エレミヤ26〜29章「わざわいではなく、平安(シャローム)を与える計画」

2024年10月6日

私たちはときに、主に真剣に祈りながら決めたことで、深く後悔することがあるかもしれません。しかし、あなたが主との交わりの中で選択したことは、主のご支配の中にあります。それが一見、自分に「わざわい」をもたらす計画のように見えても、それはあなたに「平安(シャローム)」を与える計画」となっています。

そのことをパウロは、「望みにおいて私たちは救われた」(ローマ8:24) と記しています。イスラエルの国歌は「ハ・ティクバ」と呼ばれ、国の希望を歌っていますが、あなたにとっての「望み」とは何でしょうか。

1.「主 (ヤハウェ) の御声に聞きなさい。そうすれば、主 (ヤハウェ) も……わざわいを思い直されます」

26章の記事は25章と同じ、「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初め」のときのことです。

主はエレミヤに、「主 (ヤハウェ) の宮の庭に立ち……礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは……彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直す」(26:2、3) と語られました。

そこで、主は、彼らが主のみことばを軽蔑し続けるなら、「わたしはこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とする」(26:6) と警告されました。

それに対し「祭司と預言者と民全体は……エレミヤ……を捕らえて」、「あなたは必ず死ななければならない……なぜ、この宮がシロのようになり、この都が……廃墟となると、 (ヤハウェ) の御名によって預言したのか」と非難しました (26:7-9)。

確かにサムエルの時代に幕屋があったシロは廃墟となりましたが、当時のエルサレム神殿は神の奇跡の作品でした。その神殿を否定するような預言が神のことばであるはずはないと彼らには思われました。

「祭司たちと預言者たちは……『この者は死刑に当たる』と言い」ます(26:11)。

しかしエレミヤはなおも「主 (ヤハウェ) が……私を遣わされたのです。さあ、今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、主 (ヤハウェ) の御声に聞き(従い)なさい。そうすれば、主 (ヤハウェ も……語ったわざわいを思い直されます」と悔い改めを迫ります (26:12、13)。

そればかりか、エレミヤは「私を……気に入るようにしなさい」(26:14) と言い放ち、「もし……私を殺すなら、あなたがた自身が咎なき者の血の責任を、自分たちと、この都と、その住民に及ぼすのだということを、はっきり知っておきなさい。なぜなら、本当に (ヤハウェ) ……これらすべてのことばをあなたがたの耳に語らせたのですから」(26:15) と、主のさばきを大胆に語り続けました。

この警告に恐れを抱いた「首長たちと民全体」は、「この人は死刑に当たらない。彼は私たちの神、主 (ヤハウェ) の名によって……語ったのだから」と態度を変えます (26:16)。

それは、かつて預言者ミカが「エルサレムは瓦礫の山と……なる」と言ったときに、「ユダの王ヒゼキヤとユダのすべて」は、「主 (ヤハウェ) を恐れ、主に願ったので、主 (ヤハウェ) も彼らに語ったわざわいを思い直された」からです (26:18、19)。当時の人々にとって、アッシリア帝国の攻撃からエルサレムを守ったヒゼキヤ王はダビデに次ぐ偉大な王で、その例を出されると沈黙せざるを得ません。

しかし彼らはエレミヤのことばを信じたというより、彼のことばが神からのものであった場合の保険をかけたに過ぎなかったと思われます。

事実、「キルヤテ・エアリム出身のシェマヤの子ウリヤ」も、「エレミヤのことばすべてと同じような預言をしていた」のですが (26:20)、エホヤキム王の命令で、逃亡先のエジプトから連れ出され、剣で打ち殺され、共同墓地に捨てられました (26:23)。エレミヤが殺されなかったのは、シャファンの子アヒカムがかばったからにすぎません (26:24)。

26章では、主が「わざわいを思い直す」と三度繰り返されますが (3、13、19節)、これは神が私たちの思いに応答して「悔いる」とも訳されることばです。残念ながら、地獄があったときのための保険程度にしか神への信仰を考えていない人はいつの時代にもいます。私たちの場合も、その場限りの信仰の姿勢があるかもしれません。

神はしばしば、私たちの感覚には受け入れがたいことを言われますが、それは、聖書の神が人間の期待から生まれた存在ではないことの何よりのしるしです。信仰共同体が健全かどうかは、人々の期待に反することばをどれだけ真剣に受け止めているかで測られます。

しかし応答するのに遅すぎることはありません。神は最後まで「わざわいを思い直す」と約束しておられるのですから。

2.「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」

27章の預言は、エホヤキムの二代後の後継者「ゼデキヤ」に向けてのことばです。ヘブル語の最も信頼できる写本は新改訳のように「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初め」(27:1) と記されていますが、ギリシア語七十人訳にはこの節が無く、それは26章1節と混同して写し間違えたのだろうと多くの学者が述べます。

それゆえ多くの聖書翻訳ではこの箇所が「ユダの王ゼデキヤ」と敢えて訳されます (聖書協会共同訳参照)。そしてこれは、第二次バビロン捕囚の四年後、紀元前594年頃だと思われます。

主はエレミヤに「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首につけよ……今わたしは、これらすべての地域をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣も彼に与えて仕えさせる」(27:2、6) と言われます。

ただし同時に、彼も最終的には敗北することを、「しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷とする」(27:7) と保障されました。それは、この地の支配者が人間ではなく、イスラエルの神、主 (ヤハウェ) であることを知らせるためでした。

ただそれでも主はこのとき、ご自身のご計画のためにネブカドネツァルを王として立てていますから、彼に逆らう者は神に逆らうことを意味しました。

それで主は「バビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し……彼の手で彼らを皆殺しにする」(27:8) と警告されます。

さらに、偽りの預言をしている者たちには、「わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びることになる」(27:10) と断言されます。そして同時に主は、「バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる(いこわせる)」と約束されました (27:11)。

そればかりか「ユダの王ゼデキヤ」にも、「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」と語られました (27:12)。

パウロは、残虐なローマ皇帝ネロの時代に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます」(ローマ13:1、2) と語りました。このときパウロの心にはこのエレミヤの預言が響いていたことでしょう。

イエスご自身も、「すべて疲れた人、重荷を負っている人」に向かって、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎを得ます」と言われました (マタイ11:28、29)。「くびき」を避けることより、選ぶことのほうが大切なのです。

私たちは怒りや恨みや不安という「自我のくびき」に苦しんでいる場合がありますが、「イエスのくびきを負う」とは、万物の創造主の子としての柔軟で自由な生き方を意味します。

27章16節では、「『見よ。主 (ヤハウェ) の宮の器は、バビロンから今すぐにも戻される』と……預言している……預言者のことばに聞き従ってはならない。彼らは……偽りを預言している」(27:16) と言いながら、「バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この都が廃墟となってよいであろうか」(27:17) と勧めました。

この約四年前に、バビロンの王がユダの王エホヤキンと貴族を連行したばかりかエルサレム神殿の宝物をバビロンに運び去っていました。このような暗黒の時代に、偽預言者たちは、主はそれを戻してくださると勇ましく預言しました。しかし、その偽りの希望は、バビロンによる徹底的なエルサレム破壊を招くきっかけになりました。

それで主はさらに、「もし彼らが預言者であるなら……主 (ヤハウェ) の宮……エルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の主 (ヤハウェ) にとりなしの祈りをするはずだ」(27:18) と言いました。それは彼らが真の預言者であるならば、既に起こった悲劇を主のさばきとして受け入れ、より大きな悲劇が起こらないように祈るはずだという意味です。

そればかりか「万軍の主 (ヤハウェ) 」は、残された神の宮の器を守り通すという意味を込め、「それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある……そしてわたしはそれらを携え上り、この場所に戻ず」(27:22) と約束されました。

誰も時間を元に戻す事はできません。「あのことのせいで……」と後悔しても、過去を変える事はできません。苦しいときに求められる行動は、現実をあるがままに受け止め、さらなる悲劇が起きないように祈り続け、あらゆる手段を講じることです。

神は敵の手を用いてご自分のものを守ることができます。エズラ記1章では、バビロンを滅ぼしたペルシア王キュロスがエルサレム神殿の再建を命じ、バビロンに保管されていたエルサレム神殿の宝物を捕囚の民とともにエルサレムに戻させたということが記されています。

3.「あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。」

28章は27章と同じ時のもので (28:1)、「ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、主 (ヤハウェ) の宮で、祭司たちと民全体の前で」、エレミヤのことばと正反対の楽観的な預言のことばを、「イスラエルの神、万軍の主 (ヤハウェ) はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。二年のうちに、わたしは……主 (ヤハウェ) の宮のすべての器をこの場所に戻す。バビロンに行ったユダの王……エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの場所に帰らせる……わたしがバビロンの王のくびきを砕くからだ」(28:2–4) と語りました。

それに対しエレミヤは、「アーメン。そのとおりに主 (ヤハウェ) がしてくださるように」(28:5) と皮肉を込めて言いながら、真の預言者と偽物を区別する方法に関して、申命記18章22節を引用し、その後の現実から判断できると述べます (28:8、9参照)。

先にエレミヤは主の命令によって自分の首に「縄とかせ」をつけて、「バビロンの王のくびきに首を差し出す」ことが主のみこころであると視覚教材で訴えていましたが (27:2、12)、「預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた」(28:10) というのです。

そしてハナンヤは、「主 (ヤハウェ) はこう言われる。このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く』」(28:11) と力強く断言しました。

たぶんこのとき、人々は大きな歓声とともにハナンヤに拍手を送ったことでしょう。そのような中で、「そこで、預言者エレミヤは立ち去った」というさりげない記述から、エレミヤの孤独と嘆きが伝わってくるように感じられます。

しかしこの後、主はハナンヤに対し、「あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる……わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは彼に仕える。野の生き物まで」(28:13、14) と告げます。これはどこでも起き得る現実を示しているとも言えます。

私たちがこの世の権力者に真心から仕えようとするなら、その信頼を得て大きな自由裁量とともに仕事を任せてもらうことができますが、反抗的な態度を取るなら、かえって自分の行動があらゆる面から制限され、ますます仕事ができなくなります。

ですから使徒ペテロも、「しもべたちよ。敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、横暴な主人にも従いなさい」(Ⅰペテロ2:18)と勧めています。

これは決して権力者にゴマをすることの勧めではありません。真に良い仕事をしたいと思うなら、上司との無用な摩擦を避け、良いチームワークを築くことは不可欠なプロセスだからです。

最後にエレミヤは、「ハナンヤ……あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ……わたしはあなたを地の面から追い出す。今年、あなたは死ぬ。 (ヤハウェ) への反逆をそそのかしたからだ』」と伝えます (28:15、16)。

異教徒の権力者に勝利できるという見通しを語ったことが、主ご自身への反抗をそそのかした罪として断罪されたのです。そして「預言者ハナンヤはその年の第七の月に死んだ」(28:17) という主のさばきが記されます。偽預言者を放置することは、主の民全体を苦しみに陥れることになるからです。

イエスがロバに乗ってエルサレムに入城したとき、人々はイエスを、新しい王、ダビデの子として歓呼をもって迎えましたが、その五日後には、みながそろってイエスを「十字架につけろ!」と叫びました。それはイエスが、ユダヤ人をローマ帝国からの独立を導く救い主ではないことが明らかになったからです。

イエスは、「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52) と言われ、何の抵抗もせずに十字架にかかって息を引き取りました。しかし、その三日後に、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。権力者への服従が、死の力への勝利をもたらしたのです。

その後イエスの弟子たちは、死の脅しに屈することもなく、また権力者に無用に反抗することもなく、社会を内側から作りかえて行きました。反抗することも卑屈になることもなく、真の自由人として生きることができました。

しかも、神のさばきにゆだねるとき、不思議な解決が見られます。イスラエルの民は、七十年後に新たな神の民として歩み始めることができました。

4.「それはわたしが知っているから、わたしが立てている計画を」

29章には、預言者エレミヤが、バビロンに引かれて行った捕囚の民、長老たち、祭司や預言者たちに向けてエルサレムから書いた手紙のことが記されています。すでにバビロンには、「エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶」(29:2) が住んでいました。

そこで「イスラエルの神、万軍の主 (ヤハウェ) 」は、「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」と呼びかけ (29:4)、バビロン捕囚が主のみわざであることを強調します。

さらに彼らに早期の帰国を望む代わりに、「家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み……そこで増えよ。減ってはならない……その町の平安 (シャローム) を求め、その町のために主 (ヤハウェ) に祈れ。その町の平安 (シャローム) によって、あなたがたは平安 (シャローム) を得ることになるのだから」(29:5–7) と告げます。

ここにシャロームというヘブル語が三回も繰り返されます。自分たちを奴隷のように扱う町のシャロームを願うことが自分たちのシャロームになるなどという論理は、捕囚の民には受け入れがたいことだったことでしょう。

そして主は、「あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない」(29:8)と言います。偽りの預言者たちは、人々の期待するようなことばを伝えますが、その淡い希望が裏切られるたびに、現実の生活がますます耐え難いものに思えてきます。

私たちもときに、自分の期待に反した地に住み、期待に反する働きをせざるを得ないことがあるかも知れません。そのようなとき、都合の良いことばに耳を傾ける代わりに、今置かれている場の祝福とその寄留の地の平安(シャローム)を望むことが大切ではないでしょうか。

そのような中で主は、「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみ(善)の約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる」(29:10) という具体的な希望を告げられます。あなたが今、悲惨な状況の中に置かれているなら、「それでは遅すぎます!」と言いたくなるのではないでしょうか。

そんな絶望感を味わう人に向かって主は、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている」(29:11) と言われます。原文では「わたし」が強調され「それはわたしが知っているから、わたしが立てている計画を」と語りながらご自身の支配を強調します。

しかもそれは、天地万物の創造主であられる「主 (ヤハウェ) 」のことば」と記され、原文では「それは平安 (シャローム) を与える計画である、わざわいではない、あなたがたに将来と希望  (ティクヴァ) を与えるためのものだ」と解説されます。

ユダの民にとって、バビロン捕囚は「わざわい」としか思えませんが、それは「平安(シャローム、平和)」を与える計画であり、彼らに「将来と希望を与える」ためのものであるというのです。

イスラエルの民は経済的な繁栄の中で、それらすべてを与えてくださった神のみわざを忘れました。それで主は、彼らに苦しみを与えることによってすべてが神の恵みであることを心から悟ることができるようにと導かれたのです。

人々は主が御顔を隠しておられるように感じますが、主が与えてくださる「将来と希望」とは、「わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける……心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見い出される」(29:12–14) と言われます。

彼らはこの悲惨を通して、主(ヤハウェ)を「見つけ」、一切の偶像礼拝を退ける「神の民」となりました。

そればかりか主は、「あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集め……わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所に帰らせる」(29:14) と言われます。

この預言がなされたのはエルサレム神殿が破壊される約七年前のことですが、その前の二回に渡ってイスラエルの民の多くの者がバビロンに連行されていました。第一次捕囚は紀元前605年ですが、それから約七十年後、バビロン帝国はペルシア帝国によって滅ぼされ、多くのイスラエルの民は約束の地に戻ることができました。

それはまさに、この預言の通りでした。だからこそ、バビロンへの服従ばかりを説いた預言者エレミヤが今も尊敬されているのです。

一方、エレミヤは29章15–19節で、エルサレムに残されていたユダヤ人は、誤った希望に惑わされてバビロン帝国に逆らい、想像を絶する苦しみに会うと警告します。「腐ったいちじく」のたとえは24章に記されていました。

さらに20–23節で、主はふたりの偽預言者たちに対するさばきを宣告されます。

また24–32節では「ネヘラム人シェマヤ」という偽預言者のことが描かれます。彼はバビロンに住んでいましたが、エルサレムの主の宮の監督者に手紙を書いて、エレミヤを「気がふれて預言する者」と呼び、「首かせをはめる」ように依頼しました (29:26)。

それはエレミヤがバビロン捕囚の民に「捕囚は長く続くので、家を建てて住み、園を造ってその実を食べよ」(29:28) と書き送っていたことが偽りだと責めるためでした。主はエレミヤに対して、シェマヤに対するさばきの宣告を伝えますが (29:31、32)、ここにもバビロンに捕囚とされた預言者や指導者たちがエレミヤのことばに激しく反発していたという事実が明らかにされます。

イスラエルの民はエレミヤ29章のことばによって、捕囚の地バビロンによって生き返りました。彼らは捕囚のくびきを、主(ヤハウェ)からの「くびき」として受け入れ、これ以降、一切の偶像礼拝を拒絶し、主のみことばを真剣に受け止める民へと変えられました。まさにバビロン捕囚が「わざわいではなく平安(シャローム)を与える計画」であったと彼らは納得できたのです。

イエスの時代のユダヤ人は、この反省が行きすぎて、互いの信仰生活を見張り合うことで国を良くしようと頑張り、律法の本質からずれてしまいましたが、それでも彼らがバビロン捕囚を通して「主に立ち返った」ことは確かです。

私たちの生活も、主のご支配の中にあります。そこで出会うすべての「わざわい」の中に、主の招きを見ることができます。「わざわい」から逃げる代わりに、そこにある主のご計画に気づくことこそが、すべての「平安(シャローム)」の出発点です。