大学の50周年クラス会〜伝道者の書1:9、10「日の下に、新しいことは何もない」

 昨年のことですが、同じ大学出身の先輩の牧師に、70歳を超えると、さまざまな同窓会の類が頻繁に開かれるようになるが、それらに出席するのが「牧師の務め」であると言われました。
 それはみな「人生の終わり」を意識するようになるからです。

 昨日、札幌で開かれた、昼少し前から深夜までの、北海道大学教養学部1年4組「50周年記念クラス会」に参加してきました。参加者は12名で日本各地から集まってきました。
 当時の教養学部は、文科系すべての学生が専門に分かれる前に幅広い教養を身に着けるためのクラスで、法律も経済も文学も教育も歴史など幅広く学ぶ学年でした。

 そのため、それ以降の歩みも本当に多種多様で、たった12名でも本当に違った歩みがありました。
 このクラスでフォークソングのグループができてしましたが、最近になり、仲間の死をきっかけに再結成して、昔の曲や新しい曲をそれぞれが録音してネットで合成するというようなことをしていました。

 ある人は、人生の挫折を経て、日蓮宗(創価学会ではない本筋の流れ)に帰依するようになり、小さな寺を任されるようになっています。

 ある人は、役所の重責を次々と担って退職した後、何とブドウ園を始め、ぶどう酒作りを始めていました。

 哲学の教授になった方は、ドイツの古い歌の翻訳と解説に情熱を傾けて、70歳を超えてもやりたいことが次々と生まれていると言っていました。

 そうかと思えば、歴代の天皇の名を、南北朝時代の分裂の時代の名前を含めて暗唱しているという人もいました。

 僕は自分が今まで書いた本の六冊ばかり持って行きましたが、何人もの人が喜んで買ってくださいました。
 ある女性は、「私も自分の心が傷つきやすいことを最近意識するようになった」と言って拙著を買ってくださったり、先の、日蓮宗の方は「正しすぎてはならない」という伝道者の書の解説を買ってくださいました。

 ある男性は、法学研究者の道から、日本の「浮世絵」の収集と解説に力を込めるという歩みになり、今も、毎週のように、文化教室で「浮世絵」の解説をしています。
 彼は江戸時代の浮世絵は、「憂き」時代に「浮き浮き」とした気持ちを生み出す日本人の知恵だと言っていました。

 北大の文系の研究棟は、基本は、50年余り前の姿を保っています。軍艦講堂と呼ばれは古い教室群も、新しい建物の背後に、そのまま使われていました。
 少なくとも大学の主な建物は50年前とあまり変わりません。

 この大学には、小学生の自由な遊びの場にもなるほどの広大な敷地があり、新しい建物が次々と建っていても、古い建物はそのまま残され、使われています。

 五十年前と変わらない大学の雰囲気、また五十年前の思い出を昨日の事のように語り合うことができました。

 しかし、ふと思いました、この大学に入学したのは1972年でしたが、その50年前とは、1922年 何と大正10年になります。それは今は消えてしまったソビエト社会主義共和国連邦が生まれた時代、日本の関東大震災の前の年です。
 例の浮世絵の先生は、1991年のソ連の解体直後、多くの浮世絵をロシアから安く買い戻すことができたと言っていました。

 僕が大学に入った時代は、第二次大戦後、たった27年後の時代だったというのは信じられない感じです。
 その五十年前の雰囲気は、どちらかというと江戸時代に近い感じだったかと思います。
 その五十年間は日本が驚くべき経済成長を遂げ、10年が経ったら世界が全く違うようになるという激しい変転の時代です。

 しかし僕が大学に入ってからの50年間は、その変化からみたらほとんど大きな変化がなかったと思えるほどの、どちらかというと平穏な時代でした。

 最近の三十年間が「日本の失われた三十年」などと言われますが、振り返ってみると、江戸時代も本当に変化が少なかった時代です。
 しかし、そのような時代に、日本が世界に誇ることができる「浮世絵」のような芸術が生まれました。
 
 文化的に見ると、社会的な大変動がない時代こそ、新しい文化が生まれるのかもしれません。

 伝道者の書1章4–11節には次のように記されています(私訳)

ひとつの世代が過ぎ去り、つぎの世代が来る。
 しかし、地はいつまでもそこにある。     
日は昇り、日は沈み、
 また昇ってきたところに急いで戻る。                 
風は、南に吹き北に巡り、巡り巡って吹く。
 風は、巡る道にまた戻る。            
すべての流れは海に注ぐが、海は満ちることがなく、
 流れ注ぐ所にまた戻ってゆく。     
何もかもが疲れることばかり。
 誰も 語り尽くすことはできない。 
目は見ても満ち足りることもなく、
 耳は聞いても満たされることはない。

今まであったことはこれからもあり、
 今まで起こったことはこれからも起こる。 
日の下に、新しいことは何もない。
 「見よ。これは新しい!」と言えるものが、
 何かあるだろうか?               
それはすべて、私たちが過ごしてきた、
 はるか先から既にあったもの。
昔のことは忘れ去られている。
 そして、これから後のことも。   
また、そのずっと後のことでさえ、
 忘れ去られてしまう。

 
 外面的なものはどんどん変化しますが、人と人との関係とか、人間の悩みとか喜びという視点からは、三千年前と今に、あまり大きな変化はありません。

 僕が大学に入学するまでの50年間は激動の時代でしたが、それからの50年間は昔の建物がそのまま用いられているような時代です。

 変わってることよりも、変わっていなもののほうに私たちの悩みとか幸せがあるように思います。
 私たちはもっと、変わっていなことにこそ目を向ける必要があるように思わされました。