあることを謙遜に受け止めると同時に、今ここで求められている「働き」に目を向ける必要があります。事実、種を蒔く」という地道な働きがなければ、それを成長させ、成功させてくださるという神のみわざを実際に見ることは誰もできないからです。

ただ、それと同時に、「光は心地良い。日を見ることは、目に良い。実に、もし人が長生きするなら、暗い日々が多くあるかもしれないことを覚えていながら、すべてにあって楽しむのがよい。すべて起こることは空しいから」(11:7、8) と、日々の生活を楽しむことが同時に勧められています。

それは「楽しむ」という余裕もないほどに働きすぎてはならないという教えです。聖書の教えで何よりもユニークなのは、週に一日の安息日を初めとし、労働してはならないと命じられ、休みが義務とされている日が驚くほど多くあるということです。それは、すべてが主の恵みであることを覚え、労働の実を家族や隣人と分かち合って、喜び楽しむための日です。

残念ながら、多くの日本人のサラリーマンは、知力や体力がもっとも充実した人生の時期をすべて仕事に捧げ、退職が近くなる頃には、何をしてよいか分からないという状態になることがあまりにも多いように思われます。休み」は、貯金できるようなものではないという真理を忘れてはありません。

3.「あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め」

11章9節の「若者よ。あなたの若さを楽しめ。若い日にあなたの心を幸せにせよ。あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め」という勧めは、私たちの信仰が窮屈な道徳主義に流れることを修正させるための大切な教えと言えましょう。

ポール・トゥルニエというスイスの精神科医は、戦後まもなくスイスの教会に意気消沈している若者が多く集っていることに心を痛め、教会が「いのち」よりも「道徳」を教える場になってはいないかと警告を発しました。

彼は鋭い視点で、「道徳主義とは、自分自身を追及することを意味し……善悪を自分の力で識別し、あらゆる過ちから自分で自分の身を守ることを自分に要求する。こういう人間は、自分はまちがっていないだろうかと始終びくびくしながら、真面目一点張りに、あらゆる楽しみを断念します。この態度が極端になると、しまいには神も必要ないし、神の恩恵も要らないということになるのです」と語っています。

皮肉にも、神の前に正しく生きようと頑張ることが、結果的に、神を不要にする生き方につながり得るというのです。それこそ、イエスに敵対したパリサイ人の問題でした。

なお、ここでの「若者」とは、文脈から明らかなように、行動が体力や気力から制限されてくる老年期との対比で用いられており、非常に幅の広い期間を指します。ですから、「あなたの若さを楽しめ」とは、「今、この時」を、神の恵みとして「楽しむ」ことの勧めです。若さを楽しむことができる人は、結果的に、老年期をも楽しむことができることでしょう。

それにしても、「若い日」だからこそ、「あなたの心を幸せに」できるという機会があります。それは、感激する心であったり、恋愛をしたり、心に湧き上がって来る夢に賭けるような情熱ではないでしょうか。その際、「あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め」とあるように、歩むべき方向性は外から与えられるというより、自分の「」と「目」に聞くことから始まります。

良い話を聞きながら「何か、心にしっくり来ない」ということがある一方で、「人が何と言おうとも、これをやってみたい」と前向きになれることがあります。そのような湧き上がる思いに正直になると、心身は驚くほどの力を発揮し、結果的に夢を実現することができます。

使徒パウロはそれを前提に「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ2:13) と記したのではないでしょうか。

その際、「ただ、神は、それらすべてにおいて、さばきを下されることも知っておけ」(11:9) と警告されるように、明らかに神のみ教えに反することに情熱を燃やしてはならないことは当然です。

ただそれであっても自分のうちに沸いてきた思いにまず心の耳を傾けることは大切です。そうする時、心と身体に活力がみなぎります。「あなたの心から苛立ちを去らせ、肉体から災いを取り去れ。若さも、青春も空しいから」(11:10) とは、それを前提とした勧めだと思われます。

「若さも、青春も」、たちまちに去って行くような「空しい」ものであるからこそ、今、この時を精一杯生きることが大切です。どちらにしても、人は、老年になるに連れて、自分の思うように心も身体も動かなくなるのですから、若いときから老人のように生きる必要はありません。

「あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に」(12:1) という勧めは多くの若者たちに愛されてきました。ただこれは、その後に続く、三回の「その前に」ということばとセットになっています。

第一は、「災いの日々が来て、『私には何の喜びもない。』と言う年が近づく、その前に」ということで、人生を謳歌しているような若いうちに「あなたの創造主を覚えよ」という意味です。

第二は、「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雲が戻って来る、その前に」(12:2) ということです。これは、神がこの世界をさばかれるという「主の日」が来る前に (イザヤ13:9、10) という意味にも、また神が「あなたの地を闇でおおう」、虐げられながら生きるような時が来る「その前に」(エゼキエル32:7、8)、「あなたの創造主を覚えよ」という勧めとしても理解できます。

「闇でおおわれた」日とは、人が中年期には影響力を発揮しながら、老年になると自分よりも若い人の命令に従って生きざるを得なくなる状況を指します。青春時代を謳歌できなかった人にかぎって、それを屈辱と感じることでしょうが、自分の力を発揮でき続けた人は、若い者の振る舞いを、余裕を持って見ることができます。

12章3–5節は老年期の痛みを詩的に表現したもので、括弧内のことばは原文にはありませんがその意図を指し示しています。

ここで人の老年を「その日には、家を守る者は震え(手が震え)、力ある男も身を屈め(足がたわみ)、粉ひきは減って止まり(歯が抜け)、窓から眺める女は暗くなり(目はかすみ)、通りに面した扉は閉じられ(引きこもり)、粉ひく音は低くなり(食欲が細り)、鳥の声にさえ起き上がり(眠りが浅くなり)、歌う娘たちもみなうなだれる(耳が遠いため歌い手を失望させる)。さらに彼らは高い所を恐れ、道には恐怖があり、アーモンドの花は咲き(白髪になり)、ばったは重荷を負い(よろめき歩き)、気力が衰える。それは、人が永遠の家へと歩み、嘆く者たちが通りを巡る(葬式の準備がされる)から」と描いています。

そしてそのように暗く悲しい日が来る「その前に、あなたの創造者を覚えよ」と勧められています。ここで「あなたの創造者」を、「私の手の創造者、私の足の創造者、私の歯の創造者、私の目の創造者、私の耳の創造者」と言い換えることもできます。

それは身体と五感のすべてを神からの賜物として受け止め、それが機能するうちに思う存分それを生かし、その感覚を優しく受け止め、「今、ここで」の感覚を大切にして生きるということです。

私は四十代後半になって、「観念が身体をガチガチにしている」という自分の問題に気づき、スポーツクラブに通い始めました。そして、運動によって身体全体を生かすということを実践しだすと、不思議に、頭痛に悩むことも減り、食事もおいしくなり、五感で世界を喜ぶことができるようになってきました。

そして第三の「その前に」が、原文では12章6節の初めに記されます。そして6、7節は人間の「死」を詩的に表現したもので、「こうして、銀のくさり(美しいいのち)が切れ、金の器(かけがえのない身体)が砕かれ、水がめが泉の傍らで割れ(心臓が止まり)、井戸車が井戸で砕かれ(循環機能が止まり)、ちりはもとの地に帰り、霊(息)はそれを下さった神に帰る、その前に」という意味があります。

多くの人々は、「死」を美化して受け入れやすくしようともがきますが、「死」とは無生物の「ちり」と同じ状態になることに他なりません。ここでは、そうなる前に「あなたの創造者を覚えよ」と強調されているのです。

つまり、「あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に」とは、生きているうちに、気力が充実した元気なうちに、物事が順調に進んでいるうちに、あなたの身体も個性もすべてをパーソナルに創造してくださった神を覚えなさいという意味です。

その際、「あなたの創造者」は、あなたの様々な欠点や弱さや障害のすべてをご存知で「このままの姿」で受け入れてくださいます。自分を取り繕う必要はありません。一方、自分を中心にしか世界を見られないような人は、年を重ねるとともに、恨みや不満を募らせながら生きるということになりかねません。

12章3、4節では、この書の結論が「これらすべてを聴いてきたことの結論とは、『神を恐れ。その命令を守れ。』これこそが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いにさばきを下される」とまとめられます。

ただし食べたり飲んだり楽しむことと神を恐れる」ことは、コインの裏表のようなものです。なぜなら神を愛することの第一歩は、神から与えられた様々な恵み、神から許されたこの地上の生涯を感謝することから始まることは明らかです。自分の出生を恨み、生まれ育った環境を軽蔑しながら生きることは、私たち自身の「創造者」である神を愛することに反することです。

また、「善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いをさばかれる」という表現も、私たちを大胆にさせてくれる約束です。それは、真の罪とは「どうせ、私なんて……」などと自分を卑下しながら、「神のかたち」に創造された者として働きの可能性を自分で閉ざし、神と人とに対する責任を果たそうとしないことだからです。

人の評価を恐れるのではなく、神のまなざし、神からの期待を意識しながら生きることこそが、真に「神を恐れる」生き方と言えましょう。

この書で繰り返し勧められている「今ここで」の人生を楽しみ喜ぶという生き方は、「新しい天と新しい地」における生活を、この地で前味として喜ぶことに他なりません。

使徒パウロは「神のさばき」を「キリストのさばき」へと変え、「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現われなければならないのです」(Ⅱコリント5:10) と記します。

キリストは私たちすべての罪をその身に負い、死んでよみがえってくださいました。そこで何よりもキリストの前で問われることは、あなた自身の創造者を覚え、感謝し、喜び、自分に与えられた身体と心と五感のすべてを生かし、キリストの愛に応答して生きてきたかということではないでしょうか。