少し前に「保守政治家 石破茂」という本を読みました。クリスチャン首相として、政治的な見解の違いを超えて期待したい面があるからです。
そこで彼の次のことばが面白いと思いました。
保守というのはイデオロギーではなく、一種の感覚であり、たたずまいであり、雰囲気のようなものだ、ということです。皇室を貴び、伝統文化や日本の原風景を大切にし、一人一人の苦しみ、悲しみに共感する。その本質は寛容です。
相手の主張に対して寛容性をもって聞く、受け入れる度量を持つ、という態度こそ保守の本質です。
ですからこの点、いわゆる右寄りの主張を声高にする人々の立場は、本来は「保守」ではなく「右翼」と呼ばれるべきものだと思います。
政治家も、相手を尊重し、もしおのれに誤りがありとせば正していく。少数意見を大切にし、国会では野党の質問にも丁寧に答える。これが保守のあり方です。
保守と右翼の違いを述べていることが、何となく、安倍政権のあり方に時に批判的だった石破さんのスタンスを現わしているように思えました。
本書の最後に、編集者が、岸信介、福田赳夫、安倍さんに代表される「自民党本流」と、石橋湛山、吉田茂……大平正芳らに代表される「保守本流」の違いを書いているのを見て、同じ自民党政権での違いに目が開かれました。
今は、自民党本流から保守本流に移行した時期と言えるようです。
石破さんのもとで少数与党になっていますが、今のところ野党との意見調整を進めながら、予算や政治改革法案を次々と成立させていることには感心しております。
なお、当教会に集う方は、本当に驚くほど多種多様な政治的意見の方がいらっしゃいます。その多様性こそ、当教会の魅力だと思っていますから、これは決して、牧師が石破政権を皆さんに推薦するという意味ではないことはご理解いただけるものと思います。
残念なのは隣国韓国の政治対立です。ユン大統領の戒厳令発布はどう考えても行き過ぎだと思いますが、彼がそのような決断をせざるを得ないほどに、政治的な対立が激しく、重要法案も決められなかったという現実の方に私たちは目を向けるべきでしょう。
隣国が、政治的な「対話」ではなく、互いの立場を全否定し合う政治「闘争」に支配されていることはとっても悲しいことです。
本日は、詩篇9篇です。ここには、聖書の神、主ご自身がこの世界を究極的には治めてくださるという安心感が歌われています。
詩篇9篇1–12節「義の審判者」
1、2節は、主への賛美から始まりますが、「あなたの奇しいわざを余すところなく語り継げます」と記されていることばは、「あなたのすべての不思議なみわざを数え直します」とも訳すことができます。
それは、ひとつひとつのみわざを丁寧に思い起した結果として、黙っていることができなくなるというプロセスを現しています。
4節の「正しい訴えを聞かれる」「義の審判者」、8節の二回の「さばき」は同じヘブル語の語根から生まれた言葉です。
多くの人は、「主のさばき」と聞くと、自分の隠された罪が顕にされる恐怖を抱きますが、多くの聖書の箇所では、実際に神の民がこの世の権力者から「しいたげられ」「苦しみ」に会っているという現実を前提として (9節)、神が私たちのために正義を実現してくださるという趣旨で描かれています。
そのことが「あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれる」(4節) と記されているのです。
ルカによる福音書18章で、イエスは、不当な仕打ちを受けているひとりのやもめが不正な裁判官に必死に訴えた結果、彼女を守るためのさばきが下されるというたとえで、私たちが「いつでも祈るべき」ことを教えておられます。
そのことがこの詩篇では「血に報いる方は……貧しい者の叫びをお忘れにならない」(12節) と記されます。
民主主義社会では、「公正なさばき」が保障されるはずという前提で、訴訟合戦がなされることがあります。
訴訟もときに大切なことがありますが、信仰者は誰よりも、天におられる「義の審判者」に訴え、委ねつつ、今ここで、主から期待されていることに日々目を向けるべきでしょう。
この世の裁判の背後にある天の審判者に期待することを忘れた争いが、自分の正義を盾にした泥沼の争いに発展することが多々あるからです。
もちろん、社会的弱者を守るためにこの世の裁判制度を機能させることは大切ですが、それが、神の最終的なさばきを忘れさせるような力の論理になることは危険です。
【祈り】 私たちはこの世で様々な不条理に直面しますが、それを正そうとして別の争いを作ることがないように、いつでも「義の審判者」に信頼させてください。