ローマ人への手紙8章12〜25節「望みにおいて私たちは救われた」

2024年9月29日

ローマ人への手紙8章12-25節私訳、関連聖句

人生の意味を知らない幼子に「イエス様を信じて天国に行こう!」と語るのは、少し危ない気がするのですが……。

聖書は、アダムが神に逆らって、せっかくの素晴らしい世界を壊してしまったこととともに、ダビデの子としての救い主が現れるとき、「狼は子羊とともに宿り……子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く(導く)……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ」(イザヤ11:6–8) るという弱い動物と強い動物が仲良く暮らし、子どもがライオンや毒へびと戯れる世界、この世界から嘆きが無くなるシャローム(平和)を描きます。

動物の世界を含めた全世界に神のシャロームが実現することを待ち望みながら、目に見える家族も小さな生き物も大切にして生きるようにと教えるのが信仰ではないでしょうか。

そして、何のために勉強するかと言えば、詩篇8篇に従い、この世界をイエス様に倣って治めるためというのが、神が私たちに望んでおられることです。

私たちはそのために「神の子」とされました。その特権に満ちた「神の子らしい生き方」を「Sonship」と呼びます。それをいつも覚えるのが信仰の核心です。

1.「それによって私たちは『アバ、父』と呼びます」

8章12、13節は、「ですから、兄弟たち、私たちは負債を負っています。ただ、それは肉に対するもの、肉に従って生きるというものではありません。というのは、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになっているからです。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すならば、あなたがたは生きます」と記されています。

最初の「ですから」は、多くの英語訳では「So then」と訳される二つの単語からなり、8章1節での「こういうわけで、今や」と似た議論の展開を指します。

これは、7章25節での「なんとみじめな人間なのでしょう、この私は。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょう」という問いへの答えが8章1–11節に記されたことのまとめとも言えます。

これはすべての人間の心の内側にある肉と霊の葛藤に目を向けさせる議論ではなく、既に神がキリストにおいて成し遂げられた「恵み」に目を向けさせるためのことばです。

簡単に言うと、「あなたは既に、死ぬべきからだをも生かす、復活の御霊を受けている人なのですから」という、「御霊の人」としての自覚を促すことばです。

「私たちは負債を負っています」とは、暗に「私たちは御霊に対して負債を負っています」という意味が込められており、それが「肉に対する負債ではない」と宣言されます。

その上で「肉に従って生きる」ということばが敢えて繰り返され、それは「死」への道であると警告されます。この背後には8章5、6節での「それは、肉に従う者たちのうちにあっては肉に属することを考え、御霊に従う者は御霊に属することを考えるからです。それは、肉の思い(考え)は死ですが、御霊の思い(考え)はいのちと平安だからです」という「肉」と「御霊」の「思い」の対比があります。

そして7章24節で言われた「死のからだ」という表現を思い起こさせるように、「御霊によって身体の行いを殺す」ことで「生きる」という原則を指し示しています。

ただし、「身体の行いを殺す」とは、何か特別な節制を実践すること以前に、自分の食欲とか性欲に促されるままに生きずに、それを節制する必要があるという当然の行いを指していると思われます。

アダムの最初の罪の根本は、「その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」(創世記3:6) という、身体から湧き上がる情欲に身を任せたものでした。

聖霊を受けている私たちは、どこかで自分の身体から自然に沸き起こる欲望に身を任せてはいけないということを自覚しているはずです。

これはたとえば、6章12、13節で「それゆえ罪(単数形)が支配してはいけません、あなたがたの死ぬべき身体を。それは情欲の中に身体を服従させないためです。またあなたがたの肢体(五体、手足)を不義の道具として罪(単数形)に献げて(贈り物にして)はいけません。むしろ自身を、死者の中から生かされた者として、神に献げなさい。またその肢体(五体、手足)を義の道具として」と記されていました。

続けて8章14、15節では、「神の御霊に導かれている人は誰でも、神の子ども(息子)です。それは、あなたがたが、再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたからではないからです。そうではなく、息子とされる(の立場を与える)を受けたのです。それによって私たちは『アバ、父』と呼びます」と記されます。

新改訳で「神の子ども」と訳されますが、16、17節でのギリシア語の「テクナ」と異なり、14、15節は「息子たち」と訳される「ヒュイオイ」という違ったことばが使われています。これはガラテヤ4章6節で「御子の御霊 (Spirit of His Son)」と記されていることを思い起こさせます。

女性信者もいる中で敢えて「息子」ということばが用いられるのは、私たちが神の子イエスと同じ立場を与えられたことを示すためです。これは、養子に迎えられた子が、血縁を超えて実子と同じ立場となるという原則に従っています。

たとえば、あなたの父親がアメリカの大統領になって、ホワイトハウスの大統領執務室でその大統領に向かって『パパ』と呼びかけられるような特権です。ただ、その大統領は、米国から敵視される国にとっては恐怖の対象ともなり得ます。

「アバ」とは当時のユダヤ人が自分の父親を呼ぶときに使った日常のアラム語です。当時の父親は家族のすべてを決める絶対的権威者でしたから「お父ちゃん」よりも「お父様」というニュアンスが強かったしょうが、ここで何よりも強調されているのは、イエスご自身が天のお父様に向かって親しく呼びかけたことばをそのまま真似て、自分をイエスと同じ立場に置いて、「アバ(パパ)」と語りかけられるという特権です。

あなたがどれほど愚かで弱かったとしても、親しみを込めて『パパ』と呼びかけられる相手が、お金持ちであるなら、少なくとも生活の不安がなくなります。

同じように、今、あなたは天地万物の創造主に向かって、「パパ、お父様」と呼びかけられることは何という特権でしょう。カナダのバンクーバーのリージェントカレッジで学んできた人に、「あなたがそこで学んだ最大のことは何ですか」と聞いたら、彼は「Sonship」と答えてくれました。それはイエスと同じ神の子の立場を与えられたという誇りを覚えながら生きるという意味です。

多くの英語訳では「子とする御霊」を「the Spirit of sonship」と訳していました。残念ながら今も、せっかくクリスチャンになりながら、恐怖心に駆り立てられるような生き方をしている人がごくたまにいます。そのような方に必要な教えこそ、「Sonship」を自覚する霊性の学びかと思います。

肉の父親に傷つけられながら生きて来た人が数多くいます。しかし、クリスチャンとされるとは、イエスを自分の兄と呼び、イエスの父なる神に向かって「パパ」と呼びかけられる関係に入れられたということに他なりません。

多くの地上の父親でさえ、自分の息子や娘のために命を捨てることができることがあります。まして、私たちのためにいのちを捨ててくださったイエスの父なる神様が、地上の父親にまさる愛を持っていないわけはありません。

2.「キリストとともに苦しむことで、ともに栄光を受ける」

8章16、17節では、「御霊ご自身が私たちの霊とともに証ししてくださいます、私たちが神の子ども(テクナ)であることを。そして、もし子どもであるなら、相続人でもあります。それは神の相続人、キリストとの共同相続人でもあります。それは、私たちが主と苦難をともにしているからですが、それは主とともに栄光を受けるためでもあります」と記されています。

ここでの「私たちが神の子どもである」とは、より一般的な表現としての「子どもたち(テクナ)」ということばが用いられますが、それを「証し」するのは、聖霊の働きであるとともに私たちの霊」の働きであるというのは興味深い表現です。

それは、私たち自身の内奥の「霊」の働きが「神の霊」によって取って代わられるというのではなく、私たち自身の内奥の意思が「神の霊」に共鳴するようなニュアンスが描かれているからです。神は、私たちの人格の根幹にある意思を尊重してくださいます。

しかも、ここでは「神の子ども」であることの意味が「神の相続人」として描かれます。これはイスラエルの民に神が約束の地を分配したことを前提に、私たちがこの世界を受け継ぐことを意味します。

土地の「相続人」の権利は、そこの収穫物を自分の物とできることですが、私たちもこの世界において固有の責任や課題が与えられており、その働きの報酬として糧を得ることができます。私には父から受け継ぐことができたはずの美しい農地がありましたが、それはすでに安値で売らざるを得ませんでした。

しかし今は、土地よりも貴重な神の民の群れを世話するという責任が与えられています。それは使徒パウロがコリント教会を「神の畑」(Ⅰコリント3:9) と呼んだのと同じです。私たちは同じように自分の「働きの場」を神から与えられた相続財産と呼ぶことができるかもしれません。

ただ多くの場合、人は神様から約束された相続財産が何であるかを目に見える形では確認できないかもしれませんが、それはキリストとの共同財産であり、「キリストとともに世界を治める」ことを意味します。

詩篇2篇8節では、神はキリストに向かって「わたしは国々をあなたへのゆずり(相続)として与える。地の果ての果てまであなたの所有として」と言われました。キリストが全世界をご自身の相続財産とすることは、私たちも共同相続人となることを意味します。

それは私たちがこの「世界」を、神から任された相続地として管理し、その収穫を喜ぶことを意味します。そして私たちはやがて実現する「新しい天と新しい地」の一部を「相続」し、キリストとともに治めます。それをイメージすることは難しいですが、とにかくそこには美しい働きの場喜びの収穫があるのです。

ただそこでは、「キリストと苦難をともにする」という前提があります。私たちはみな、キリストとともに苦しむためにクリスチャンとされました。イエスご自身が「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9:23) と言われたからです。

そればかりか「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(同14:27) とまで言われました。

「十字架を負う」とは、「これがあなたの十字架なのですね……」とねぎらいや称賛を受けられるような歩みではなく、人々から誤解され罵倒されながら、孤独に苦しみを背負う道です。

私たちは気楽に生きるためにクリスチャンになったのではなくて、キリストとともに苦しむためにクリスチャンになったということを理解していない信仰者が残念ながら多くいます。しかし、そこには逆説的な意味があります。

仏教は、人生の四苦八苦を受け入れるための哲学とも言えますが、人生には苦難がつきものです。心理学者の中にも、「問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、あらゆる精神疾患の一時的な基盤である」とさえ言う人がいます。

簡単に言うと、気楽な人生を送りたいと願いすぎる人は、かえって精神的な病いを招いて苦しむことになりかねないという意味です。私自身も証券会社での営業で苦しみながら、同じ苦しみなら、「苦しみ甲斐のある人生を選びたい」と思って牧師への道を歩み出しました。

その際、この「日々自分の十字架を負う」ことの勧めが、自分にとっての福音として響きました。私たちに求められるのは、自分の苦しみが、孤独な苦しみではなく、キリストとともに苦しむ」という意味が与えられることです。

しかもそこには、「キリストとともに栄光を受ける」という約束が伴っています。日々の目の前の苦しみを避けようとするのではなく、その苦しみをイエスさまに分かちって、その苦しみをイエス様とともに苦しむ機会とさせていただきましょう。

「キリストとの共同相続人」であるという誇りと安心は、「キリストとともに苦しむ」という実生活の中で、「キリストとともに栄光を受ける」という希望の確信から生まれるものです。

3.「被造物が切実な期待によって、神の子(息子)たちの現れを待ち望んでいる」

8章18、19節は、「私は、今の時の数々の苦しみは比較に値しない(取るに足りない)ものと見做しています、やがて私たちに現わされ(啓示され)ようとしている栄光を思ってのことですが。それは被造物が切実な期待によって、神の子(息子)たちの現れを待ち望んでいるからです」と訳すことができます。

パウロは第三の伝道旅行の最後に、コリントからこの手紙を書いていますが、それまでも何度も投獄され、また命の危険にさらされていました。彼はそのような数々の「苦しみ」を、目の前に思い描くことができた「栄光」との比較で「取るに足りないもの」と「見做して」いました。それは目の前に約束された栄光が現実的と思えたからです。

不思議なのは、被造物が切実な期待によって、神の子(息子)たちの現れを待ち望んでいるから」という理由が記されることです。これはエデンの園でアダムがすべての動物に名前を付け、それらを平和のうちに治めていた、原初の平和(シャローム)が実現することを、被造物世界が「待ち望んでいる」という意味です。

アダムが神の息子としての誇りある立場を自分で捨てたことによって、エデンの園が地上から消え去り、「大地は、あなた(アダム)のゆえにのろわれる」(創世記3:17) という悲劇が実現したからです。

そのことがさらに8章20、21節では、「それは被造物が虚無に服したのは、自分の意思からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるからです。それはまた、被造物自体も、滅びの束縛(隷属)から解放され、神の子どもたち(テクナ)の栄光の自由にあずかることになるためです」と記されます。

それは、エデンの園がこの地から失われ、大地がのろわれた結果、強い動物が弱い動物を自分の食物として生き残るという弱肉強食の状態が正され、「神の子ども」たちが「キリストとの共同相続人」となる世界を指しています。

ただ、現実の世界は「被造物が虚無に服した」状態です。ここでの「虚無」とは、伝道者の書1章2、3節で、「空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか」と言われる「空」また「空しさ」と同じ意味です。

この地上での労苦が「空しく」見えるのは、この地がアダムの罪によってのろわれた状態になったからに他なりません。しかし、そこには同時に「望み」があります。キリストの救いとはこの地の「空しさ」を最終的に無くすことですが、「天の下」の視点から見ると、キリストにあるご支配は完成に向かっていますので、いつでもどこでも希望を持つことができます。

それがイザヤ11章では、預言されたダビデの子、新しい王によって実現される世界として描かれ、そこでの「救い」が、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに付し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く(導く)……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない」(6–9節) と描かれます。

そしてその理由が(ヤハウェ) を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く」(9、10節) と説明されます。

それは全世界が創造主である神のご支配を認め、イエス・キリストが全世界の王として、この世界を平和のうちに治めるからです。私たちはその共同相続人とされています。

そして8章22、23節では、「私たちは知っています。被造物のすべては、ともにうめいています、またともに産みの苦しみをしています、今に至るまで。 そればかりか、御霊の初穂を受けている私たち自身も自分の中でうめいています、子(息子)とされる(の立場とされる)こと、すなわち私たちの身体が贖われることを待ち望みながら」と記されています。

この世界において「被造物のすべて」が、「ともにうめいている」というのは驚くべき洞察です。神によって創造された世界のすべてが、この地上の不条理に「うめいている」というのです。そこには大震災や大洪水から生まれる「うめき」もあります。この地のすべての生き物が、現在の環境破壊を「うめいている」とも言えます。

ただそれは「産みの苦しみ」でもあるというのは、そこにキリストにある救いの完成が目の前にあるからです。そして、その被造物の「うめき」に合わせて、「御霊の初穂を受けている私たち自身も自分の中でうめいている」というのは興味深い描写です。

私たちはふと、「聖霊を受けたら、平安に満ち溢れるはず」と期待したいと思いますが、御霊の初穂」を受けたしるしは、この世界にある様々な不条理や大災害に合わせて「ともにうめく」ようになることなのです。

ただそこには、私たちが目に見える形で、イエスと同じ「神の子(息子)」とされたことを体験するという救いの完成の希望が描かれています。それは、肉体から生まれる欲望や限界から自由になった、復活の身体が与えられるときでもあります。

私たちの身体が、欲望の奴隷状態から贖われることを私たちは「待ち望む」べきでしょう。

さらに8章24、25節は、「それは、望みにおいて私たちは救われたからです。目で見る望みは、望みではありません。目で見ているものを、誰が望むでしょう。しかし、まだ見ていないものを望んでいるのですから、私たちは忍耐をとおして待ち望みます」と記されています。

私たちの信仰は、「まだ見ていない世界」に向けられています。これが聖書の啓示に基づく信仰の不思議です。しかしそれはアブラハムの信仰でもありました。彼は目に見える土地も所有できないまま、また百歳になるまでイサクの誕生を見られないまま、神の約束を信じ続けました。

私たちはしばしば、期待外れの現実に直面せざるを得ませんが、私たちに与えられている「救い」とは、何よりも「望みにおいて」のものだというのです。

しかし、「望み」が変えられることこそ、現実の生活を変える最大の力になります。それはオリンピック選手が栄光を待ち望んで身体を節制できるのに勝ります。多くの生きる気力を無くす人々の問題は、「望み」を抱けなくなることではないでしょうか。

私たちは聖書の物語を読むときに、神の一つの約束が成就していったことを知ることができます。私たちはそれを読みながら、この世界が最終的に神のシャロームで満たされることを信じるのです。

多くの人は聖霊の神秘的な働きを待ち望みますが、パウロは 「御霊の初穂を受けている私たち自身も自分の中でうめいています、子(息子)の立場とされること、すなわち私たちの身体が贖われること待ち望みながら」と記しています。

自分の身体の復活を待ち望むという信仰は、ギリシア化された福音の中で忘れられがちだったのかもしれません。しかし聖書は、私たちの身体が、この欲望の隷属状態から「贖われる」ことと、全被造物が「虚無」の、「滅びの隷属」の状態から解放されることを待ち望んで、「ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」と描いています。

能登地方の痛み、タイの痛み、戦争下の苦しみ、そこにある「うめき」に共鳴しながら、「御霊の初穂を受けている私たち」は「うめき」ます。しかし同時に、そこで私たちはキリストが全世界に平和の完成をもたらしてくださることを信じて、「喜ぶ」ことができます。