二週間ほど前ですが、喉と目の痛みで眠られないことが何日か続きました。自分の咳が止まらず、一瞬、呼吸困難に陥りました。
今は回復していますが(まだ声が出にくいですが)、改めて、ゆっくりと眠られることの幸いを覚えさせられました。
詩篇3篇はまさに、不眠と安眠の歌です
主よ なんと私の敵が多くなり
私に向かい立つ者が多くいることでしょう。
多くの者が私のたましいのことを言っています
「彼には神の救いがない」と。
しかし、主よ あなたこそ私の周りを囲む盾
私の栄光 私の頭を上げる方
私は声を上げて主 (ヤハウェ) を呼び求める。
すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる
私は身を横たえて眠り また目を覚ます
主 (ヤハウェ) が私を支えてくださるから。
この詩篇の標題には「ダビデがその子アブサロムから逃れたときに」というこの詩の背景が描かれています。
ダビデが家来ウリヤの妻を奪い取った後、家庭が乱れに乱れます。遂には息子のアブサロムがクーデターを起こします。
エルサレムは天然の要害ですから、ダビデはそこに留まって戦うこともできたはずですが、アブサロムが「剣でこの町を打つといけないから」(Ⅱサムエル15:14) と言って町の安全を第一にし、自分は逃げます。そこに王座にしがみつこうとしない潔さが見られます。
ただその結果、ダビデから離れてアブサロムに着く者が急増します。エルサレムには神の臨在のしるしの契約の箱があったのですが、それを置いて逃げたダビデに「神の救いはない」と見るのが、当時の常識でした。
しかもこのとき、彼が信頼していたアヒトフェルまでもがアブサロムの謀反に荷担しているという知らせを受けます。
そのような絶望的な中で、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光……私は声を上げて、主 (ヤハウェ) に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」と告白します (3、4節)。
これは自分がエルサレムを離れても、主ご自身が自分の所に近づいて来てくださるという意味です。ですからダビデは「幾万の民」に敵対されながら、慌てふためくことなく、ゆっくりと「眠る」ことができました。
ダビデは、富と力を持っているとき、神を忘れて罪を犯し、家族を混乱に陥れました。しかし、この危機的な状況の中で、敢えて、人間的な意味での守りを自分から捨て去りました。その結果、神を身近に感じることができたのです。
私自身も自分は営業マンとしてある程度の結果を出してきたと密かに自分を誇っていた時、伝道者としては失敗ばかりを繰り返しました。
しかし、そこで自分の無力さを徹底的に知らされたとき、神を身近に感じることができるようになりました。「救い」は、人間的な能力ではなく、主 (ヤハウェ) にあります」その基本を、私たちは孤独の中で味わうことができます。
【祈り】 主よ。私たちはいつも人間的な安心を求め、困難から身を避けようとしてしまいがちです。どうか、改めて、自分の救いが主ご自身にあることを覚えさせてください。
私たちの教会の大切な仲間である高奈(常田)美香さんが 東京に住んで、当教会に集っておられたころ生まれたすばらしい賛美があります。
YouTubeで探したら、美香さん自身の歌は見つかりませんでしたが、知らない別の方が歌っている動画を発見できました。
当教会の第二礼拝では何度も歌っている曲ですが、第一礼拝でご存じのない方が多くいらっしゃるので紹介させていただきます。
これはまさに上記の詩篇3篇3–5節を美しく歌った名曲です。