私は昔、証券会社にいたとき、経済見通しが週ごとのように変わることに対し、何とも言えない空しさを感じていました。そのような中で、決して変わることのない聖書のことばに、心がますます惹かれるようになりました。
宗教改革者マルティン・ルターは、「神の愛はその愛する相手を見いだすのではなく、創造するのである。人間の愛はその愛する相手によって成りたつ」と言いました。それこそ聖書の一貫したテーマではないでしょうか。私たちは自分の心の内側を見るときに、自分が愛されるに値しない存在であるかのように見えてきます。しかし、福音とは、そのような者を名実ともに愛するに値する者へと造りかえることにあると見えてくるとき、心が楽になります。
しかも、その際、自分がどれだけ変えられたかなどと見直してばかりいてはなりません。「信仰」という言葉は「真実」とも訳すことができます。私は、「信仰によって救われる」ということばを聞きながら、「こんな不信仰では救われないのでは……」と不安になることがありました。
しかし、信仰とは、キリストの真実から生まれるということが分かったとき、心が楽になりました。不真実で不信仰な者を真実な信仰者へと造り替えてくださる神の真実に目を向けたいと思います。
1.「あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます」
「ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドネツァルの第十八年」(32:1) とは、エレサレムがバビロンによって陥落する前の年で、紀元前588年から587年頃を指します。
「そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中であって、預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁されていた」(32:2) と記されます。監禁の理由は、エレミヤが「ユダの王ゼデキヤは……必ずバビロンの王の手に渡され……彼はゼデキヤをバビロンへ連れて行く……あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない」(32:4、5) と語り続けていたからです。
エルサレムはこのときまで二度にわたってバビロンに屈服し(紀元前605年、597年)、王も貴族も神殿の宝物もバビロンに移されていましたが、それにも関わらず、なおそこに残されている指導者は、それが神のさばきによるものと認めず、エジプトに支援を求めていました。また、偽預言者たちは神が最後に奇跡的な救いを与えてくださるという根拠のない夢を語り続けていました。
一方エレミヤは、イスラエルの民はバビロンに七十年間捕囚とされた後になって解放されるという気の長い預言をしていました (25:11、12、29:10)。主(ヤハウェ)はそれが夢物語ではないことを示そうと、監禁されていたエレミヤに「おじシャムルの子ハナムエル」を遣わし、「ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください」という土地取引を提案させました (32:7、8)。
エレミヤは「それが主 (ヤハウェ) のことばであると知った」(32:8) ので、「アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払」いました (32:9)。さらに当時の公式な手続きに従って証人たちの署名をもらい、「監視の庭に座しているすべてのユダの人々の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し」(32:12) ながら、その証書を「土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ」(32:14) と命じます。
その際、「イスラエルの神、万軍の主 (ヤハウェ) 」ご自身が、「再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになる」(32:15) と保障しておられることを明らかにします。
32章17–25節では、それを受けてのエレミヤの祈りが記されます。まず、主(ヤハウェ)が創造主であり、「不可能なことは一つもありません」(17節)、「恵みを千代にまで施し」同時に「父たちの咎をその後の子らの懐に報いる方」(18節)、「行いの結ぶ実にしたがって報いをされます」(19節) と告白されます。
その上で、続けて、出エジプト以来の歴史を簡潔に振り返りながら、「あなたが……この地、乳と蜜の流れる地を彼らに与えられました」(22節)、「彼らは……それを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず……命じたことを何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このすべてのわざわいにあわせられました」(23節) と述べています。
そしてその当然の報いとしての神のわざを「この都は……カルデア人の手に渡されようとしています。あなたのお告げになったことは成就しました」(24節) と描きます。
その上で、この「アナトテにある畑」を買い取るように命じられたことに関しての自分が抱いている疑問を、「主、ヤハウェよ。この都がカルデア人の手に渡されようとしているのに、あなたは私に、金を払ってあの畑を買い、証人を立てよ、と言われます」(25節) と率直に訴えます。
エレミヤにはエルサレム滅亡と、その後の回復のことは主から告げられて理解はしていましたが、70年後の土地を確保することにまで心が向かわなかったからです。
聖書は神に背く罪人に対するさばきの宣言が明確に記されています。しかし、その後の希望に関してはあまりにも漠然とした天国のイメージばかりを語ってしまうことがないでしょうか。
仏教にしてもイスラム教にしても、描かれる死後の世界があまりにもこの世離れした観念になりがちですが、聖書は、神の厳しいさばきが下された後の現実の世界にまで目を向けさせ、それを具体的に行動に現すように勧めます。
簡単にいうと、神にある具体的な希望は、現実的なお金の使い方に現わされるということです。
2.「この地で畑が買われるようになる……人々は金で畑を買い、証書に署名して封印し……」
エレミヤに対する主(ヤハウェ)の最初のことばは、「わたしはヤハウェ、すべての肉なるものの神、すべてのことに関してわたしにとって不可能なことなどあるだろうか」(32:27) と記され、「すべて」ということばを繰り返し、全世界に対するご自身の支配権を描きます。
その上で、主ご自身が「この都を、カルデア人の手と、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡す」(32:28) と言われ、ご自身が異教徒の支配者を動かす全地の真の王であることを改めて明らかにします。
さらに主はエルサレムを滅ぼす理由を、四回に渡ってイスラエルの民が「わたしの怒りを引き起こした」(32:29–32) からと表現します。その上で彼らの罪として、「わたしの名がつけられている宮に忌まわしいものを置いて、これを汚し、ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、自分の息子、娘たちに火の中を通らせてモレクに渡した」(32:34、35) と描きます。
そして32章36–38節では、その結論が不思議にも、「今、それゆえイスラエルの神ヤハウェはこう言われる、この都に関して、それをあなたがたは言っている、『それは、バビロンの王の手に渡される、剣と飢饉と疫病により』と。見よ。わたしはすべての国々から集めよう、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたところから。わたしは彼らをこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」と記されます。
これは「主 (ヤハウェ) の燃える怒り」が「心の思うところを成し遂げるまでは」(30:24)、主の再建の計画が新たに始められなかったからです。
それと同時に、主ご自身が彼らに対して再び怒りを燃やさなくて済むよう、その心を内側から作り変えるとの約束を、「彼らに一つの心と一つの道をわたしは与える。それは、いつの日も、わたしを恐れるように、彼らと彼らの後の子らの幸せのためである。わたしは彼らと永遠の契約を結ぶ、それはわたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするためである。わたしに対する恐れを彼らの心に与える、それは彼らがわたしから去らないためである」(32:39、40) と言われます。
これは「彼らがみな……わたしを知るようになる」(31:34) と言われたことばの言い替えです。興味深いのは、「神を恐れる心」自体を、神ご自身が人々の心の中に起こしてくださると約束されていることと、その目的が、「彼らを幸せにするため」と繰り返されていることです。
しばしば、教会の歴史の中では、地獄の炎の恐ろしさを強調することによって人為的に神への恐れを沸き立たせようとしたことがありました、また「主 (ヤハウェ) を恐れる」という教えが人を「幸せ」にする代わりに、萎縮させる方向に働く場合がありました。
しかし、たとえばジョン・ニュートンは、Amazing Grace の二番目の歌詞で、「’Twas grace that taught my heart to fear, and grace my fear relieved」(恵みこそ、私の心に恐れることを教え、また恵みによって私の恐れは和らいだ)と歌っていますが、私たちは福音のすばらしさを知れば知るほど神への健全な「恐れ」が生まれるとともに、この世への「恐れ」から解放され、心の自由を得ることができます。
この世の権力を「恐れる」のは、真に恐れるべき方を「忘れる」ことの結果なのです。ですからイエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」(10:28) と言われました。
そしてイエスは、その神のさばきを私たちの身代わりに、十字架において引き受けてくださいました。ただ同時に、もし十字架のみわざを罪の消しゴムのように軽く見るなら、それは恵みを軽蔑するという罪を犯すことになります。
そしてさらに主は、「わたしは彼らを喜びとして幸せにする。わたしは彼らをこの地に植える、真実をもって、心を尽くし、たましいを尽くして」(32:41) と、彼らを約束の地に戻すということをご自身の真実で保証しました。
その理由を、「それは、主 (ヤハウェ) がこう言われるからだ。わたしがこの大きなわざわいのすべてを、この民にもたらしたように、そのように、わたしは、彼らにすべての幸せをもたらす、それは、わたしが、彼らに語っているものだ。
この地で畑が買われるようになる、あなたがたが『この地は荒れ果てて、人も家畜もいなくなり、カルデア人の手に渡される』と言った地で。人々は金で畑を買い、証書に署名して封印し、証人を立てるようになる、ベニヤミンの地でも、エルサレムの近郊でも……ネゲブの町々でも、それは、わたしが彼らを元どおりにするからである、主 (ヤハウェ) のことば」(32:42–44) と言われます。
土地の売買が活発になることが神の祝福の現われとして表現されるのは何とも奇妙に思われます。しかし、当時、「畑を買う」というのは自分たちが労苦を注ぐ場を増やすということを意味しました。それは、「自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている」(Ⅰコリント15:58) という信仰告白を意味しました。
主ご自身が私たちの労苦が無駄にならないように守り通してくださいます。その希望を持つ時、いつでもどこでも目の前の働きを誠実に行おうという勇気が生まれます。
マルティン・ルターが、かつて「たとえ明日、世界が滅亡すると分かっていても、それでも今日、私はリンゴの木を植えよう (Wenn ich wüßte, daß die Welt morgen untergeht, würde ich dennoch heute einen Apfelbaum pflanzen)」と言ったという出典は疑わしいものとみられていますが、誰が言ったにせよ、このことばには大きな意味があります。
NHKのEテレ「心の旅」でも毎回、初めに言われます。それは、最後の瞬間まで諦めることなく、目の前の課題に取り組む勇気を与える言葉です。そして私たちは、新しい天と新しい地を創造する神のご支配を知っているからこそ、今を精一杯生きる勇気を持つことができます。
3.「昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約」
33章1節は 「エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき」と描かれ、32章と同じ時期を指すと思われます。主は彼に「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう」(33:3) と言われます。
その上で、「ユダの王たちの家々」が、「カルデア人と戦おうとして出て行くが、わたしの怒りと憤りによって打ち殺された屍をその家々に満たす。それは、彼らのすべての悪のゆえに、わたしがこの都から顔を隠したからだ」(33:5) と言われます。
つまり、当時のエルサレムの指導者たちはカルデア人と戦おうとしているように見えて、実は主(ヤハウェ)ご自身と戦っているというのです。
しかし、それが彼らの悪に対する主のさばきであると理解できるなら、それが完了したときに、主がのろいに代えて祝福をもたらしてくださると信じ、希望を持つことができます。
そのことを主は、廃墟とされるエルサレムが、「地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる」(33:9) と約束されます。それは黙示録21、22章に記される「新しいエルサレム」として完成します。
なおここではまた、そのときに実現する繁栄が、「人も家畜もいないと廃墟というこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、楽しみと喜びの声、主 (ヤハウェ) の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる」(33:10、11) と描かれます。
同じように、来たるべき「新しいエルサレム」では、復活のキリストご自身が神殿となってくださり、「人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる」(黙示21:26) と描かれています。
そして33章14–16節で、「その日」(複数)ということばが原文では三回繰り返されながら、「見よ、その日が来る……その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『主 (ヤハウェ) は私たちの義』と名づけられる」と記されます。
これは救い主が「ダビデの子」として誕生すること、「主 (ヤハウェ) は私たちの義」とは、神がダビデに対する約束を守り通してくださるということを指していると思われます。
これはかつて、ダビデが主に対して、神の住まいである神殿を立てたいと申し出たときに、反対に、主ご自身がダビデの家を確立するという意味を込めて、「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16) と約束されたからです。
そしてそのことが、「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。またレビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ……いけにえを献げる者がいつまでも絶えることはない」(33:17、18) と記されます。
マタイ福音書の最初に、アブラハムに始まり、ダビデを経てバビロン捕囚にいたる王家の系図ばかりか、歴史に残っていないバビロン捕囚以降の王家の系図が記されているのは、このダビデ契約が成就したという意味を示すためです。
そして今、私たちはキリストの「祭司」とされ、日々、「賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実」(ヘブル13:15) を絶えず献げる者とされています。
主(ヤハウェ)はこの契約の確かさを保障するために不思議にも、「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たち結んだわたしの契約も破られる」(33:20、21) と言われます。
昼と夜との契約とは、大洪水の後に、主がノアに向かって、「この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない」(創世記8:22) と約束されたことを意味します。
人は毎朝目覚めるとき、既に日が昇っていることを当たり前だと思っています。「それは地球の自転による」などとわかったように言ったところで、なぜ、この神秘の惑星が丁度よい速度で回転し続けることができるのか、また、季節が丁度よく巡って来るように、なぜ地軸が適度に傾いているのかに関して、誰も明確に答えることはできないのではないでしょうか。
宇宙の不思議を見れば見るほど、「それは偶然の産物だ!」と言うよりも、「すべては創造主のみわざです!」と告白することの方が、合理的に思えるのではないでしょうか。
そして、神がこの世界を美しく保っておられることの中に神の真実を見出し、その神の真実こそが、ダビデに対する契約を守らせ、神の国を完成に導く最大の原因であるということが明らかにされてきます。
そればかりかここでは、「天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす」(33:22) と言われますが、キリストの弟子となった私たちこそ、神に仕える新しいレビ人です。
ところで、主(ヤハウェ)はここで、「あなたはこの民が、『主 (ヤハウェ) は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている、『自分たちの目には、もはや一つの国民でないのだ』と」(33:24) と言っておられます。
「二つの部族」とは、北王国イスラエルと南王国ユダを指し、主がこの百年余り前に北王国を滅ぼし、また今、ユダ王国を滅ぼそうとしておられることを人々が非難していることへの答えです。
主は、北と南を「一つのダビデ王国の民」として見ておられます。そして再び、主(ヤハウェ)が、現実に「昼と夜とに契約を結び」「天と地との諸法則を……定め」ておられるという表現を使いながら (33:25)、「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶ」ということを保証されます。
イエスは新しいダビデとして私たちを治めていてくださいます。そして主が、「わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ」(33:26) という「彼ら」の中に、私たち異邦人も信仰によってアブラハムの子孫にされて含まれ、この約束はキリスト教会において成就されていると言えます。
Ⅱ賛美歌191番の二番目の日本語の歌詞は名訳で、「春も秋も夏冬も、月も星もすべては、主のまこととあわれみとつきぬ愛を現す」と歌われます。
そして繰り返しの部分は、原歌詞では、「あなたの真実は偉大です。朝ごとに私は新しい慈しみを見ます。私に必要なものをすべて、あなたは備えていてくださいます。主よ、あなたの私に対する真実は偉大です」と歌われています。私たちは、天に示された神の真実を覚えながら、その神がこの私に対しても真実を尽くしてくださることを確信させていただくのです。
私たちも目の前の状況が変わるたびに自分の意見を変えてしまいたい誘惑に駆られることがあります。また、無意識に、自分の意見を変えてしまっていることがあります。しかし、神は私たちの心の真実を何よりも求めておられるということを忘れてはなりません。
それはパウロが弟子のテモテに向けて、「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:11–13) と書いているとおりです。
私たちが保ち続けるべき真実とは、自分の不真実を正直に認めて、いつでもどこでも、主の御名を呼び求め、主にすがり続けるという一貫性です。
ルターの最後の言葉は、「われわれは乞食である。それはまことである」というものでした。私たちの言動は常に、ある出来事への反応として生まれます。そのため、状況が変わればまったく異なったことを言うようになるかもしれません。
しかし、何が起ころうとも、常に一貫しているべきことがあります。それは私たちの心の方向です。北斗七星は、時間や季節によって、逆さまに見えたり、立っているように見えたり、見え方が変わってきます。しかし常に、一つの場所に留まる北極星を指し示します。
私たちも、逆立ちをしていようと、寝ていようと、立っていようとも、常にその心が「主 (ヤハウェ) の真実」に向かっているという点一貫している必要があります。
乞食に過ぎない私たちが評価されるのではなく、何の取り柄もない者に恵みを注ぎ続けてくださる主人があがめられる必要があります。