パウロがこの手紙を書いたときの「聖書」とは、旧約聖書しかありませんでした。そこではイスラエルの民が神の民の共同体として整えられるための律法がありました。特に当時は、「安息日を守る」ことや食物律法を守ること、また様々な「汚れ」から「清められる」ための手続きが何よりも大切にされました。
イエスの最初の弟子はユダヤ人だけでしたが、彼らは最初、異邦人を神の民として受け入れるためには、これらの掟を守ることが必要と思っていました。
しかしパウロは違いました。彼は10章9、10節で、「もしあなたの口においてイエスを主と告白し、あなたの心において神はこの方を死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われることになります。それは、心で信じることは義とされること、口で告白することは救われることだからです」と明確に記しています。
そればかりか四回の「すべて」という単語を入れて、「すべてこの方に信頼する者は、恥を見ることがない。それは、ユダヤ人とギリシャ人の間に分け隔て(分離)はないからです。というのも、同じ主がすべての人にとっての主であり、この方に呼びかけるすべての人に対して豊かであられるからです。それは、すべて主の御名を呼び求める者は、救われることになるから」(10:11–13) と述べました。
この「すべて」ということばを通して、イスラエルの救い主と期待された方が、全世界の民にとっての「救い主」となったのです。これこそ、旧約と新約をつなぐ鍵のことばです。
1.「『あなたの神が王となる(治める)』とシオンに告げる救いを聴かせる」
10章13節では、「すべて主の御名を呼び求める者は、救われることになる」と記され、それを受けて、14、15節は、「それでは、どのように呼び求めるのでしょう、信じたことのない方を。どのように信じるのでしょう、聞いたことのない方を。またどのように聞くのでしょう、宣べ伝える人がいなければ。またどのように宣べ伝えるのでしょう、遣わされることがなければ。それはまさに書かれているとおりです、『なんと美しいことよ、良い知らせを伝える人の足は』と」と記されています。
ここでは「どのように呼び求めるのでしょう」「どのように信じるのでしょう」「どのように聞くのでしょう」「どのように宣べ伝えるのでしょう」という四回の質問と共に、最後に「遣わされる」ことの恵みが描かれ、イザヤ52章7節の一部が引用されます。
そこでは、「なんと美しいことよ、山々の上にあっての足は、良い知らせを伝え、平和 (シャローム) を聴かせ、幸いを知らせ、『あなたの神が王となる(治める)』とシオンに告げる救いを聴かせる」と記されています。
パウロは10章13節でヨエル書2章32節から引用しました。そこでは「主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主 (ヤハウェ) の御名を呼び求める者はみな(すべて)救われる。主 (ヤハウェ) が言ったように、シオンの山、エルサレムには逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、主 (ヤハウェ) が呼び出す者がいる」と記されています。
そしてローマ10章15節ではイザヤ52章が引用されます。そのどちらの文脈でも、神のご支配がこの地から見えなくなり、「主 (ヤハウェ) の御名」が「絶えず侮られている」という現実がありました。
イエスの宣教の初めのことばは、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて(立ち返って)、福音を信じなさい」(マルコ1:15) というものでしたが、イザヤによるとその福音とは、「あなたの神が王となる」という、神のご支配の現実がこの地で明らかにされることを意味しました。
「どのように」という「問い」の最初は、主 (ヤハウェ) を知らなかった人が「どのように、主の御名を呼び求める」のか、信じたことのない人が「どのように信じる」のか、聞いたことがない人が「どのように聞くのか」というプロセスに関することです。
つまり、最初に未信者の視点からの問いかけがあり、その上で「どのように宣べ伝える」のかという宣教者の視点へと話題が展開されます。
その上で、聖書が語る「良い知らせ(福音)」の内容が問われてゆくことになります。あなたは「良い知らせ」と聞くと、何を思い浮かべるでしょう。
その内容は時代によって強調点が変わる面があります。たとえば16世紀の宗教改革の時代は、多くの人々がカトリックの煉獄の脅しに怯えていました。そこで教会が発行した「免罪符」を買えば、自分ばかりか先祖の煉獄の苦しみも軽くなるとさえ言われました。しかし実際は、ローマの聖ペテロ寺院建設の借金を返すためというこの世的な動機が働いていました。
マルティン・ルターはそれに対して「神の義」とは厳しい「神のさばき」の基準ではなく、罪人の私たちを「義と認める」ための恵みだと語りました。それはローマ人への手紙3章22–24節で、「神の義がイエス・キリストの真実を通して、すべての信じる人に与えられた……それはすべての人が罪を犯して、神の栄光を受けるに値しなくなっているからです。それで、神の恵みによって価なしに義と認められることになりました」と記されているとおりです。
これは死後のいのちへの不安を持っている人にとっては最高の福音になります。それは大切な福音理解です。
しかし一方で、イザヤやヨエル書での問いかけは、この地に神のご支配が見えないことにありました。ヨエル書では、いなごの大量発生の中で、「目の前で食物が断たれ……神の宮から喜びも楽しみも消え失せ……諸国の民の間で、『彼らの神はどこにいるのか』」という「物笑いの種となっている」という現実がありました (ヨエル1:16、2:17)。
これはこの日本で、「あの人、神を信じていても不幸に見える。あの人の神など、信じるに値しない」と言われることに似ています。これはイザヤの文脈では、イスラエルの民がエジプトやアッシリアという強国に挟まれ、弱小民族イスラエルの神の御名が「絶えず侮られている」という現実に似ています (イザヤ52:4、5)。
つまり2600年前のイスラエルの現実は、今の日本人にとっても身近なことなのです。これは最初の「どのように呼び求め……どのように信じ……どのように聞く」という問いかけにも合致します。
ですから、旧約のイスラエルの現実と、ローマ書が記された歴史的な文脈、また今の私たちの文脈を結び付けることで、福音の理解が深められます。
そこで「神の前に義と認められる」とは、この世的な成功の基準ではなく、このままの自分が創造主から喜ばれているという福音であり、神は私たちを通して、この世界においてご自身のご支配の現実を現すことができるという希望になります。
つまり、「信仰によって義と認められる」とは、死後のいのち以前に、この不条理に満ちた世界の中で体験できる恵みなのです。
しかもここでは、「どのように聞くのでしょう、宣べ伝える人がいなければ。またどのように宣べ伝えるのでしょう、遣わされることがなければ。それはまさに書かれているとおりです、『なんと美しいことよ、良い知らせを伝える人の足は』と」続きます。
ここでは、福音を聞いていただくために「宣べ伝える」必要があると言いながら、そこに神によって「遣わされる」という、神のご主権が強調されています。私たちはこの世の人々の心の関心に合わせなければ聞いてもらうことはできませんが、聴衆に合わせ過ぎても良いわけではありません。
イザヤやエレミヤが命じられたように、人々が聞きたくない話しをする必要もあります。その意味で、神が2600年前のイスラエルに語ろうとしたことをよく理解する必要があります。そしてその福音は決して難しくはありません。
それは有名なヘンデルのハレルヤコーラスで、「何と美しいことよ、彼らの足は、平和の福音を宣べ、良いことのための喜びの知らせをもたらす」(ローマ10:15別訳) と歌われながら、その喜びが、「Hallelujah ハレルヤ(主をたたえよ)、for the Lord God Omnipotent reigneth 全能の神である主が治めておられるのだから。
The kingdom of this world is become the kingdom of our Lord and of His Christ; He shall reign for ever and ever この世の王国は私たちの主とそのキリストの王国になった。主は永遠に治められる
King of kings、 and Lord of Lords 王たちの王 主たちの主 Hallelujah ハレルヤ」と歌われます。
これこそ、主が宣べ伝えることを命じられた福音です。牧師の働きを始めて5、6年が経った頃、次から次と問題にぶつかり、何をやってもうまく行かないと思えた時、演奏する友人の誘いでヘンデル作のメサイヤを聞きに行きました。そこでハレルヤコーラスを聞きながら、自分の苦しみが王であるイエスのご支配の御手の中にあると深い感動を覚えました。
そのことを後で演奏者の友人に話したら、その方もその瞬間に、何とも言えない熱い思いが伝わってきたと言ってくださいました。
「何と美しいことよ」と言われるのは、福音を伝える者の「足」自体です。つまり、足で歩いて、人と人との触れ合いを通して伝えるという個人的な関係が大切なのです。一方的な宣伝のような語り方ではなく、心が通じる会話が必要なのです。
2.「主よ、だれが信じましたか、私たちが聞いたことを」
10章16、17節では「しかし、すべての人が福音(良い知らせ)に従ったわけではありません。それはイザヤが言っているからです、『主よ、だれが信じましたか、私たちが聞いたことを』と。ですから、信仰は聞くことから、また聞くことは、キリストのことばを通してなのです」と記されます。
これはイザヤ53章1節「だれが信じましたか、私たちの聞いたことを」からの引用ですが、その文脈を見なければその意味が分かりません。
そこでは続けて、「主 (ヤハウェ) の御腕は、だれに現れたのか。彼は御前で若枝のように芽生えたが、乾いた地から出ている根のようだった。見とれるような姿も、輝きも彼にはなく、私たちが慕うような見ばえもない。蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」(53:1–4) という苦難のしもべの姿でした。
しかしそこでは続けて、「まことに、彼が負ったのは私たちの病、担ったのは私たちの悲しみ。だが、私たちは、彼は罰せられたのだと思った、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちの背きのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちの平和 (シャロ-ム)、その打ち傷が私たちの癒しとなった。
私たちみなが、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。そして、主 (ヤハウェ) は、彼に負わせた、私たちみなの咎を」(53:4–6) と記されていました。
それはまさに、私たちの「病を負い」と「悲しみを担う」ために遣わされた救い主の姿、また神がこの方に私たちの「背き」と「咎」を「負わせる」ことで「罪を贖う」という不思議な「救い」でした。
それはユダヤ人にとっては信じがたい福音でしたが、それは彼らが大切にするイザヤ預言の一部でした。
今も、ユダヤ人がイエスを救い主と信じるかどうかの鍵は、このイザヤの預言をどのように理解するかにかかっています。
彼らは多くの場合、この預言をイスラエルの民全体に当てはめて、自分たちの歴史的な苦しみをとおして、イスラエルの救いが実現するという話しとして理解しようとしますが、それでは苦難のしもべが「彼」と呼ばれる「ひとりの人」として描かれていることの意味を理解できません。
10章18節でパウロは、「しかし私は言っています、彼らは聞いてなかったのだろうかと、もちろんそうではありません。『その響きは全地に響き渡った、彼らのことばは人の住む果てにまで』とあります」と記しています。
パウロはここでイスラエルが神の啓示を聞いていないはずはないという事実を、詩篇19篇4節を引用しながら説明します。
そこでは「天は神の栄光を語り 大空は御手のわざを告げる。昼は昼へと話を取り次ぎ 夜は夜へと知識を伝える。話もなくことばもなくその声も聞かれないのに その響きは全地を覆い そのことばは世界の果てにおよぶ」と記されています。
そこで言われているのは、多くの人が「私は聞いていない」という言い訳が成り立たないほどに、神の啓示は全地に満ち溢れ、人が住む限界点まで、神の「ことば」にならない「語りかけ」は届いているという宣言です。
それは、神が預言者を通してご自身のみこころを啓示したという以前に、神はこの世界で語り続けているという事実です。
それは1章19、20節で、「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。それは神が彼らに明らかにされたからです。それは、この方の目に見えない性質は、世界の創造のときから被造物を通して知られ、はっきり認められています、それは神の永遠の力と神性のことですが、彼らに弁解の余地はありません」と記されていたことを思い起こさせます。
そこには、神ご自身がイスラエルの民の知るべきことは完全に知らせているという神ご自身の意思が述べられ、彼らに「弁解の余地」はないということです。
ですから、問われているのは神の啓示を知りたいという人間の側の意思です。それは私たちの間でも、「聞く耳のない人には、語っても無駄だ」と言われるとおりです。
それは、神がイスラエルに求めておられることの第一は、「聞きなさい、イスラエル、主 (ヤハウェ) は私たちの神」(申命記6:4) と言われるように「聞く」こと自体にあるからです。ですから私たちが避けるべき最大の罪とは「聞こうとしない」ことにあるのです。
3.「わたしは 見いだされる……自分を現わした、わたしを尋ねなかった者たちに」
さらにパウロは10章19節で、「しかし私は言っています、イスラエルは知らなかったのではないかと。ただ最初にモーセは言っています、『わたしはあなたがたにねたみを引き起こすことになる、民ではない者たちのことで。 愚かな民のことで、あなたがたを怒らせることになる」と』と記しています。
パウロは、イスラエルが「知らなかった」という言い訳を退けるために申命記32章21節を引用します。その文脈では彼らが「異なる神々で主のねたみを引き起こし、忌み嫌うべきもので、主の怒りを燃えさせた」(同32:16) と、異教の神々を慕って偶像礼拝をしたことがまず非難されます。
それを前提に主(ヤハウェ)は、「彼らは、神でないものでわたしのねたみを引き起こし、彼らの空しいものでわたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民でない者たちで彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で彼らの怒りを燃えさせる」と言われます。
不思議にも、イスラエルの民が主のねたみを引き起こした報いとして、異邦人を通して神の民に「ねたみを引き起こす」と説明されます。
その上でさらに「愚かな国民(くにたみ)」に主ご自身があわれみを注ぐことでイスラエルの心に「怒りを燃やさせる」と記されます。
ただこれは純粋な異邦人というより9章23–25節で、神が「ご自身の豊かな栄光の知らせる……あわれみの器」として「ユダヤ人の中からだけではなく異邦人の中からも」召してくださったこと、「それはホセアにおいて、神が『わたしは呼ぶことになる、わたしの民でないものをわたしの民と、また、愛されなかった者を、愛される者と』言っておられる」ことの成就であるという意味です。
つまり、神はユダヤ人と異邦人からなる「新しい神の民」を創造することで、肉のユダヤ人たちに「ねたみ」を引き起こしたというのです。
さらにまたユダヤ人にとっては、十字架にかけられたイエスを救い主と告白する民は「愚かな国民」であり、彼らの律法をないがしろにする異端者として「彼らの怒りを引き起こす」存在に他なりません。しかしそれこそ神の「新しい創造」のみわざだったのです。
そのことをパウロはさらに10章20、21節で、「またイザヤは大胆であり、そして語っている『わたしは見いだされる、わたしを捜さなかった者たちに。自分を現わした、わたしを尋ねなかった者たちに』と。
そしてイスラエルのことについてこう言っています『一日中、わたしは手を差し伸べていた、不従順で反抗する民に対して』と」と記しています。
パウロはまず預言者イザヤのことばが「大胆である」と述べた上で、そのことばを引用しました。それはイザヤ65章1、2節からの引用です。
そこでは、「わたしに問わなかった者たちにわたしを尋ねさせ、捜さなかった者たちにわたしを見つけさせた。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。一日中、反逆の民にわたしの手を差し伸べた。自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに」と記されていました。
ここで興味深いことは、「新しい神の民」は、神ご自身が「尋ねさせ」「見つけさせた」という神ご自身の主導権で生まれたと記されていることです。
一方、イスラエルの民に関しては、神ご自身の側から「わたしはここだ、わたしはここだ」と、「一日中手を差し伸べていた」にも関わらず、彼らは神の呼びかけを聞こうとしなかったと非難されます。
パウロはイザヤがイスラエルの民を「反逆の民……自分の思いに従って良くない道を歩む者たち」と呼んだことばを、簡潔に「不従順で反抗する民」と呼びました。彼らの問題はまさに、神の招きを拒絶し続けたこと自体にあるというのです。
イザヤの文脈では、彼らが神の啓示に逆らって自分たち独自の新しい礼拝の形を作り、汚れた肉を食べ、自分たちを「聖なる者」(イザヤ65:5) と自称したことにあると描いています。
ただ一方で、ここでのパウロの強調点は何よりも、神ご自身の主導で「ユダヤ人と異邦人」からなる新しい神の民が創造されたことで、それは神が彼らに「ご自分を現した」ことに基づいているというのです。
この世界で多くの人々は、「より強く、より賢く」なることでこの地に自分たちの理想を実現できると信じながら結果的に争いを引き起こしています。
それに対し、主(ヤハウェ)はご自身の「しもべ」の王としての「御腕の現れ」を、「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」という奇想天外な姿で示してくださいました。
そのしるしが、「神の御子」の「飼い葉桶」での誕生です。その救いの神秘をドイツ最高の詩人と呼ばれる17世紀のパウル・ゲルハルドは「飼い葉桶の傍らに」(讃美歌107番別訳) で次のように歌っています。
飼い葉桶に眠る赤ちゃんは全世界の創造主であり、私たち一人一人をご自身のかけがえのない弟妹として選んでくださった方です。
1番では、その神秘を理解するために、飼い葉桶の傍らにたたずみながら黙想し、神ご自身によって創造された私の心のすべてをお献げしたいと思っています。
2番の歌詞では、自分の誕生の瞬間を思いながら、それ以前に神の御子ご自身が私たちを救うために人となってくださったという不思議を思います。自分が生まれ、成長してイエスを知ることができたというより、イエスが私たちと同じ罪人の姿となった結果として私の救いの道が開かれたのです。
しかも、イエスは私たちの罪を贖うために十字架の犯罪人の姿にまでなってくださいました。
人を押しのける代わりに、押しのけられる者の仲間となることで、この世界に平和を実現しようとしてくださったのです。
3番目の歌詞では、自分がこの世界の現実の中で、深い死の暗闇の中に置かれてしまうことを思いながら、そのような外的な環境に関わりなく、光の創造主ご自身が私のうちに住み、いのちの喜びを作り出してくださるという、主の不思議な救いのプロセスに希望を抱くことができています。
4番目の歌詞では、神の御子の栄光を思い巡らそうとしながら、私たちの心が小さすぎてそれができないことを思い、貧しいイエスのうちにある神の栄光を見させていただけるようにと願っています。
9番目の歌詞では、最後に自分の身体を御子イエスの飼い葉桶としてお献げしたいと願います。それは、創造主ご自身が私たち一人ひとりを用いて、ご自身の平和(シャローム)をこの地に実現できるためです。
この地にご自身の御子を遣わしてくださったように、私たちはこの矛盾に満ちた世界に遣わされます。