伝道者の書3〜9章「人生における成功とは」

2025年1月5日  

ビートルズのジョン・レノンは1980年12月8日にニューヨークで暗殺されましたが、その三日前に、間もなくリリースされる「ウーマン」という曲に関して、「女性が僕たちのために何をしてくれるのかが分かったんだ。ヨーコが僕のためにしてくれることだけではなく、すべての女性がしてくれることを」と語っています。

その曲で、「君は僕の分別のない入り交ざった感情を受け止め、僕に『成功の意味』を教えてくれた。女性は何よりも男性の内側にある幼子の心をよく理解してくれているから」と歌っています。

伝道者の書では、今ここでの幸せを味わうことが具体的に、「愛する妻との生活を楽しめ、日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に」(9:9) と勧められています。これはもちろん、愛する友、愛する家族という意味でも理解できます。

身近な人との豊かな交わりの中に人生の喜びがあります。それこそが「人生の成功」とも言えましょう。

1.「人は獣にまさりはしない……人はその働きの中で喜ぶ以上に善いことがない」

3章18、19節の原文では、「私はこの心に語りかけた、『人の子らについては、神は彼らを試練に会わせ、自分たちが獣に過ぎないことを見るようにされた』人の子に起こる出来事と獣に起こる出来事、その出来事はひとつ。これも死ねば、あれも死ぬ」と記されます。

人は極度の飢えの中で、獣と同じように、食べることしか考えられなくなりますが、それは神が与えた「試練」の中で感じられることなのです。

私たちは「人は神のかたちに創造された」という意味を拡大解釈し、人と獣がまったく異なるかのように理解しますが、ここでは続けて「すべてのものの霊(息)はひとつ。人は獣にまさりはしない(3:19) と描かれています。つまり、人も獣も「神の霊」によって生かされているという点では何の区別もないので  (詩篇104:29、30参照)。

さらに「人の子らの霊、それが上に上り、獣の霊、それが地の下に降りてゆくなどと、誰が分かろうか」(3:21) と問いかけられます。人の子らの霊と獣の霊の行き先の違いは誰も説明できません。実際、すべての生物には「死」に向かうという共通性が見られます。

私たちは獣と人間の違いばかりに目が向きがちですが、福岡氏伸一は「生物と無生物のあいだ」という書で、生物と無生物の間の違いこそが決定的であることを、「機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる……機械の内部には、折りたたまれて開くことができない時間というものがない。生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに従って折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある」と記します。

機械なら故障したとき、しばらく放置しても、部品を入れ替えるなら元と同じように動き出します。しかし、生命はひとつひとつがユニークで、逆戻りができない、また、取り替えようのない、微妙なバランスを保ちながら常に変化し動いているのです。

ただし人は、生きていることの不自由さと、すばらしさの両方を意識し、自分の人生を見直すことができます。それこそが、獣と人間の違いと言えしょう。

そしてそのことが「そして、私は見た。人はその働きの中で喜ぶ以上に善いことがない。それこそ人の受ける分だから。その後に何があるかを、誰が見られるようにできるというのか」(3:22) と記されます。

精神科医のヴィクトール・フランクルは、ナチス・ドイツの強制収容所での体験を、「当時、私たちは、食べるとか腹をすかすとか、凍えるとか眠るとか、ミツバチのように働くとか、殴られるといった、人間にふさわしくない問題ではなく、ほんとうに人間らしい苦悩、ほんとうに人間らしい問題、ほんとうに人間らしい葛藤にどれほど恋い焦がれたことでしょう」と記しています。

私たちは日頃、人間関係や自分の人生のことでいろいろ悩みます。しかし、家族や友人とともにそれを分かち合いながら、今、ここで食事できていること自体が、神の恵みです。

しかも、人の未来には死ぬ」こと以外に確実なことなどはない知っていること自体の中に恵みがあります。中世の修道院では、memento mori(死を思い起こしなさい、keep death in your thoughts)と挨拶し合っていたそうです。死を意識することで、今、ここで生かされていることが実感できます。その結果かえって、日々の働きの中に喜びを見出すことができるようになります。

2.「ふたりはひとりよりも善い……もし彼らは倒れても、ひとりがその仲間を起こす」

4章7、8節では「孤独」の問題が、「そして改めて、私は日の下の空しさを見た。ひとりの人がいて、相棒もなく、息子も兄弟もいない。そのすべての労苦には終わりがなく、その目は富に満ち足りることがないと記されます。

どんな人にも、何かを達成しようと黙々と働きながら、ふと何とも言えない寂しさに圧倒されることがあります。太宰治の「人間失格」に描かれていますが、彼は文学者としての成功の影で、恐ろしいほどの孤独感に苛まれていました。野獣と変わりはしない人間の身勝手で凶暴な現実を垣間見ながら、恐れて生きていました。彼の作品が人々から愛読されるのは、彼が人間のたましいの奥底にある不安と孤独を真正面から描いているからでしょう。

私たちは、何かを成し遂げることで心の満足を得られると期待しますが、人の心の渇きは、富によっても成功によっても満たされることはありません。

そのような中で著者は突然、一人称で誰のためにこのは労苦し、たましいの幸せをも犠牲にしているのか?」と問いかけます。

何かを達成しようとするなら、時間を無駄に使ってはいけないのは当然ですが、今ここに与えられている家族や友との交わりや、自分のたましいにとって善いと思えることまでも犠牲にして、人が何かを成し遂げたとしても、それが何になるというのでしょう。

まさに、「これもまた空しく、つらい労苦だ」と言わざるを得ません。

4章9節ではそれを前提に、「ふたりはひとりよりも善い」という単純な人生の現実が描かれます。

たとえば太宰は、「走れメロス」という短編で、友のために命をかけるという最高の友情の美しさを描きました。私たちはみなそのような友情に憧れますが、理想が高いほど、現実の自分にも友にも、また家族にも失望せざるを得なくなり、つい「あなたは結局、自分のことしか考えていない!」という、誰にも当てはまる非難が出てきます。しかし私たちはそれでも、常に、友を、そして家族を求めるのではないでしょうか。

エーリッヒ・フロムは、「人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ」と語っています。

現代の日本社会は、外の世界を消してしまった人の凶暴な犯罪に怯えています。しかも、その恐怖が、より多くの人を、さらなる孤独の牢獄に追いやっています。それがまた、狂気に駆り立てられた事件を生み出します。

私たちはどんな友であれ家族であれ「いないよりはまし」という現実、つまり単純に「ふたりはひとりより善い」という真理を覚えるべきです。そこから隣人への感謝が生まれることでしょう。

「彼らには労苦において善い報いがあるから」(4:9) とは、ふたりで何かに取り組むことの最大の報酬です。成し遂げたことを互いに喜び合うことができることこそ最高のたましいの満足感ではないでしょうか。

また、「もし彼らは倒れても、ひとりがその仲間を起こす。惨めなのは、倒れても起こしてくれる相棒がいないひとりの人」(4:10) と記されますが、私たちは仕事のパートナーと一緒に転ぶようなことがあったとしても、どちらかが先に立ち上がり、手を差し伸べてくれます。これは、相手がかなりのエゴイストであったとしても期待できることでしょう。しかしそのような友がいないことは人生最大の恐怖になります。

「また、もしふたりが寝れば暖かいが、ひとりならどうして暖まれよう」(4:11) とは、夫婦関係以前に、夜露に濡れながら野宿をしている羊飼いをイメージさせる表現です。多少、気の合わない相手でも、互いの身体を温め合うことぐらいはできます。

さらに「しかも、もしひとりの強い人がいても、ふたりなら立ち向かえる」(4:12) という現実もあります。考え方の違う人どうしでも、共通の敵ができたときには不思議に一致して立ち向かうことができます。

私たちにはみな、このような意味での相棒が必要です。なお、8、10節で「相棒(仲間)」と訳したことばは、原文では第二のという意味の形容詞で (4:15参照)、生きて行く中で自分の隣にいるすべての人に適用し得る、親友から仕事のパートナーまで、すべての関係を含むことばだと思われます。

つまり、どんな相棒であれ、人生には必ずあなたの味方になってくれる人が必要なのです。そして、それに続いて「さらに三つよりの糸は簡単には切れない」と記されます。ここでは、「三つり」となっているように、三本が一本の糸にされている状態を指します。

三人の関係は、常に、二対一に分かれる危険をはらんでいます。しかし、イエスを中心の糸としてふたりが結ばれるなら、「三つ撚りの糸」として力を発揮することができることでしょう。

3.「蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす……裸で来て、裸で去って行く」

5章10節での「金銭を愛する者は、金銭に満足することがない。豊かさを愛する者もその収益に。 これもまた空しい」という表現は、多くの人の葛藤の原因を指摘した名言です。

聖書は、お金や富を決して軽蔑はしていません。それどころか、神からの祝福は、財産が増えることとして描かれます。ただし、お金は大切だからこそ、偶像になります。

そして「財産が増えると、それを消費する人も増える。持ち主はそれを目で見る以外、何の得もない(5:11) と描かれますが、財産が増えると、それに群がってくる人も多くなり、所有者はそれを見て、一時的な優越感に浸るだけで、そこにはいつも不安が同居します。なぜなら、いつも自分より勝った人がいるばかりか、最高の地位に立っても、いつ追い落とされるかわからないからです。

それをもとに「働く者の眠りは、少し食べても多く食べても、心地良い。しかし、富む者は満腹しても、眠りを妨げられる」(5:12) と記されます。

人は労働の疲れの中で、満腹感がなくても安眠できますが、富む者は怠慢の中で満腹しても、不安のため眠りが浅くなります。

その上で「痛ましい悪が日の下にあるのを私は見た。蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす。その富は不幸な仕事によって失われ、息子が生まれても、その手に何もない」(5:13、14) と描かれます。

最初からお金がなければ、リスクを冒しようもないのですが、「蓄えられた富」自体が投資先を求めるように所有者を動かし、破産することがあります。すると、せっかく「息子が生まれても、その手に何もない」と、何も残せないどころか、ときには絶望感ばかりを受け継がせることになります。

そればかりかたとい成功しても、「人は、母の胎から出てきたように、裸で来て、裸で去って行く。自分の労苦の実を、何ひとつ、手に携えて行くことはできない」(5:15) という現実が、すべての人に起きます。

人はまったく無力な者として、裸で母の胎から出てきます。その後、様々な能力や知識や富を身につけ、多くの友や家族を持ちますが、死ぬときは、それらを何も携えて行くことはできません。

それを直視するとき、「そしてこれも痛ましい悪だ。来たときとまったく同じように去って行く。風のために労苦して、それが何の益になろうか」(5:16) と言わざるを得ません。死の姿が誕生と同じなら、一生の苦労は何のためだったのでしょう。

そればかりか、「しかも、一生の間、闇の中で食べる。苛立ち、病、怒りは尽きない」(5:17) とあるように、人の一生は苦しみに満ちています。これこそエデンの園の外の現実です。神は、ご自身に背いたアダムに、「大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる……あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る」(創世記3:17、19) と言われました。

多くの人は「もっと違った仕事についたら……」「もっと違った家庭だったら……」などと憧れることがありますが、この地では、「苛立ち、病、怒りは尽きない」という現実から自由になることはできません。

その結論が5章18、19節で、「それゆえ私は見た。善いこと、美しいこととは、神が与えた短いいのちの日々を、食べたり飲んだり、日の下で労するその労苦の中に幸せを見出すこと。それが人の受ける分だから。さらに、人がすべて、神から富と財宝が与えられ、それを享受し、受ける分を受け、労苦の中で楽しむことができるように許されているとき、それこそが神の賜物」と記されます。

これこそが、この世の空しさを見た結果として「見えてきた」真理でした。それは3章10–13節でも言われていたことでした。よく言われるように、幸せは、持つものではなく、感じるものです。

確かに、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17) と記されますが、クリスチャンになっても神経質な人は神経質なまま、浮き沈みのある人は浮き沈みがあるまま、内向的な人は内向的なままでしょう。しかしそれまでと同じ自分を、まったく違った視点から見ることができる時、既に「新しく造られた者」となっているのです。

実際、私が自分の性格の一部を嫌っていた時、「僕は偉い!」と誇る一方、「僕は何て駄目なんだろう……」と自己嫌悪に陥っていました。しかし徐々に、自分自身を神によってユニークに創造された者と見ることができるようになったとき、世界が変わって見え始めました。

そこで起こる変化が「その人は、自分のいのちの日々のことをあまり思い返すこともない。それは神が、その心を喜びで満たされるから(5:20) と記されます。これこそが、キリストにあって新しくされた喜びです。

4.「正しすぎてはならない……悪すぎてもいけない」

7章13節では、「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを、誰がまっすぐにできよう」と不思議なことが記されます。これは、神が私たちの人生に試練を与えようとしておられるときに、それを避けることは誰にもできないという意味と言えましょう。

同時に「幸せな時には幸せを味わえ」(7:14) と記されるのは、人生には必ず苦しみの時が来るのが明らかだからこそ、束の間の幸せを心から享受するようにという勧めです。命をかけてヒトラーと戦って殉教したディートリッヒ・ボンヘッファーは、「力の源は、感謝に満ちた思い出である」と言っていますが、幸せを味わうことは、この世の困難に直面する最大のエネルギーになります。

これとセットに、「災いの時には、目を留めよ(逆境の日にはよく考えよ」)と記されますが、これは先の「神のみわざに目を留めよと同じ動詞が使われています。人はみな、逆境のとき、物事を必要以上に悪く見る傾向がありますが、文脈から明らかなように、災い」は、神の罰ではなく「神が曲げたもの」、私たちの思いを超えた「神のみわざ」です。そのことに「目を留めよ」と勧められているのです。

なおここは「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」(新改訳第三版) と訳されたことがありますが、それでは、「なぜこのような災いにあったのかを反省せよ」という意味に誤解される可能性があります。それはこの世の因果応報の考え方です。

それを前提に「これもあれも神のなさること。このため人は後の事を見極めることができない」(7:14) と記されます。それは、「あなたがたには、明日のことは分かりません」(ヤコブ4:14) と断言されるとおりです。

自分で自分の未来を切り開こうとする責任感は大切ですが、はるかに重要なのは人の未来を支配しておられ、「すべてのことをともに働かせて益としてくださる」(ローマ8:28) 創造主に信頼することです。天地万物の創造主にとって、制御不能 (out of control) なことはないからです。

私たちの人生には、順境の日と逆境の日の繰り返しが必ずあります。「逆境の日」には「なぜ」という「反省」ではなく、「これもあれも神のなさること」と、現実をそのまま (Let it be) に受け止め、そこで神から問われていること、今ここで対処すべきことに心を集中すべきです。いつでもどこでも今ここに目を向けておられる神の眼差しを意識することが大切なのです。

7章15節では、「この空しい日々の中で、すべてを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある」という「日の下」の不条理に目が向けられます。

これは繰り返されるテーマですが、ここでは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜ自分を滅ぼすのか」(7:16) という不思議な展開になります。

聖書には、「主の御教えを守るなら、あなたは幸せになる」という趣旨が繰り返し書かれています。これは本来、主を愛していること自体の中に幸せがあるという意味ですが、しばしば、「私たちの側に正義があれば、幸せになれる」という因果応報の教えと混同されてきました。

しかし人は、悪人であるほど自分の正当性を主張するという逆説もあります。20紀初頭の米国暗黒街の帝王アル・カポネは逮捕された時、「俺は働き盛りの大半を、世のため人のために尽くしてきたのに」と、自分の慈善事業が認められなかったかのように嘆いたとのことです。

そこにあるのは、自分の正当性を主張することで、自分の人生を把握していたいという思いではないでしょうか。しかしそれは、神ではなく自分を善悪の基準とした最初の人間アダムの罪そのものです。

アダムは、神から「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのかと問われただけで、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこのこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と、神と女とを非難しました (創世記3:11、12)。

残念ながら、今も、同じ夫婦喧嘩がどの家でも同じパターンで続いています。「私は正しい。あなたは悪い」と徹底的に主張し合うなら、結婚関係は必ず破綻します。家族を失ってから、「私は何を得るために、自分の正当性を主張したのか……」と反省しても遅すぎます。

しかし、多くの人は、反省もできず、なお自分の正当性を主張し続けることでしょう。これは、すべての人と人との関係、また国と国との関係にも適用できる原則です。

同時に「知恵がありすぎる」ことにも落とし穴があります。ソロモン王はこの世の誰よりも知恵がありましたが、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも「滅び」への道となります。

一方で、悪や愚かさに居直ることの危険が、悪すぎてもいけない。愚かであってもならない。なぜ、その時でもないのに死ぬのか」(7:17) とも記されます。「神のかたち」に造られたすべての人には、良心があり、悪いことをしたら心が痛みますが、悪いことをしすぎるとそれも感じなくなり、生ける屍(しかばね)状態になります。

「愚かであってもならない」とは、人はすべて創造主からの贈り物としての固有の才能が与えられており、それを生かし成長させる責任があるからです。

「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、すべてをくぐり抜ける(7:18) とは、「……すぎてはいけない」というこのふたつの真理を同時に大切にすることの勧めです。

私たちは自分の罪深さや愚かさを自覚することと同時に、自分が「神のかたち」に創造された「高価で尊い」(イザヤ43:4) 存在であるということの両方をいつも忘れてはなりません。この両方を覚えることが、「神を恐れる」ことです。そして、「神を恐れる者」の人生を、神は守り通してくださいます。

5.「日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ」

9章7、8節では、「さあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。それは神がすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから。いつも、真っ白な衣を着て、頭には香油を絶やすな」と命じられます。これは刹那的な生き方の勧めではなく、神に生かされていることの恵みを心から喜び味わうようにとの勧めです。

そして「日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ。あなたの空しい日々に」(9:9) と記されます。それは、この世の人生の空しさを見据えるからこそ、今、与えられている最も身近な人との交わりを喜ぶ必要があるということです。これこそ天国の前味です。神が備えていてくださる「新しい天と新しい地」は、そのような愛の交わりの完成するところです。

そしてこれこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから。 手もとに見出したことはすべて、あなたの力で行え」(9:9、10) と記されます。これはこの地上での「食うために働かなければならない」という「空しい」現実をそのまま受け入れ、働く事とその報酬を楽しみ喜ぶ事という生活のリズムを、神の恵みとして受け入れることとの勧めです。

イエスの救いを知る者は、自分の人生のゴールが、喜びと平安に満ちた世界であることを「私は知った」(3:10–14参照) と告白できるようにされています。

「会うは別れの始め」と言われるように、私たちの人生は基本的に不安定なものです。それはすべての人生が死に向かっていることから生まれます。しかし聖書は、生きることや愛の交わりに執着することを戒める代わりに、それを天国の前味として、今ここでそれを喜ぶことを勧めています。喜びが儚いからこそ、ここでの一瞬の幸いから永遠の喜びを思い巡らすように勧められています。

確かにこの地をよりよくするために何か大きな貢献ができることは大切であり、そこに生きる意味が生まれるように感じられます。それを達成できた人が「成功者」と見られがちです。

しかし、神の救いのみわざのゴールは、シャローム(平和)です。それは互いに何の不足も感じない、愛の交わりの完成の時です。それを今、目の前の愛する人や友と、この瞬間に先取りして味わうことができるのであれば、それこそ主にある「成功」体験と言えましょう。