先日の聖日礼拝でエレミヤ書38–41章の箇所から、国の支配者は誰よりも自国民を恐れているという話しをしたら、まさにシリアでそれを象徴することが起きました。首都のダマスカスとは、聖書で「ダマスコ」と呼ばれる町と同じです。3000年前から戦争が日常の世界です。
今回、アサド政権の崩壊で、多くの牢獄に入れられていた人々が解放されました。反政府的な発言をしたというだけで捉えられ、拷問を受けていた人々です。
本当に感謝なことです。ドイツのニュースではそのことに注目が集まっていました。それとドイツに百万人近く住んでいるシリア難民のことも話題になっていました。
今日は詩篇4篇です。不当な苦しみを受ける人への慰めが記されています。今回は、もとの新改訳第三版の翻訳を載せます。
指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌
1 私が呼ぶとき、答えてください。 私の義なる神。
あなたは、私の苦しみのときに ゆとりを与えてくださいました。
私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
2 人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、
むなしいものを愛し、 まやかしものを慕い求めるのか。セラ
3 知れ。主は、 ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。
私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
4 恐れおののけ。そして罪を犯すな。
床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ
5 義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。
6 多くの者は言っています。
「だれかわれわれに 良い目を見せてくれないものか。」
主よ。どうか、あなたの御顔の光を、 私たちの上に照らしてください。
7 あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が 豊かにあるときにもまさっています。
8 平安のうちに私は身を横たえ、 すぐ、眠りにつきます。
主よ。あなただけが、 私を安らかに住まわせてくださいます。
詩篇4篇「苦しみのときのゆとり」
ここにも3篇同様、困難の中での「平安」な「眠り」が描かれます。最初に、「私が呼ぶとき、答えてください」と切羽詰った訴えとともに、「私の義なる神」と呼びかけます。
これは「私を義としてくださる神」とも解釈できます。
だからこそ、すぐに「あなたは、私の苦しみのときに、ゆとりを与えてくださいました」と告白されます。
3節で、ダビデは自分に敵対する人々のことを覚えながら、「知れ、主 (ヤハウェ) は、ご自分の聖徒を特別に扱われる」と告曰します。それは、「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」ことを通して明らかにされます。
神はダビデを特別に愛しておられました。そしてダビデの子イエスにつながる私たちをも、神は特別に扱ってくださいます。
4節の「恐れおののけ……」は、多くの英語訳では、「Be angry, and do not sin(怒りなさい。そして、罪を犯すな)」と訳されます(ギリシャ語七十人訳から)。
使徒パウロがエペソ人への手紙4章26節に記したことばは、これをそのまま引用したものだと思われます。
神は私たちの心が混乱し、怒りに身を震わすようなことがあっても、優しく受け止めてくださいます。私たちが、自分の気持ちを正直に神に訴えるとき、神は混乱した心に平安を与えてくださり、結果として、「罪を犯す」ことがないように守ってくださるのです。
5節で、「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」と訴えられますが、同じダビデが詩篇51篇において、自分の罪の告白の後に、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(17節) と告白しています。
神は何よりも、必死にすがる気持ち自体を喜んでくださいます。「義のいけにえ」とは、神の前に自分の正義を訴えることではなく、子供のように混乱したままの心を主にささげることです。
主がそれを受け入れ、「平安 (シャローム)」を与えてくださいます。自分で自分を落ち着かせようとする代わりに、主に正直に打ち明ければよいのです。
【祈り】 主よ。あなたの御前に自分の正義を訴える代わりに、「砕かれた霊」、「悔いた心」をささげさせてください。そして、平安な眠りを私にお与えください。