神の選びの中で

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2024年クリスマス号より

 私たちはいつもいろんなことで心が騒ぎ、また落ち込みます。もっとキリストにある平安をいつも味わっていたいとは願いますが、目の前に起きるさまざまことに心が揺れます。
 私にとっては、今年の5月末、母が天に召されたことが、本当に大きなことでした。重症筋無力症という難病の中、97歳まで生かされたことは、この世的には大きな恵みでしょうが、自分の心の中には今も大きな穴が開いている感じがします。2020年からの新型コロナの期間を本当に恨めしく思います。その直前には、母の施設の同じ部屋に泊まることもできたのに、それが会うこともままならなくなりました。母の人生の歩みをもっともっと聞いておきたかったという後悔があります。

 そして私も来年3月には72歳を迎えます。いろんな面で発想が硬直化していることを感じます。それは目の前のさまざまな課題に対する対応能力の限界として現れます。忘れっぽくなり、同時に多面的なことに同時に気を配って柔軟に対応する能力が衰えてきているのを感じます。そのような中で、この私たちの教会の後継者が決まったことは本当に大きな神様の恵みと感じられます。
 しかし、まだまだ聖書を読み、その福音を味わい、また語ることに関しては、何の衰えも感じてはいないように思っています。悩みを抱える人の相談に載ることにも喜びが感じられます。そして、改めて、神様が自分に与えてくださってる賜物を生かし続けたいとも思わされています。ですから、これからは、自分の心が燃えることにより集中できたら良いと心から思っています。
 母の召天をとおして、母が自分を生んでくれたときからの歩みを改めて思い巡らしています。そして、改めて自分の出生が神の永遠の選びの中にあったということを思わされています。
 エペソ人への手紙1章4、5節には次のように記されています。

神は、世界の基が据えられる前から、この方(キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神はみこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようとあらかじめ定めておられました。

 ドイツの人口が半減したとも言われる三十年戦争の直後に生まれた、最高のクリスマスの讃美歌があります。パウル・ゲルハルドの作品です。それは自分のいのちのみなもとである神の御子のイエスが飼い葉桶の中に横たわっている、その傍らに立っての黙想の歌です。その2、3番目の歌詞では次のように歌われ、私たちの不安や悲しみを通しての救いの希望に思いが向けられています。

私が生まれる前に、あなたは私のために生まれてくださった。
あなたは私をご自分のものにしようと、私があなたを知る前に私を選んでくださった。
何と、私があなたの手で造られる前から、あなたは私の救い主になることを望まれ、
そのことをすでに思い量っておられた。

私が深い死の暗闇に横たわるようなときにも、あなたは私の太陽であられる。
私にもたらされた太陽、それは光、いのち、喜び、楽しみ。
そのまことの光は、私のうちに信仰の光を灯してくださった。
あなたの輝きは何と美しいことか。

 私たちはつい自分の信仰の成長を人間的な努力目標のように捉えることがありますが、私を母の胎のうちで組み立ててくださった創造主ご自身が、私の心のうちに信仰の光を灯してくださったのです。求められていることは、力を抜いて、主のご計画に身を任せることです。
 そこで私たちは神の深い愛に思いを巡らしますが、それはいつまでも完全に理解できるものではありません。そのことが4番の歌詞で次のように歌われます。

私は喜びを持ってあなたを見つめるが、満足に観ることはできない。
今は、これ以上はできないので、私はただ祈りつつ、たたずんでいる。
この感覚が底知れず豊かで、このたましいが海のように広いなら、
ああそうであるなら、あなたを理解することができるのに……

 ただ私たちのこの地での生活では、試練のただ中で、人生の暗闇を体験することがあります。しかし、そこでこの讃美歌作者は次のような出会いを体験していきます。イエスはそこで私たちの贖い主であると共に、私の兄として、私の人生を導いてくださるという慰めが生まれます。

私のこころが深い悲しみに沈み、何の慰めをも見いだせないとき、
あなたは私に呼びかけてくださる。「わたしはおまえの友、おまえの罪の贖い主。
わたしの弟、妹よ、何を悲しんでいるのか?おまえはわたしの愛しい者。
わたしはおまえの罪の代価をすでに支払ったのだから……」

 さらに、イエスの地上の生涯の意味を次のように思い巡らします。そしてそこから、自分の身をイエスの新たな飼い葉桶としてささげて、この世に愛と希望を分かち合いという思いが歌われます。私たちが自分の人生を、神の御手の中にあるものとして受け止めるのは、ただ惰眠を貪るためではありません。永遠のいのちが保障されていると信じるからこそ、人と人とが争い、不条理が渦巻くこの世の危険の中に踏み出すことが可能になるのです。それが8、9番で次のように歌われます。

あなたは、この世の楽しみも、からだの喜びをも求めはしなかった。
あなたはただ、私たちの身代わりに苦しまれることを望まれた。
苦痛と惨めさに耐えながら、私のたましいの栄光を求めてくださった。
それを私は決して無駄にはしない。

ただ一つのことをあなたに願いたい。私の救い主よ。それを退けないでください。
あなたをたえず、私のうちに、そばに、かたわらに担わせてください。
この私を、あなたの飼い葉桶として用いてください。
どうか、あなたご自身とあなたの喜びのすべてが私のうちに宿ってくださるように!