ローマ人への手紙8章26〜39節「御霊とキリストのとりなし」

2024年10月20日

ローマ人への手紙8章26–39節私訳、関連聖句

最愛の伴侶を失った方が、友人から「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」と言われ、信仰を失いかけたと言っておられました。その人にとって「伴侶の死」は最悪の事態であり、それが将来を開くことにつながるという発想自体が、許容できない考え方でした。

このみことばを言った人は、8章26節に記された「御霊ご自身」による「ことばにならないうめき」を語るべきでした。簡単に言うと、「あなたの悲しみに、イエス様も心を合わせて一緒に悲しんでおられる」ということがすべての出発点になるべきでした。

これは何も難しいことではなく、人の内側から出る素直な感情です。信仰の失敗は、この正直な感情に蓋をかぶせることから生まれます。自分に「強くなれ」と命じるのは、聖書の信仰ではありません。不安や悲しみをそのまま表現するところに聖霊のとりなし、また天のキリストのとりなしが始まります。

ある人が、信仰の訓練とは、「ヨットの操作に似ている」と言いました。ヨットは決して自分の力で動くことはできません。風を受けて初めて進むことができます。

ヘブル語の「風」は「霊」とも訳すことができます。私たちを変えてくださる聖霊の働きがあります。その風のような聖霊の働きの受け方を私たちは学ぶ必要があるのでしょう。

1.「御霊ご自身がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださいます」

8章22、23節では、「被造物のすべては、ともにうめいています、またともに産みの苦しみをしています……そればかりか、御霊の初穂を受けている私たち自身も自分の中でうめいています……私たちの身体が贖われることを待ち望みながら」と記されます。

ここには被造物の「うめき」、御霊を受けた私たちの「うめき」が記されています。

そして24、25節では「それは、望みにおいて私たちは救われたからです……まだ見ていないものを望んでいるのですから、私たちは忍耐をとおして待ち望みます」と記されています。

そして26、27節にはそれらに呼応するように、「御霊ご自身」の「うめき」が、「そして同じように御霊も私たちの弱さを助けてくださいます。私たちは何をどのように祈る必要があるかさえも分かりません。しかし、御霊ご自身がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださいます。(人の)心を探る方は、何が御霊の思いであるかを知っておられます。なぜなら御霊は神(のみこころ)にしたがって、聖徒のためにとりなしてくださっているからです」と描かれます。

私たちはこの不条理に満ちた世界で、「忍耐をとおして」、最終的な「救い」を待ち望みますが、そのような中で「被造物のうめき」「自分の中でのうめき」と同時に、私たちの弱さを助ける「御霊のうめき」という三重の「うめき」を体験することになるというのです。

ここで、「御霊の助け」が「ことばにならないうめき」による「とりなし」と描かれているのは興味深いことです。「ことばにならないうめき」とは、英語訳で「too deep for words(ことばするには深すぎる)」と訳されることがあります。当時の人々は聖書を読むときも祈るときも、聞こえることばを発することが普通でしたが、ここは言語化できないような御霊ご自身の祈りがあるという意味であると理解されます。

また、これは「何を言っているかわからないうめき」として、「異言の祈り」を指しているという解釈もあります。しかしここの中心は、「心を探る方」である「神にしたがって」、「御霊が私たちの弱さを助け……うめきをもって、とりなし……聖徒のためにとりなしてくださる」という、御霊の一方的な「助け」や「とりなし」が描かれています。

なおこの箇所は、8章15、16節で「御霊」の一方的な働きが、「あなたがたが、再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたからではない……息子とされる霊 (the Spirit of sonship) を受けたのです。それによって私たちは『アバ、父』と呼びます。御霊ご自身が私たちの霊とともに証ししてくださいます、私たちが神の子ども (テクナ) であることを」と記されていることの延長線上にあります。

私たちが聖霊を受けて「神の子」との立場が与えられているのも聖霊の一方的なみわざですが、それに続く聖霊の「とりなし」が描かれています。

2.「私たちは知っています……(御霊が)すべてのことを働かせて益(善)としてくださることを」

8章28–30節では、「私たちは知っています。神を愛する人たちのためには、(御霊が)すべてのことを働かせて益(善)としてくださる(すべてのことがともに働いて益(善)となる)ことを、それはご計画にしたがって召された人たちのためです。

それは神があらかじめ知っている人たちを御子のかたち (the image of his Son) と同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子なるためです。

神は、あらかじめ定めた人たち、この人たちをさらに召し、召した人たち、この人たちをさらに義とし、そして義とした人たち、その人たちにさらに栄光を与えられました」と記されています。

新改訳2017年版では「すべてのことがともに働いて益となる」と訳されますが、新改訳第三版では「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と訳されていました。

どちらの訳でもあまり意味は変わらないと思いますが、ここには「御霊」が隠された主語となっていると解釈することもできます。すると、先の「御霊の助け」「御霊のとりなし」の結果が、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ということにつながるという論理の流れが明らかにされます。

これはまた、8章17節で、私たちが「キリストとの共同相続人でもあります。それは、私たちが主と苦難をともにしているからですが、それは主とともに栄光を受けるためでもあります」と記されていたことをさらに丁寧に説明した文章とも言えます。

私たちは「すべてのことがともに働いて益とされる」ということを、ときに短絡的に「災い転じて福となす」という程度の意味に解釈することがありますが、この28節の文章は、30節までの一連の文章と不可分です。

そこでは「神を愛する人たち」のことが「ご計画にしたがって召された人たち」と呼び変えられ、その神のご計画が、「あらかじめ知っている人たちを御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたと説明されます。これは先の「主と苦難をともにする」ことにもつながり、十字架に向かう「御子のかたち(イメージ)と同じ姿に「あらかじめ定められた」という意味でもあります。

そのゴールは「主とともに栄光を受ける」ことにありますが、それに至るプロセスとして「あらかじめ定める」という神の予定、それにしたがってキリスト者として召されるという信仰者の出発点、さらに信仰によって「義とされ」、またその義とされた歩みの中で「栄光を受ける」という一連の歩みがあります。

これは私たちがキリストの歩みに倣うというプロセスとも言えましょう。私たちは神の御子がこの世の苦難をともに背負うために人となったという歩みを知っています。それは神の「定め」でした。主のバプテスマが公生涯の始まりであったように私たちはバプテスマへと召され」て主に従う歩みを始めます。

それは「日々、自分の十字架を負って」(ルカ9:23) 主に従うという歩みでもありますが、そこで「義とされている」ことを味わうことができます。それは神に義とされたキリストの復活のいのちが生きていることの体験でもあります。

最後に、キリストが天の父のもとに引き上げられたのと同じように私たちも「栄光を与えられ」、新しいからだをもって復活し、新しいエルサレムに住む者とされます。

しかも、ここで「多くの兄弟たちの中で御子が長子となる」とは、私たちが「神の家族」として完成する姿を指します。それはヨセフ物語につながる視点でもあります。

ヨセフは兄弟たちのねたみを買って、エジプトに奴隷として売られましたが、無実の罪で入れられた牢獄で、ファラオの家臣の夢を解き明かし、そこからファラオの夢を解き明かし、エジプトの総理大臣の地位へと引き上げられました。

後に十人の兄たちがヨセフにひざまずいたとき、ヨセフは彼らに向かって「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」(創世記50:20) と述べました。

そこでの「良いこと(益)とされた」とは、ヨセフが総理大臣とされたことではなく、ヤコブ一族がエジプトに逃れて爆発的に増え広がる道が開かれたことを指しています。

ですから、「益とされる」ということを私たちはいつも神のご計画全体、また神の民全体の救いのご計画との関係で考える必要があります。個人的な「益(善)」よりも、共同体的な「益」を意識する必要があります。

なお、8章26節では「私たちは何をどのように祈る必要があるかさえも分かりませんと言われながら、28節では「そして私たちは知っています(分かっています)、神を愛する人たちのためには、(御霊が)すべてのことを働かせて益(善)としてくださることを」という確信が述べられます。

残念ながら、多くの人々は、自分の願望をもとに「祈りたいこと」が極めて明確に「分かっている」一方で、神の導きの中で、「すべてのことがともに働いて益とされる」という確信を持てずにいます。

しかし、あちらを立てればこちらが立たずという世の矛盾を知れば知るほど「どう祈ったらよいか分からなくなる」とも言えます。一方で「御霊のうめき」に導かれながら、この世界の様々な矛盾が見えてくると、神がご自身の方法ですべてを益に変えてくださるということが見えてきます。

それは人間が思いつく解決ではなく、神が導いてくださる解決です。

3.「この方は、神の右の座におられ……私たちのためにとりなしていてくださる」

8章31–37節では四回にわたって、「だれが……」ということばを用いて、神の民に対する攻撃が描かれながら、その一つ一つに対しての三位一体の神からの守りの御手が保障されるように記されます。

31、32節は、「それでは、何を言えるでしょう、これらのことに対して、もし神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対するでしょう。この方は、ご自身の御子をさえ惜しみませんでした。かえって私たちのためにこの方を(死に)引き渡されたのです。それならば、どうして、御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」と記されています。

「自分の子をさえ惜しまなかった」という表現は、アブラハムがひとり子イサクを神の命令によって犠牲にしようとしたことを指すもので、神がアブラハムの痛みをともに味わうようにイエスを犠牲にされたという痛みが伝わってきます。

私たちは天地万物の創造主を自分の味方とする特権を持っているばかりか、ご自身の御子を十字架に架けてまで私たちをご自分の子にしようとしてくださった神の一方的な恵みの中に生かされているのです。

「御子とともにすべてのものを恵んでくださる」とは、私たちが「キリストとの共同相続人」とされてることの言い換えでもあります。

8章33、34節は、だれが、神に選ばれた者たちを告発するのですか。神が義とされるのです。だれが罪に定めるのですか、キリスト・イエス、この方は死んでくださった、いやよみがえってくださったのです。この方は、神の右の座におられます。そしてこの方は私たちのためにとりなしていてくださるのです」と記されています。

第二の「告発」に対して「神が義とされる」という表現の背後にはイザヤ50章4–9節に描かれた第三の「主のしもべの歌」があります。

そこで主のしもべは、「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけらても、顔を隠さなかった」(同6節) と描かれますが、それに耐えられる理由が「私を義とする方が近くにいてくださる」(8節) と描かれます。

それに続いて「だれが私と争うのか」「だれが私をさばく者となるのか」「だれが私を不義に定めるのか」という表現があります。まさにパウロの表現の背後に、「見よ。主 (アドナイ) ヤハウェが私を助けてくださる」(9節) というイザヤの宣言があるのです。

そしてそこには8章34節の「だれが罪に定めるのですか」という疑問への答えも記されています。そこで、キリストは「死んでくださった、いやよみがえってくださった」と、復活を宣言した後、「この方は、神の右の座におられ……私たちのためにとりなしてくださる」と描かれます。

キリストが「神の右の座に着く」とは詩篇110篇の引用で、キリストがダビデの主となったことを表わします。また「とりなし」とは26、27節では御霊の働きと描かれたものが、ここではキリストご自身による天での現在の働きとして描かれます。

この背後には第四のしもべの歌であるイザヤ53章12節での「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのとりなしをする」という表現があります。

この天でのとりなしは、ヘブル書では大祭司イエスの働きとして、「したがってイエスは、人々を完全に、永遠に救うことがおできになります、ご自分によって神に近づく人々を。それはこの方がいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」(7:25) と描かれています。

私たちの罪を負われたキリストが「神の右の座」で、私たちのために「とりなし」しておられるのです。

4.「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すことになるというのですか」

8章35–37節は、だれが、私たちをキリストの愛から引き離すことになるというのですか。患難(苦難)ですか、苦境(行き詰まり、苦悩)ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。それはこう書かれているとおりです。『あなたのゆえに私たちは一日中、死に渡されています。まるで屠られる羊と見なされています。』 しかし、これらすべてにおいても、私たちは圧倒的な勝利者です(勝利者を超えた者となっています)、私たちを愛してくださった方をとおしてのことです」と訳すことができます。

私たちは「苦難から救い出される」ことを求めがちですが、それよりも大切なのは、「苦難の結果から救い出される」ことです。それは、サタンが苦しみをとおして、「神に従っても、何の良いこともない……」と語りかけ、私たちをイエスの愛から引き離そうとするからです。

そこで私たちを引き離す材料が七つ描かれます。最初の「患難」と「苦境」は似ていますが、前者は肉体的な苦しみ、後者は精神的な絶望感のようなものと言えましょう。

どちらにしても、これらは神に従うという誠実さの結果として、殉教の死を遂げるような苦しみを指しています。パウロ自身、死ぬ一歩手前の「四十に一つ足りないむちを受けたことが五度」もあり、「一昼夜、海上を漂ったことも」「労し苦しみ、たびたび眠られず過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中で裸でいたこともありました」と自分の苦難を描いています (Ⅱコリント11:24–27)。

詩篇44篇22、23節では、そのように神に誠実を尽くすことによる苦難が、神に向かって、「あなたのために、一日中(休みなく)、私たちは殺され、屠られる羊のように見なされています」と表現しながら、その直後に、「起きてください。なぜ眠っておられるのですか、主よ。 目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください」という訴えに変えられます。

パウロは、この詩篇のことばを引用しながら、自分が神に向かって「起きてください……目を覚ましてください」と、泣きながら祈っていたことを示唆しています。

しかしそのような苦難の中で、パウロは自分がキリストの苦しみにあずかっていることを自覚し、そこで復活の主にある勝利を体験し、「これらすべてにおいても、私たちは圧倒的な勝利者です(勝利者を超えた者となっている)」と告白したのです。

それは、「キリストとともに苦しむことで、キリストとともに栄光を受ける」という霊的な事実を心の底から体験していたからです。

これは決して強がりではありません。それは、「起きてください。なぜ眠っておられるのですか、主よ。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください」という正直な、神に苦難を訴えた結果として、神ご自身から与えられた勝利の感覚だからです。

8章38、39節は、「それは、私は確信させられたからです、死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今ある者も、後に来る者も、力ある者も、高いところにある者も、深いところにある者も、そのほかのどんな被造物も、私たちを引き離すことを可能にすることはあり得ないからです、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から」と訳すことができます。

最初のことばの「私は確信させられた」とは、完了受動態で、パウロ自身が御霊の導きによって確信させられたと語っているのです。

そして、私たちをキリストの愛から引き離し得る力として最初に「死」が登場するのは、「イエスを主と告白することで殺される」という死の脅しですが、次の「いのち」とは、「様々な支配と権威の武装」(コロサイ2:15) のもとにあるこの世の安楽な生活を指すと思われます。

また「御使いたち、支配者たち、力ある者」とは「この世のもろもろの霊」(同2:20) とも言われるサタンの配下たちを指します。

その後は、現在、未来という時間、また深さ高さという空間、「そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできない」と言われます。

なお、ここでは「できる」という未来形の動詞を、十の被造物すべての項目の初めに否定形がついていますから、それらが「私たちを引き離すことは(将来的に)あり得ない」と断言されているのです。

私が米国で信仰告白に導かれた後、自分の期待が裏切られ「やはり信じるのを止めようかと思う」と宣教師に語ったとき、彼はこの箇所を読み上げてくれました。そのとき何か不思議に、自分の意思で信じたのではなく、自分の意思を超えた聖霊の導きで自分は信仰告白に至ったのだから、今後も、自分を信仰から引き離す要素が自分を屈服させることは無いと思えました。

私たちには意思の働きがありますから、自分で神の愛の支配から抜け出ることができるようにも思えます。しかし、「信じるのを止めたい」と相談した時点で、そこに自分を超えた神の愛が働きます。

Ⅰコリント5章16–18節の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と記された直後に、「御霊を消してはいけません (Do not quench the Spirit)」という命令が記されています。

それは、聖霊の働きを、ランプの灯を消すように、消すことが、私たちの意思で行い得ることを示唆しています。もちろん、創造主である聖霊は、私たちの意思を変えることはできる創造主ですが、私たちの断固たる肉の意思を尊重することも、ときにはなさいます。

しかし、私たちが、「どう祈ってよいか分かりません」「あなたを信じることができません」「あなたが眠っておられるように感じます」という私たちの不安を告白するなら、聖霊は私たちを喜んで助け、私たちの意識を正すことができます。

「見よ、イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない」(詩篇121:4) というのは正しい信仰告白です。それをよく知っている詩篇作者が、「起きてください。なぜ眠っておられるのですか、主よ。目を覚ましてください」と訴えているのを見たとき、心の緊張が解けた気がしました。

しかも、それがパウロの「私たちは圧倒的な勝利者です」という告白を生み出す出発点になったということが分かったとき、深い感動に満たされました。信仰は何かの正統的な教理を信じることではなく、創造主との生きた交わりです。

私たちはイエスの父なる神に向かって、聖霊の導きによって「アバ、父」と呼びかけることができます。親の愛を受けている幼子は、怖じることなく自分の気持ちを親に打ち明けることができます。そして、親の語りかけを受けて、すぐに微笑みだすことができます。

「善き力にわれ囲まれ」の原歌詞には、「善き力(複数形)から驚くべき方法で守られて」という三位一体の神の神秘的な守りの意味が込められています。