「万軍の主」は、ダビデを「羊の群れを追う牧場からとり……イスラエルの君主とし」(Ⅰ歴代誌17:7) たばかりか、その王家は永遠に続くと約束されました。
それを聞いた彼は、神に向かい、「私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので……ここまで私を導いてくださったのですか……この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに……あなたは私を、高い者として見ておられます」(Ⅰ歴代誌17:16、17) と感謝の祈りをささげました。
これこそ、詩篇8篇が記された背景です。
そして今、神は、キリストのうちにある私たちひとりひとりを、何と、ダビデのように「高い者」として見てくださいます。
ですから、自分を高めてくださる神を求めるという発想を捨て、神が私を何のために創造し、何を期待しておられるかを常に考える必要があります。そのとき、真の意味で健全な自己認識を持つことができます。
全宇宙の広さとの比較で見ると、人は、蟻よりもはるかに小さく、吹けば飛ぶようなひ弱な存在に過ぎません。しかし、神はそのひとり一人を「心に留め」、また「顧み」ていてくださいます。
パスカルは人の弱さと尊厳の関係を、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦である。……蒸気や一滴の水でも彼を殺すには十分である。だがたとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては考えることの中にある……」(パンセ347、1978年中央公論社、前田陽一訳) と言いました。
私たちは本能的に、自分の頼りなさを知り、孤独を、また見捨てられることを恐れています。しかし、それがゆえに、自分の知恵や能力を示し、「私は愛されるに値する存在です」とアピールしたくなります。
そこから人と人との比較や競争が始まり、心の中で、「確かに私は弱く愚かだとしても、あの人よりはましだ……」と思うことで慰めを得ます。
しかし、パスカルの言うように、自分の絶対的な頼りなさと真正面から向き合うことができることこそが、人間の尊厳である「考えること」の本質なのです。
そして、その弱さを腹の底から感じるそのただ中で、直感的に神の愛を体験するのです。
「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし」(5節) とは、ひとりひとりが「神のかたち」に創造され、神と対話できることを指し示します。
「栄光と誉れの冠をかぶらせ」とは、人の知恵とか力などのような、生産能力への報酬ではなく、神と顔と顔とを合わせて語り合うことが許されるという誇りに満ちた関係を表わします。私たちの栄光は、自分から生まれるものではなく、神の栄光を映し出すことの中に現されます。
人は本来、神との対話の中で、この地のすべてのものを治めることができるように創造されました。しかし、人が神に逆らい、自分を神のようにして以来、人と自然との間には分裂が生じました。人が自然を破壊すると同時に、自然界が人を傷つけるようになります。
ですから、私たちが創造主 (ヤハウェ) を、「私たちの主(主人)」として認め、自分の弱さと向き合い、主を心から賛美することによって、この世界の調和は回復されることになるのです。この詩は、神の創造の目的を思い起こさせるものです。
ヘブル人への手紙2章5-10節では、イエスご自身がこの詩に描かれた人としての生き方を全うされ、私たちを「栄光に導く」と約束されています。
そして、キリスト者とは、本来、ご自分を低くされたイエスの生き方に習いたいと願う者のことを意味します。
そして、そう願うことができることこそ、聖霊のみわざです。そのとき「幼子や乳飲み子たちの口によって、力を打ち建て」(2節) られる神が、私たちを通して、ご自身の栄光を表わしてくださるのです。
強がりを捨て、幼子のように主にすがりましょう。
以前のことですが、「こんな不信仰な自分が、牧師をやっていて良いのか」と悩んだことがあります。今も、ときにそう思いますが……。
そのとき、ふと、すべての自分の歩みが、全能の主がこんな私を「心に留め」また「顧み」てくださったことから始まったと振り返ることで、安心できます。
神の「全能さ」は、何よりも、小さなひとり一人に「注目し」、ご自身の目的のために用いることができることに現されるのです。
【祈り】 主よ、人との比較ではなく、あなたの視点から自分自身を見ることができるように、私の霊の目を開いてください。そして、あなたの栄光のために私を用いてください。