詩篇1篇から順番に

 小生は年末を控え、珍しく長く体調を崩しておりましたが、徐々に回復途上にあります。ただ一方で、依頼されている「みことばの光」の原稿、その他の原稿依頼を引き受けすぎて、若干、大変な思いを味わっております。
 今朝もようやく「聖書と経済」に関する論文を完全に終えられたばかりです。

 2020年の新型コロナ危機開始以降、様々な話題に関する配信をさせていただいておりましたが、時間と体調の関係から、今後の配信は、当初の意図であった詩篇のディボーションを中心にしたものに戻らせていただきます。
 これから週に何度か順番に配信させていただきます。すでに蓄積された原稿がありますので、それを見直しつつ、新たな手数をかけずに配信し続けたいと願っております。
 引き続きお読みいただければ幸いです。

それでは詩篇1篇の私訳と解説です。

幸いな人よ! (1)
 悪しき者の勧めを 歩まず
罪人の道に 立たず
 おごる者の座に 着かず
むしろ 主 (ヤハウェ) の 教え (トーラー) を 喜びとし (2)
 昼も夜も その教え (トーラー) を 思い巡らす
その人は 流れのほとりに植えられた木 (3)
 時が来ると実を結び
その葉は枯れない
 行なうすべてが 繁栄をもたらす

悪しき者は そうではない (4)
 彼らは 風が飛ばす もみがら
悪しき者は さばきの前に 立ちおおせない (5)
 罪人も 正しい者の 集いには 
主 (ヤハウェ) は 正しい者の道を 知っておられる (6)
 しかし、悪しき者の道は 滅び去る

詩篇1篇「何をしても栄える」

 以前、営業の仕事をしていたとき、「主の教えを喜びとする人は……何をしても栄える(私訳:行なうすべてが 繁栄をもたらす)」という約束が嬉しく思えました。
 しかし、様々な悩みを抱えた方に接しているうちに、それがあまりにも楽天的に見えてきました。ところがこれを詩篇全体の要約として見た時、その意味が納得できました。
 ここに聖書全体の要約があります。ノー天気な信仰も危険ですが、暗いことばかりを見る信仰はもっと始末が悪いかもしれません。
 
 この詩は、「幸いな人よ」から始まり、その生き方が2節まで描かれます。人間とは人の間で生きる存在ですから、誰と交わるかは、その人格の形成に決定的な影響を与えます。
 ですから、まず三つの否定形で、「幸いな人」は、神に敵対する者との交わりと一線を画していると描かれます。
 それとの対比で、「その人は、主 (ヤハウェ) の教えを喜びとし、昼も夜もその教え口ずさむ(思い巡らしている)」と、何よりも、聖書を神のみことばと信じるこの神の民の交わりの中に生きる人こそが幸いであると言われます。

 残念ながら「主の教え(律法。トーラー)」を神のさばきの基準としてしか見ることができず、「聖書を読むと、かえって息苦しくなる……」という人がいます。しかし、「主の教え(律法)」は何よりも喜びの対象であり、愛する人からの手紙のように、いつでもどこでも思い巡らすことで幸せになることができる教えなのです。
 そして、「その人」には、確かに、「(神の)時が来ると実を結び、その葉は枯れない」という「繁栄」が約束されています。
 なお「繁栄」の実現には「時が来るの」を「待つ」という忍耐が必要です。それは、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36) とある通りです。
 一時的にうまく運んでいないように思えても失望する必要はありません。多くの信仰者が、「忍耐」によって、確かに繁栄を体験して来ました。


【祈り】 主よ、あなたが私たちの人生に最終的な祝福を約束してくださっていることを感謝します。いつでもどこでも主の教えを喜ぶ者とならせてください。