聖書は残念ながら、すべての人が神の厳しい「さばき」に服する必要があると語っています。そして私たちはイエス・キリストの真実にすがる以外に「救い」の道はないと、この手紙で繰り返し記されています。
たとえば2章5節では、「あなたの頑なで、心を改めようとしないことのゆえに、怒りを自分のために蓄えています、それは御怒りの、神の正しいさばきが現れる日に向けてのことです」と記されています。
また3章19、20節は、「私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法のうちにある人たちに語られているということを。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神に対して責任を負う(神のさばきに服する)ためです。なぜなら、律法の行いによっては、すべての肉なる者は、神の前で義と認められないからです。律法を通しては罪の知識(意識)が生まれるからです」と記されていました。
私たちは一人ひとり、自分の心の中を見るときに神のさばきの座の前に堂々と立つことができないということを心の底で理解しています。そして、そんな私たちのために神様は御子イエスを救い主として遣わしてくださいました。
ですから私たちは、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間には与えられていない」(使徒4:12) という現実があることを決して忘れてはなりません。
1.「造られた者が造った者に言えるでしょうか、『どうして私をこのように造ったのか』などと」
パウロは9章初めから、「自分の同胞」である「イスラエル人」がイエス・キリストにある救いを信じようとしないことに関して論じます。そこでその理由を「選びによる神の計画が生かされるため」(9:11) と、不思議な説明をします。
そればかりか、18節では「神はご自身の望まれる(みこころの)ままにあわれみ、また、ご自身が望まれる(みこころの)ままに頑(かたく)なにされる」と述べています。
この背後には、イスラエルが救いに導かれないのは、神がイスラエルの心を「頑なにされた」という思いがあります。ただしそこで、神がファラオの心を頑なにしたことがイスラエルの救いとなったのと同じように、神がイスラエルの心を頑なにしたことが、異邦人の救いにとなっているという全体的な論理の展開になっていることを忘れてはなりません。
ただ、そう言われると、多くの人は、人間の心が神の思いのままに動かされるというのなら、どうして神は人間の責任を問うことができるのだろうかという理屈を考えます。
パウロはそのような疑問が避けられないことを前提に、まるで想定問答を書くように、9章19節で、「すると、あなたは私にこう言うでしょう。『なぜ、神はなおも人を責められるのですか。神のご意思(意図)にだれが逆らったというのですか』」と記します。
ここは厳密には、「逆らうことができるのか」という可能性というより、人は、神が何かを成し遂げようという「ご意思(意図)」に「逆らった」という理由で、神の「さばき」を受けざるを得なくなることの不合理性を問うたものと言えましょう。
それは、人が神のご意思に「逆らう」ことも、神が「望まれる(みこころ)のままに」人の心を「頑なにされた」結果として説明できるからです。そのような神のさばきの不合理性は、3章5-7節でも論じられていました。
そこでは、「もし私たちの不義が神の義(真実)を明らかにするのなら……どうして私は罪人として、なおもさばかれるのですか」と記されていました。そこでも、「神は不義なのでしょうか、その方が御怒りを下すのですが……決してそうではありません」という想定問答がありました。
不思議なのは、そこにおいても、ここにおいても、私たちが理屈で納得できるような「答え」が記されていないことです。
そして9章20、21節では、「おお人間よ、逆に、神に言い逆らうあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に言えるでしょうか、『どうして私をこのように造ったのか』などと。
それとも、陶器師は権威を持っていないというのですか、同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の(卑しい)ことに用いるものに」と記されています。
「神に言い逆らう(言い返す)」という表現は、ヨブ記40章2節で、主(ヤハウェ)がヨブに「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者はこれに答えよ」と言われたことを思い起こさせます。
引用されたのはイザヤ29章16節の七十人訳で、「造られた者が造った者に、あなたは私を造らなかったと言えようか」と訳すことができます。それをパウロは、「造られた者が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか」と言い換えています。
多くの人々は、自分の出生や体形、能力などに「負い目」を感じ、「もっと良い家庭に生まれていたら」「もっと背が高ければ」「もっと記憶力が良ければ」などと自分の現状に不満を持っています。それはパウロがこのイザヤ書のことばを、「どうして私をこのように造ったのか?」と引用したのと同じ気持ちです。
ただ、このイザヤ書の箇所が、「ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよいだろうか」ということばから始まっていることがすべての原点です。「私たちは粘土」で、神は「陶器師」です (64:8)。
しかも、神は私たちを「神の子」として「選んだ」時点で既に、私たちを「尊いことに用いる器」として計画してくださっているのです。一方で「別のものは普通の(卑しい)ことに用いるものに」と記されますが、原文で「卑しい」または「不名誉な」と記されている言葉は、今回の新改訳のように「普通の」と訳すことができます。それは英語で common use とも訳される言葉です。
それはこの世のごく普通の働きのために、陶器師である神が創造したと理解することができます。この世的には、家柄が良く、りっぱな体格で、有能な人が、影響力のある働き、また豊かな富を得る働きに就くことができる傾向があります。
しかし、あなたの「陶器師」である神は、あなたを「神の国」の特別な働きのために、敢えてイエスのように貧しい家庭に生まれさせ、人の生きにくさを理解できるよう敢えて見劣りにする体格と知恵を与え、人の痛みが理解できるように、敢えて「傷つきやすい性格に」創造してくださったと理解できます。
神が意図される「尊い働き」とは、この地にご自身の平和(シャローム)を広げることに他なりません。そのためには、あなたが強いリーダーシップで人を引っ張って行けるような、この世的な有能な者でないことが益とされるのです。
多くの人々が求める成功志向の中では、役に立たないと見える人が、神の平和を広げるという「神のご意思」の観点からは、かけがえのない「尊い器」として創造されていると見ることができるのです。
2.「栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器」
9章22–24節は、「それでいて、もし神が、御怒りを示し、ご自身の力を知らせようと望んでおられながら、滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって耐えておられるとしたら、
しかもそれが、ご自身の豊かな栄光を知らせるためであったのなら、どうでしょう、それは栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対してですが。
そのために神は私たちを召してくださったのです、ユダヤ人の中からだけではなく異邦人の中からも」と記されています。
最初の「神が、御怒りを示し、ご自身の力を知らせようと望んでおられる」とは、9章17節で、「聖書はファラオにこう言っています。『このことのために、わたしはあなたを立てておいた。それは、あなたのうちにわたしの力 (デュナミス) を現わすためである。そうして、わたしの名を全地に告げ知らせるためである』と」言われていたことを思い起こさせます。
それは当時、「現人神(あらひとがみ)」として恐れられていたファラオの支配に対して、神が「御怒りを示す」ことによって全世界に神の全能の「力を知らせた」ことを指しています。その神は、奴隷の民の中でしか崇められていませんでした。
また詩篇73篇では、「悪しき者」が「いつまでも安らかで 富を増している」ように見える中で、「彼らを滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされ……突然の恐怖で 滅ぼし尽くされる」ということをとおして、ご自身の力を現すということを指します。
しかも、この手紙を書いた時のパウロにとっては、彼の働きを徹底的に妨害し、彼を殺そうとするユダヤ人たちこそが「滅ぼされるべき怒りの器」と見られていました。
彼はこの七年ほど前に書いたテサロニケ人への手紙第一2章16節で、当時のユダヤ人たちに関して、「彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みにまで達しています」と、彼らこそが「滅ぼされるべき怒りの器」であると述べています。
しかし、同時にここで「豊かな寛容をもって耐えておられるとしたら」とすぐに付け加えます。これは2章4節で「それとも、神のいつくしみ (goodness) と忍耐と寛容の豊かさをあなたは軽んじているのですか?
神のいつくしみがあなたを回心(悔い改め)に導くことを知らないままに」と記されていたことを思い起こさせます。
しかも、神が「寛容をもって耐えておられる」理由が、「ご自身の豊かな栄光を知らせるため」であり、その対象が、「栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器」と描かれます。
ここでは「尊いことに用いる器」「怒りの器」「あわれみの器」という不思議なことばの用い方に注意を払うべきでしょう。
つまり、「あわれみの器」とは、神の「怒り」の代わりに「あわれみ」を受けたということではありますが、それ以上に、「尊いことに用いられるための器」として「選ばれている」ことを示します。
事実、昔のパウロはキリスト者を迫害する「怒りの器」でしたが、神の「あわれみ」を受け、「あわれみ」を伝える「尊い器」とされたからです。
そしてパウロは「栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器」であることがすべての人に明らかにされました。そしてその目的は、「ご自身の豊かな栄光を知らせるため」であったとも言われます。
私たちはイエスが十二弟子をいつも身近において、彼らを訓練したというイエスの弟子訓練に注目しますが、初代教会の最高の伝道者であり神学者、また異邦人とユダヤ人を和解に導いた最高の教会指導者のパウロは、そのような意味での「弟子訓練」を受けてはいません。
彼がそのような「あわれみの器」となることができたのは、彼が自分を誰よりも「滅ぼされるべき怒りの器」であることを自覚し、同時にその彼が「栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器」であることを知らされたからです。
実際、パウロは「主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き」、弟子たちを「縛り上げてエルサレムに引いて来る」という目的のために「ダマスコの近くまで来た」と描かれています (使徒9:1、2)。
そしてそのときに起きた回心が、「突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』」と描かれています (同9:3、4)。
それは、彼から迫害を受けていたと感じたイエスご自身が天から彼に現れて、彼を滅ぼす代わりに、「あわれみの器」としてくださったことを意味します。
そしてここでさらに「神のあわれみの器」は、「神の召し」によるということを強調しながら、「神は私たちを召してくださったのです、ユダヤ人の中からだけではなく異邦人の中からも」(24節) と記されます。
まさにパウロは、神の御怒りを受けるべきユダヤ人の中から、神の「あわれみ」によって、「あわれみ」を伝える「器」とされたのです。
そして同時にパウロは、自分の働きを通して多くの異邦人が「神のあわれみの器」として召し出されたことを喜んでいます。そしてパウロは、自分が「ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人」(ピリピ3:5) であったという過去があったからこそ、ユダヤ人と異邦人の和解の福音を、旧約の預言の成就としてのキリストを、宣べ伝えることができたのです。
私たちが神の「あわれみの器」として、神の召しを受けるとき、私たちの過去の経験も同じにように、神によって豊かに用いられることができるのです。イエスの弟子とされる訓練は、あなたがまだ未信者であったときからなされていたとも言えるのです。
3.「残りの者たち(だけ)が救われることになる」
9章25、26節は、「それはホセアにおいて、神が言っておられるとおりです。『わたしは呼ぶことになる、わたしの民でないものをわたしの民と、また、愛されなかった者を、愛される者と。
そして、あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言われたその場所において、そこで彼らは生ける神の子たちと呼ばれることになる』」と記されています。
ホセア書で、不思議にも神は預言者ホセアに姦淫の女ゴメルを娶るように命じます。皮肉にも、二番目に生まれた子を「ロ・ルハマ(あわれまれない)」と名づけ、三番目の子を「ロ・アンミ(わたしの民ではない)」と名付けるように命じられます (ホセア1:6、9)。それらはイスラエルの民に対する神のさばきを意味する名でした。
ですからここでの「わたしは呼ぶことになる、わたしの民でないものをわたしの民と、また、愛されなかった者を、愛される者と」との引用は、その名の逆転が起きるという意味を現します。
なおこのことばはホセア2章23節からの引用で、そこでは「わたしはあわれむ(愛する)、あわれまれない(愛されない)者を。わたしの民でない者に『あなたはわたしの民』と言う」と記されていました。
ですから、ホセア書の文脈では、浮気によって神の民であることを止めた民を、神がご自身の民として回復すること、また、神のあわれみや愛を拒絶して、愛されるに値しなくなった民を、再び神ご自身の意思によって「愛する」ようになるという預言です。
ただ、これはローマ人への手紙9章24節の「ユダヤ人の中からだけでなく異邦人の中からも」という文脈の中では、「神の民」でなかった異邦人を「神の民」と呼ぶという意味でも理解されます。
さらに、9章26節はホセア1章10節からの引用で、そこでは「イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる」という約束を囲むように、「その子をロ・アンミ(わたしの民ではない)」と言われたその場所で、『彼らは生ける神の子ら』と呼ばれることになる」と記されていました。
ですからここも肉のイスラエルに対する約束が記されていると思われる箇所です。ただ一方で、4章16節でパウロが、「恵みにしたがって約束が確かなものとされる(保証される)のです、それは、すべての子孫に対して、律法による者ばかりか、アブラハムの信仰による(に倣う)者に対しても。彼は私たちすべての者の父なのです」と記したように、律法を持たない異邦人もアブラハムの信仰に倣うことで「アブラハムの子」とされたという意味で理解できます。
さらに「生ける神の子たち」とは、イエスが「あなたは生ける神の子」(マタイ16:16) と呼ばれたことを思い起こさせます。8章15節で、「あなたがたは……息子とされる(イエスと同じ立場を与える)霊を受けたのです。それによって私たちは『アバ、父』と呼びます」と記されていたとおりです。
9章27–29節は、「しかしイザヤはこう叫んでいます、イスラエルについて、『たとえ、イスラエルの息子たちの数が海の砂のように多かったとしても、残りの者たち(だけ)が救われることになる。
それは、語られたことを完全に、そして速やかに、主がこの地で行おうとしておられるからだ』
それはまたイザヤがあらかじめ告げたとおりです。もしも、万軍の主が私たちに子孫(種)を残さなかったとしたら、私たちはソドムのようになったことでしょう。また、ゴモラと同じようにされたことでしょう」と記されます。
27節はイザヤ10章21、22節からの引用で、そこでは「残りの者は立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る」と記されましたが、ここでは「立ち返る」が「救われる」と言い換えられます。
さらに28節はそれに続くイザヤ22、23節の趣旨を簡潔にして引用したもので、そこでは「壊滅は定められ、義があふれようとしている。すでに定められた全滅を、万軍の神、主は、全地のただ中で起こそうとしておられる」と、神の厳しいさばきのことばの成就です。
そして29節は、イザヤ1章9節からの引用ですが、そこでの「生き残りの者をわずかでも残す」ということばが、ここでは「子孫(種)を残す」という表現に変えられます。それは9章8節での「約束の子どもである者が子孫(seed: 種)と見なされる(認められる)」という表現を思い起こさせるものです。
つまりここでは、イスラエルが本来、その罪のゆえにソドムやゴモラのように完全にこの地から消し去られていても仕方がなかったはずなのに、万軍の主の「あわれみ」によって、少数の「子孫(種)が残され」、そこから「新しいイエスラエルが生まれる」という希望を指し示しています。
これはイザヤ書6章13節で「そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔(すえ:Seed 種)」と記されていたことと同じです。
これらの木は、切り株から新しい芽を育てる力があります。そのようにイスラエルの民は滅ぼされるように見えても、そこから新しい民が生まれるということを指しますが、それを万軍の主が可能にしてくださるということです。
ただし9章の文脈では、アブラハムやイスラエルの肉の子孫(種)が自動的に「救われる」のではなく、神が選んでくださった者のみが「あわれみの器」として残され、神の働きのために用いられると記されています。
まさに9章16節で「これは人の願い(望み)や努力によるものではありません。そうではなく、あわれんでくださる神によるのです」と記されていたとおりです。滅びに向かうはずのイスラエルからの残りの者があわれみを受け、また、滅びに向かうはずの異邦人の中から私たちが神の民として選ばれたのです。
「私たちは滅ぼされるべき怒りの器」(9:22) に過ぎませんでしたが、「神のあわれみの器」として選びだされました。そして今、私たちは「尊いことに用いる器」とされています。
イザヤは神に向かって、「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです」と告白し、それを前提にして、「主 (ヤハウェ) よ。どうか激しく怒らないでください。いつまでも咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください」と祈っています (イザヤ64:8、9)。
主のあわれみにすがる者を、主はこのままの姿でご自身の働きのために用いることができます。しかも、私たちはそのような中で、イエスに似た者へと造り変えられて行きます。自分を差し出して初めて、私たちは造り変えられるプロセスへと入れられるのです。
しかもそれは、私たちの意思から始まったことではなく神の「選び」のご計画による「召し」から始まりました。すべてがはかり知ることができない神のご意思から始まっているのです。
それは私たちにはときに不条理に思えます。しかし、すべてが神から始まっていると知ることで、私たちは初めて、自分自身から自由になることができます。自分を忘れ、心の眼が自分を選んでくださった神に向かうということこそが健全な信仰です。
自分の理性で神を認識し、神を知ろうとしているうちは、私たちは最高の「陶器師」としての主に出会うことができないということを覚えるべきでしょう。
健全な信仰とは、その陶器師である神の視点から自分を見られるようになることです。そのように陶器師である主の視点から自分も見るときに、どうしようもない欠点と思えたことが、人の痛みを理解する窓になっていることに気づくことができます。
陶器師である主が見てくださるように、自分を見て行きましょう。