小さい頃から「自意識過剰」に悩んできました。高校生から大学にかけての頃、少しばかり哲学に興味を持つようになりました。世界の動きや人の心の動きを把握できそうな気になって、嬉しくなりましたが、やがてそこに「自分は人より賢くなった!」と思いたいという自意識過剰の問題が再び生まれました。そのような中で、イエスを救い主と信じる信仰に導かれましたが、そこでまた自分と人の信仰を比べるという自意識過剰が気になりました。
ただ、聖書を読み進めて、自分の信仰は「神の選び」による、神の作品だと分かって安心できました。しかもその際、大雪山の麓の貧しい農家に生まれることも神のご計画の中にあったと分かり、他の人と違っている自分自身を喜ぶことができるようになりました。
さらに神から与えられた使命の原点を、自分が恥じている性格の中にも見られたとき、ようやく気持ちが楽になりました。
「神の選び」とは信仰の神秘です。ただそこから、世界も自分も今までと違った目で見られる新しい視点が生まれます。しかもそれは、神があのイスラエル民族の出発点であったアブラハムの孫のヤコブをご自身の計画のために選ばれたという、イスラエルの救いの物語とセットになっています。
自分に対する神のご計画を知ることと、神がどのように世界を救おうとされるかという計画がセットになっているのです。
1.「私には大きな悲しみがあり、この心には絶えることのない痛みがある」
9章1–3節には、「真理(真実)を私はキリストにあって語ります。偽りません。私の良心 (conscience) も、聖霊のうちにあってともに証ししています。 それは、私には大きな悲しみがあり、この心には絶えることのない痛みがあるということです。もしできるなら、この私がキリストから引き離されて、のろわれた(アナテマ)者となることさえ願っています、私の兄弟たち、肉による同胞のためになら」と記されています。
パウロは少し前に、自分の話を聞こうとしないガラテヤ地方のユダヤ人たちに向かって、「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます」(使徒13:46) と言って、ギリシア人伝道へと向かっていました。
それ以降、彼は自分を「異邦人への使徒」(ガラテヤ2:8) と位置づけており、多くの人々はパウロの望みは多くのギリシア人を救いに導くことで、ユダヤ人への宣教は後回しに考えていると思いました。そのような誤解があるからこそ、彼はここで敢えて、自分は偽りではなく真理を語っている、私の「良心も、聖霊のうちにあってともに証しして」いると強い表現で、自分はユダヤ人の救いを何よりも願っていると語りました。
さらにそれが実現しないことを、自分にとっての「大きな悲しみ」「絶えることのない痛み」と表現しながら、ユダヤ人の救いのためには、「キリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願っています」と、あり得ないような表現を使いました。
パウロは「のろい」ということばを、人を厳しく責める際に用いています。たとえば彼は、「もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです」(ガラテヤ1:8、9) と繰り返します。
ですから「のろわれよ」とは厳しいさばきの宣言ですが、そのことばを用いながら、「肉による同胞」であるユダヤ人の救いのためになら「のろわれた(アナテマ)者となる」ことさえ願っているという、ありえないほど激しい表現で、自分の肉の同胞の救いを望んでいるのです。
この熱い思いは、かつてモーセが神の契約を受けるためにシナイ山に上ってイスラエルの民の前から見えなくなったとき、彼らが不安になり、目に見える金の子牛を造って自分たちの導き手としようとしたことを思い起こさせます。それを見た神はイスラエルを「絶ち滅ぼす」と言われ、その代わりにモーセから新しい民を生み出すと言われました (出エジ32:10)。
それに対しモーセは必死にすがり、主は「わざわいを思い直された」と描かれます (同32:14)。モーセはその後、金の子牛を作るように人々を扇動した首謀者を探し出し、主のさばきを実行しました (同32:27、28)。
しかし、なお神の赦しを確信できなかったので、主に向かって「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら——。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物からわたしの名を消し去ってください」(同32:32) と願いました。
つまり、主がモーセから新しい国民を生み出すと言われたことに対して、「私がのろわれた者」となることを願いながら、民の赦しを願ったのです。まさにパウロは、モーセの祈りに倣って、同胞の救いを願ったと言えましょう。
9章4、5節は、「この人たちはイスラエル人です。息子とされること (sonship) も、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らからのものです。この方は万物の上にあるものであり、永遠にほめたたえられる神。アーメン」と訳すことができます。
ただ、ここには「本来は、そのようになるはずだったのに」という皮肉が込められています。なぜなら8章15節では、異邦人を含むクリスチャンに向けて、「あなたがたは……息子とされる(の立場を与える)霊を受けたのです (you received the spirit of sonship)」と記されていたからです。
神は、イスラエルの民に律法を与えたときの目的を、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる……あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民(くにたみ)となる」(出エジプト19:5、6) と言っておられました。
しかし彼らはその目的を達成できなかったため、イエスが救い主として現れたのです。つまり、キリストを受け入れないユダヤ人は、「息子とされることも、栄光も、契約も、律法も、礼拝も、約束」も受けるに値しない民となっているとも言えます。
ただし同時に、彼らは本来それらを受けることができる民として選ばれているので、他の異邦人とは根本的に違った立場にあるということも忘れてはなりません。
「肉によれば」キリストはイスラエルの民の中から生まれ、彼らの王として十字架に架けられました。しかし、この方は死の中から復活し、ご自身が「万物の上にある」「王たちの王、主たちの主 (King of kings and Lord of lords)」 (黙示 19:16 ) であることが明らかにされています。
ユダヤ人に求められることは、イエスをそのような方として受け入れることだけです。彼らは世界中のどの民族よりも、神の救いに近いということで、別格の民族と捉えられるのです。
2.「イスラエルから出た者すべてが、イスラエルであるというわけではない」
9章6–9節は、「しかし、神のことばが無効になったというわけではありません。それは、イスラエルから出る者すべてが、イスラエルであるというわけではないからです。それはアブラハムの子孫(seed: 種)であるからといってすべてが子ども (テクナ) なのではなく、むしろ『イサクにあって、あなたの子孫(seed: 種)がその名を呼ばれる』からです。それは、肉の子どもである者がそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもである者が子孫(seed: 種)と見なされる(認められる)からです。それは約束のことばとは、『来年の今ごろわたしは来ます。そのときサラには息子がいます』だからです」と訳すことができます。
これは一連の文章の最後から見てゆかなければその意味が理解できません。肉による子孫(seed: 種)という観点からは、イスラム教が主張するように、サラの女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルがアブラハムの後継ぎとなるというのが当時の常識だったかもしれません。
しかし、創世記17章では、「アブラムが99歳のとき、主 (ヤハウェ) は彼に現れ」(1節)、彼の名を「アブラハム(多くの国民の父)」と変え (5節)、彼の妻サラから生まれる子の名を「イサク」と名づけ、アブラハムとの契約をイサクに受け継がせると約束されたと記されます (19節)。
その上で、18章では、主(ヤハウェ)ご自身がアブラハムに現れ、「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻ってきます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています」(10、14節) と約束されたことが記されます。
ローマ書ではこの18章10節のことばだけが引用されていますが、その背後には17章から18章にかけての全体の記事が読者には当然知られているという前提があります。
とにかく、アブラハムの肉の子孫がすべてアブラハム契約を受け継ぐ「子ども」となったのではなく、イサクだけが約束の子とされ、またイサクの二人の子の中からヤコブ(イスラエル)がアブラハムの契約の子として選ばれました。ですから肉のイスラエルの子孫がすべて、アブラハムの契約の子となるというわけではないことが明らかになります。
どちらにしてもここでは、「イスラエルから出る者すべてが、イスラエルというわけではないから」、「神のことばは無効になったというわけではない」という不思議な論理が展開されています。
それは、肉のイスラエルに対する約束が、そのとおりに実現しないからといって、「神のことばが無効になった」というわけではなく、神は肉のイスラエルの一部を選んで、そこからアブラハムに対する契約を実現することで、神のことばが、当時の人々の期待を超える形で成就するということを示しているのです。
その上で9章10–13節では、「それだけではありません。一人の人によって身ごもったリベカの場合もそうです、その人とは私たちの父、イサクです。その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行うその前に、選びによる神の計画が生かされるために、行い(働き)によってではなく、召してくださる方によるようにと、『兄(大きい者)が弟(劣った者)に仕える』と彼女に告げられました。それは、『ヤコブをわたしは愛した。しかし、エサウを憎んだ』と書かれているとおりです」と記されています。
最後のことばは、マラキ書1章2、3節での「わたしはヤコブを愛した、しかし、エサウをわたしは憎んだ」という驚くべき表現からの引用です。ただそこでは、主がエサウの受け継いだ「山を荒れ果てた地とし、彼の相続地を荒野のジャッカルのものとした」こととの比較で、イスラエル(ヤコブ)の地をどれほど豊かにしたかという神の一方的な恵みが描かれています。
「エサウを憎んだ」とは、主がどれだけヤコブに一方的な恵みを与えたかと思い知らせるための誇張表現です。そこで言われていることは、イスラエルが得た富は、神の一方的な選びに基づくもので、彼らが誇ることができるような功績に基づかないという意味です。
その前の「兄は弟に仕える」も厳密には「大きな者が劣った者に仕える」と記されています。これも、人間の優劣を超えた関係を、エサウとヤコブが生まれる前から神が定め、それをリベカが身ごもった段階で伝えられたという意味です。
そのリベカが「一人の人によって身ごもった」と敢えて記されるのは、リベカには子が与えられないと思われたような中での、主の一方的なあわれみによる妊娠であることを明らかにする表現とも言えます。
ですから、ここで言われていることは、神の「選び」は、人間の理解を超えた神秘で、アブラハムの契約の子がどのように起こされるかに関しても、人間の理解を超えているということを明らかにするためです。
「行い(働き)ではなく、召してくださる方による」という表現は、8章28節に記されたことを思い起こさせます。そこでパウロは、「私たちは知っています。神を愛する人たちのためには、(御霊が)すべてのことを働かせて益(善)としてくださる(すべてのことがともに働いて益(善)となる)ことを」と記しながら、「神を愛する」という「行い(働き)」が、「ご計画にしたがって召された」という「神の召し」から始まっていると述べていました。
私たちは神に召された結果として、神を愛することができるようになったのです。
私たちはアブラハムの信仰を自分たちの模範と考えますが、それは神ご自身がアブラハムを選び、育ててくださった結果でした。イサクとヤコブが選ばれたのも、そこに彼らが誇ることができる功績は何もありません。すべては、神が一方的に彼らを愛してくださったからに他なりません。
ただ、その一方的な選びは人間的に見ると、不条理に見えます。しかし、パウロが引用したマラキ書で強調されていることは、神が一方的にイスラエルを選んでくださったのに、彼らはその神の愛に応答していない、また神の選びにふさわしい生き方をしていないという叱責です。
選びは必ず使命に結びついています。これは悪く言えば、徴兵のようなものです。兵士に召された者は命がけで国のために戦うことが期待されます。それと同じように、神によって「召された」のは、「神を愛する」という生き方を現わすために他なりません。
神を愛することの中には、パウロのようにとんでもない試練や迫害に耐えながら神に仕えるということが含まれています。神の一方的な選びを不公平と考えるのは、選びに結びついている使命を忘れているからに過ぎません。
3.「あわれもうと思う者をわたしはあわれんでゆく。いつくもうと思う者をわたしはいつくしんでゆく」
9章14–16節では、「それでは何を私たちは言いましょうか、神には不正があるとでも、決してそうではありません。神はモーセに、『あわれもうと思う者をわたしはあわれんでゆく(未来形)。いつくもうと思う者をわたしはいつくしんでゆく(未来形)』と言われたからです。 ですから、これは人の願い(望み)や努力によるものではありません。そうではなく、あわれんでくださる神によるのです」と記されています。
パウロは13節で、神は「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という、人間的には不正にも見られることを述べたので、「それでは何を私たちは言いましょうか。神には不正があるとでも」という不思議な問いかけをして、またここでも「決してそうではありません」と、それを即座に否定します。
これは、7章25節で「律法は罪なのでしょうか、決してそうではありません」と記されたことに似ています。それは人間的な尺度では神のご計画が理解できないからです。その上で、パウロは、神がモーセに言われたことばを引用します。
15節に引用されたことばは出エジプト記33章20節のギリシア語七十人訳と全く同じです。ヘブル語とは若干の違いはありますが、基本は同じです。それは、神の「あわれみ」も、「いつくしみ」または「恵み」という未来の行動も、ご自身の自由な意思に基づくという意味です。
出エジプト33章は、イスラエルの民が金の子牛を作って拝んだことを見た主が、イスラエルのただ中に住んで彼らを導くことをやめると宣言されたことを基に話が展開します。
それに対しモーセが、「どうか、あなたの道を教えてください……もしあなたのご臨在がともに行かないなら、私たちをここから導き上らないでください」(13、15節) と訴えました。それに対し、主は「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう」と答えられます (17節)。
それに対しさらにモーセは、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(18節) という途方もないことを願います。それに対し主はさらに、「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主 (ヤハウェ) の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵んでゆく、またあわれもうと思う者をあわれんでゆく」(19節) また言われた、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(20節) と答えられました。
ここには、神がモーセの願いに真剣に耳を傾けながらも、彼の期待通りの答えをなさらないということが描かれています。神は私たちの願いに耳を傾けてくださいますが、どのような方法で、どのようなタイミングで、私たちを助けてくださるかは、神ご自身の自由な判断に基づくもので、それは私たちの理解を超えています。
そのことの要約が9章15節で「あわれもうと思う者をわたしはあわれんでゆく。いつくしもうと思う者をわたしはいつくしんでゆく」という神のことばとして記されます。
そしてその結論として、「ですから、これは人の願い(望み)や努力によるものではありません。そうではなく、あわれんでくださる神によるのです」(9:16) と記されます。つまり、神のみわざは、私たちの願いや努力に対応するようになされるものではなく、神ご自身の自由な意思によって行われるという意味です。
さらにそのことを根拠づけるように、17、18節では、「聖書はファラオにこう言っています。『このことのために、わたしはあなたを立てておいた。それは、あなたのうちにわたしの力 (デュナミス) を現わすためである。そうして、わたしの名を全地に告げ知らせるためである』と。ですから、神はご自身の望まれる(みこころの)ままにあわれみ、また、ご自身が望まれる(みこころの)ままに頑(かたく)なにされるのです」と記されます。
これは出エジプト記9章16節からの引用です。そこで神は、エジプトに次々とわざわいを起こすことの意味として、敢えてエジプトの支配者であるファラオを地から消し去らずに生かしておく理由をこのように語っています。
そこではさらに「あなたはなお、わたしの民に向かっておごり高ぶり、彼らを去らせようとしない」(出エジ9:17) と叱責されます。ただ、その前に「主 (ヤハウェ) はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人(モーセとアロン)の言うことを聞き入れなかった」(出エジ9:12) とも記されています。
エジプトのわざわいがどんどん激しくなり、十にも及んだ理由に関して、主(ヤハウェ)はその初めの段階からモーセに対して「わたしが彼 (ファラオ) の心を頑なにするので、彼は民を去らせない」(出エジ4:21) と言っておられ、「主がファラオの心を頑なにされた」という表現が後にも何度も登場します (10:20、27、11:10)。
ただこの似た「ファラオの心は頑なになり」「ファラオは心を頑なにし」という表現も並行して記されます (7:13、22、8:19、9:35)。つまり、これは主がファラオの心を操作している?というよりも、ファラオがイスラエルの神の力を見るたびに、自分こそがエジプトの支配者であるという意識を強め、自分で意地を張るようになるという心の自然な動きを、主がそのままに動くに任せたという意味に他なりません。
ただその目的は、エジプトのファラオにご自身の力(デュナミス)を現すことによって、エジプトの真の支配者がファラオではなく、イスラエルを選んだ主(ヤハウェ)であることを明らかにするためでした。その目的が「わたしの名を全地に告げ知らせるため」と記されます。
そして今、主(ヤハウェ)は「ファラオの心を頑なにされた」ように、イスラエルの心を頑なにされました。その不思議を説明するため9–11章が記されます。とにかく彼らの不信仰に神のご計画があるというのです。
箴言21章1、2節には、「王の心は、主 (ヤハウェ) の手にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、主は人の心を評価される」と記されます。
ここでは、主が王の心の向きを変えることで、この世の政治を背後から動かし、同時にそこで、それぞれの人の心の奥底の動機を評価されるということが並行して記されます。
ですから、いつでもどこでも問われているのは、自分の動機の純粋さを主張する前に、自分の心が知らないうちに「おごり高ぶり」、自分こそが周りの状況を支配する神であるかのような気持ちになっていないかを反省することです。
私たちは、「自分こそが神のみこころを理解できた!」という自意識過剰にも注意の目を向ける必要があります。私たちは所詮、自分の限られた小さな経験を通してしか、創造主のみわざを知ることしかできません。
自分があらゆる独断と偏見にまみれた者であるかという自覚をもとに、そのような謙遜な視点から神の選びの計画を見るときに、そこに健全な使命感が生まれます。それはそれぞれ固有のものです。
この異教社会の中で、あなたが神の子として選ばれたことには、創造主の特別な計画があります。まわりに方々から、「それでも、クリスチャンなの?」と言われることを、神の御名を汚していると心配する必要はありません。
私たちは欠けだらけの信仰の弱いままの姿で、「キリストの手紙」とされています (Ⅱコリント3:3、先週のメッセージ参照)。神はそのままのあなたをご自身の計画のために生かしてくださることを覚えましょう。