当教会に与えられている恵み——リトリートの報告——エペソ書テーマ

当教会では久しぶりの一泊リトリートが開かれました。
 以前は、毎年のように開いていたものが、教会の記録を調べたら前回のリトリートは2012年7月15,16日に「高尾の森わくわくビレッジ」で開かれて以来のことでした。
 当時は、現在の会堂の土地の購入を決めた直後で、会堂の内装に関しての話し合いが持たれました。

 当時の最大の議論は、会堂に土足のまま入るか、靴を脱いで入るかということで、熱い話し合いが持たれていました。
 神がシナイ山の燃える芝の前で、モーセに「あなたの履物を脱げ。あなたの立っている場は聖なる地である」(出エジプト3:5) と語られたことの意味を解き明かしたことを覚えています。
 それ以来、僕は基本的に、礼拝メッセージをする際には「履物を脱ぐ」ようにしています。

 そして、今回は、まったくそのようなつもりで計画したわけではないですが、後継牧師を決める教会総会の前の週にリトリートが八王子大学セミナーで開かれました。
 総勢46名が集い楽し時を過ごすことができました。

 特に、二日目の朝の約三時間に及ぶ集会は感動的でした。
 第一、第二礼拝の合同賛美チームが立てられ、本当に多くの準備を積まれた上での集会となりました。
 これも期せずして、お二人の方の証しが、「発達障害」の話となり、牧師のメッセージも急遽、その話から始まることになりました。

 結論としては、「一致を作り出そう」と頑張るのではなく、それぞれの個性や偏りが大切にされながら、それぞれが信仰者として召された原点に立ち返るなら、聖霊の導きの中で、一致が生み出される……ということかと思います。

 今回のリトリートに関しては、企画段階から当日の準備まで、牧師夫妻は一切かかわっていません。本当に、外部講師で招かれた集会のように参加させていただきました。

 僕も家内も、この賛美集会は、35年間の教会の歩みの中で、最高の集会となったように感謝しています。

 子どもたちはナタナエルとサラ夫妻のリートで本当に楽しい時を過ごすことができました。
 
 またバーべキューも施設の方の万全の準備と設備に守られて、本当に楽しみ、おいしくいただくことができました。

 日曜日の夜の集会だけ参加した方々もいらっしゃいますが、集会への参加のプロセスから万全の準備がなされていて、素晴らしい交わりが持たれて、本当に充実した時となりました。

 このために労苦してくださった方々に心よりの感謝をしたいと思います。大変な準備でしたが、本当にすばらしいリトリートになったことをともに感謝します。

 二日目のメッセージですが、以下のものとは全く違うこともお話ししておりますが、みことばの解釈は変わりませんのでお読みいただければ幸いです。

 またそれは、日曜日のエペソ書のまとめのお話しの流れからの話でもあります。第二礼拝でのメッセージは からお聞きいただけます。


エペソ4章1–16節「御霊による一致を熱心に保ちなさい」

2024年9月23日

信仰に導かれたばかりの頃、人々から尊敬されることが最高の伝道になると思っていました。しかし、残念ながら、人は自分の成長を測りだしたとたん、争いを作り、人の評価が気になりだします。それが分かるのは人から非難されたときです。宗教改革者マルティン・ルターは、良い説教者の条件として、みことばを学ぶ情熱や教える能力、明晰な頭脳、良い声、常に備えができていること、また、話の切り上げ時を知るなどと語った後、最後に、「誰からでもあざけってもらうこと」と、不思議なことを言いました。人の誤解や中傷に耐えることは、キリストに近づくための最も良い訓練になるからです。主イエスは、人々の尊敬も受けられましたが、誰よりも、ののしられ、あざけられました。ただし、それはひたすら我慢することではありません。そこにおいて私たちはキリストと一体とされるという祝福の体験を味わうことができるからです。私たちの肉の祖先のアダムは、自分を神のようにしたいと願うことによって、低くされました。しかし、キリストとともにこの世で低く見られる者を、神はキリストとともに高くしてくださいます。

1.「その召しにふさわしく歩みなさい」

パウロはまずエペソの教会の信者に向かって、「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」(4:1–3) と語ります。これは多くの人々が期待するような勧めではありません。たとえば、私たちなら、「キリストに似た者へと成長できるように頑張りなさい」とか、「この世に神の平和を実現するために、自分自身をささげなさい」というような、目標を目指して日々成長するような勧めに慣れ親しんでいます。

この勧めはそれと正反対です。まず、パウロは自分を「主の囚人」として紹介します。これを前面に出すのは、自分の都合を優先した生き方の代わりに、主のために苦しむことを選択する生き方を勧める思いが背後にあります。「謙遜と柔和の限りを尽くし」というのも、「自分の尊厳を大切にし、堂々と意見を主張する」という世の理想に反します。また、「寛容を示す」も、「人の過ちを正してあげる」という教育的な配慮に欠ける恐れがあります。そして、「互いに忍び合い」という勧めにも、気遣いばかりが美徳とされる日本社会では、「もう我慢の限界です……」とでも言いたくなります。これはすべて、人の積極的、主体的な活力を抑えることばのように思え、これではこの世の競争に勝ち残ることはできません。残念ながら、多くの信仰者は、これらを文脈を無視して受け止めようとして、心に無理な負担をかけています。その結果、もやしのようなクリスチャンが多くなるのかもしれません。実は、「召し」と「御霊」という神秘を抜きにこの勧めを受け取るならば、ニーチェが批判した敗北者の道徳、負け犬の遠吠え信仰になるのです。

「召し」というとき、まずパウロの祈りを思い起こすべきでしょう。彼は、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを・・・知ることができますように」(1:18、19) と祈っています。「心の目」が開かれると、「神の召し」によって始まった信仰生活の先にある「望み」が見えてきます。私たちのこの朽ちる身体は、朽ちることのないキリストの栄光の姿と同じ霊のからだに変えられます。そして、新しい天と新しい地」において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができます。そこは、平和だけど退屈でもあるという園 (Garden) というより、いのちの活力に満ちた喜びの都市 (City) です。

ここでの勧めの第一は、「召しにふさわしく歩みなさい」です。これは、召された者としての誇りを大切に、「勝利を約束された者としての余裕」を味わいながら生きることの勧めです。パウロが囚人としての苦難を耐えられた秘訣は、キリストによる「召し」がもたらす「望み」を常に目の当たりに見ていたからです。

そして、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い」という自分を抑えた歩みができるのも、神ご自身が、あなたの兄弟姉妹をあなたと同じように、キリストの栄光の姿にまで変えてくださるという保障があるからです。特に、「愛」を勧めるときには、愛がキリストご自身から生まれ、完成に向かっているということを常に思い起こすべきでしょう。愛は、義務ではなく、目的地だからです (Love is not our duty、 but our destiny)。互いの愛の欠けが見えるのは、理想的な愛のイメージが既に示されているからです。そして、神は、そのような愛をご自身の御霊をとおして完成してくださる方です。

「御霊」の働きに関しては、パウロは先の祈りの続きで、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」を「知る」ことができるようにと祈っていましたが (1:19)、私たちは既にこの地上の生涯で、「神の全能の力」の、私たちのうちへの「働き(エネルゲイヤ)」を知ることができます。それは、キリストを死者の中からよみがえらせ、神の右の座に引き上げてくださった「神の力」の現れです。「御霊」は、キリストに起こったと同じことが私たちにも実現するということの「保障」(1:14) です。すべてのキリスト者はこの御霊を受けていますが、それを自覚していない方が多くいます。聖霊の働きを忘れた信仰生活は、義務と道徳の教えになってしまい、生きる活力のない意気消沈したものになる傾向があります。

2.「御霊の一致を熱心に保ちなさい」

3節は、厳密には、「平和のきずなによって御霊の一致を保つことに熱心でありなさい」と記されています。少なくとも「結ばれて」という動詞もなければ、「一致を作りましょう!」という勧めも記されません。この中心は人間的な努力目標を捨てて、既に与えられた恵みを「保つことに熱心」になる勧めです。先に、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において敵意を廃棄された方です」(2:14、15) とあったように、求められているのは「結ばれるように頑張る」代わりにキリストの十字架を仰ぎ見続けることです。そして「御霊の一致」とは、「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18) と記されたように、異邦人とユダヤ人がキリストにおいて一つとされたという恵みの大きさを覚えながら生きるということです。

パウロはその上で、ここで、御霊によって実現されている一致を、七回にわたる「ひとつ」ということばで表現します。それが、「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの父なる神は一つです。この方はすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられます」(4:4–6) という不思議な真理です。それは、「父なる神は一つ」という原点から生まれます。

「からだはひとつ」とは、人間的な組織を超えたキリストのからだなる教会が実際に存在するという告白です。それは異邦人とユダヤ人が一つになることができたということに現されています。それはたとえば、韓国人と日本人の間に、自然に、互いを喜ぶことができる交わりが生まれることです。「御霊は一つ・・望みは一つ」とは、異なった言語や習慣を持つ者同士が、みな「新しいエルサレム」の市民とされていることを覚え、愛の交わりの完成を待ち望むことに現れます。今は理解できなくても、そこではすべてを納得できるようになります。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」という告白のゆえに、私たちは生涯一度かぎりしかバプテスマを受けず、他の教会でのバプテスマを尊重します。そして、最後に、「すべてのものの父なる神は一つ」とは、私たちはみな、同じ方を「父」と呼んでいることの意味を思い起こすことの大切さです。英語では、続く言葉は、「who is over all and through all and in all」と簡潔に表現されます。私たちが「天のお父様!」とお呼びする方は、まさにこの世のすべてを支配しておられる方なのです。

残念ながら、人は、共通の敵を持つことによって初めて一致できるという傾向があります。しかし、「御霊の一致を保つことに熱心でありなさい」というのは、教会組織の違いを超えた一致を人間的に作り出すことではなく、御霊がひとりひとりのキリスト者になしてくださったみわざに目を留め、それをともに喜ぶことにおいて「熱心になる」ことの勧めです。たとえば私自身は、ルターばかりか、カトリック教徒のマザー・テレサ、ロシア正教徒のドストエーフスキー、異言で祈るゴードン・フィー、英国国教会の N.T. Wright、ブラザレンのジム・フーストンなどから本当に多くのことを学んできています。それぞれがどこに所属するかではなく、一人ひとりになされる神のみわざに目を向けるときに、私たちはそれぞれの背景を超えて、御霊のみわざの一致を見ることができます。人が自分の能力で達成したものばかりに目を向けるとき、競争やねたみが生まれる傾向があります。既に与えられている恵み、キリストがご自身の十字架で実現し、また、御霊がひとりひとりのうちになしてくださったみわざに目が向かうときに、私たちは、「一致を生み出そう!」などと意識しなくても、「既に一つである」ことを互いに喜ぶことができるようになります。

3.「聖徒たちを、キリストのからだを建て上げるための、奉仕の働きのために、整える」

7節では、「一人ひとり」例外なく、「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」という事実が述べられます。また、8節では、キリストの戦勝行列が思い起こされます。キリストは復活によってサタンに勝利されたからです。キリストは私たちを戦勝行列に加わっている者として、必要な知恵と力と助け人を送ってくださいます。勝利はすでに確定しています。しかも、主は、一度、天から「地の低いところに下られた」(9節)ことによって「もろもろの天より高く上られた」(10節) というのです。つまり、私たちに与えられた賜物は、自分を誇るためではなく、自分を低くして、人に仕えるために与えられた恵みなのです。

このキリストが、「すべてのものを満たす」(10節) 方であるとは、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(1:23) との表現を思い起こさせます。キリストのみからである教会に満ちているのは、互いに自分を人よりも下において、互いに仕え合うというキリストの原理です。そのような原理で動く教会こそが、この世界すべてを治める働きをすることができるのです。私たちはキリストの教会に約束されている崇高な使命を決して忘れてはなりません。

ところで、キリストの恵みは、ひとりひとりの奉仕のための賜物ばかりではありません。11節には、「キリストご自身が……お立てになった」という具体的な教会指導者の働きのことが記されています。「使徒」や「預言者」に関しては、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており」(2:20) とあったように現代は聖書を意味すると思われます。「伝道者」とは、使徒を補佐する者として選ばれた七人のひとりのピリポ (使徒20:28) や、パウロの代理として働いたテモテ (Ⅱテモテ4:5) がそう呼ばれます。これは日本に最初に福音を伝え、教会の基礎を築くような働きを担っていた宣教師に相当するかもしれません。「牧師」の働きに関しては、パウロがエペソの長老たちへの遺言として、「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになった」(使徒20:28)と言っていますが、それに相当すると思われます。なお、「牧師また教師」とあるように、教師と牧師に間に、働きの明確な区別はなかったのかと思われます。

なお、11節の「お立てになった」とは、7節の「恵みを与えられた」と同じ動詞です。聖書が完結し、教会の基礎が築かれている現代においては、使徒も預言者も伝道者もその使命を終えているかもしれません。そして、今や、キリストから教会への最大の恵みの賜物は、地域教会に仕える牧師また教師」です。彼らの務めは、「聖徒たちを、キリストのからだを建て上げるための、奉仕の働きのために、整える」(12節) ことです。キリストのからだを建て上げる働きは、教会に集う一人ひとりの責任です。新改訳では「働きをさせ」と牧師のリーダーシップに目が向かいますが、原文では「整える」ことが強調されています。それは、「聖書は……教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため」とあるように、みことばを教えることです (Ⅱテモテ3:16、17)。ですから、牧師の責任は、奉仕を指導するというより、みことばを教えることなのです。

さらに教えることの目的が、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達するため」(13節) と記されます。先には、既に与えられている「御霊の一致を保つ」ことが求められていましたが、ここでは「信仰と神の御子に関する知識」の「一致に達するという目標が描かれます。今も昔も、様々な聖書解釈がありますが、牧師または教師に求められるのは、目新しい聖書解釈を教えることではなく、すべてのキリスト者に共通して適用できる教え、また時代を超えて守られてきた教えに聖徒たちの目を向けることです。つまり、パウロが先に、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」(3:19) と祈ったように、「知る」ことに関しては、「一致に達する」ための不断の努力が、聖書教師たちに求められているのです。その際、他の人の聖書解釈を聞こうとしない独り善がりの教師ほど危ない存在はありません。

その上で、みことばによって「整えられる」ことの目標が、ふたつのほとんど同じ表現で繰り返されます。それは、「完全なおとなになって、キリストの満ち満ちたみたけに達する」(13節) と、「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」(15節) ことです。しかも、15節での「成長」とは、一人ひとりが尊敬される人格者になるというより、キリストのからだとして「組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる」(16節) という意味です。ある人が、キリストの似姿に向かって成長しているなら、そこには、愛の交わりの成長も伴っているはずです。個人の成長と、教会としての成長は並行して進むからです。キリストのみわざは、人間的な組織作りや上からの指導によってではなく、「一つ一つの部分」である各人が、主体的に自ら進んで、与えられた賜物にしたがい「その力量にふさわしく働く」ことで達成されます。一人ひとりがユニークな者として作られていますから、人が集まれば自然のうちに「分業」について考えます。それぞれの役割と責任が明らかになっているときにチームワークがうまく機能するからです。

しかし、ここでは、ひとりの指導者が、それぞれの賜物を見極めて適材適所の配置を考えるというようなことは勧められていません。「備えられたあらゆる結び目によって」とあるように、ひとりひとりには、すでに結び目が備えられています。愛の交わりは、外から指導や強制によってではなく、ひとりひとりのユニークさが生かされる形で、ひとりひとりの主体性をもとに喜びのうちに生み出されます。組織的には極めて未熟に見えながら、不思議にひとりひとりが、その教会の中での欠けたところに目が向かい、無意識のうちに満たされるという共同体こそ、キリストのみからだである教会の神秘でしょう。ある程度の組織化は必要でしょうが、教会が機能しないのはシステムの問題だと考えることは、ひとりひとりを主体的に動かしてくださる聖霊のみわざを軽んじることになりかねません。ひとりひとりの人との距離感、働き方、テンポなどが尊重されなければ、教会奉仕は息苦しいものになってしまうことでしょう。それどころか、自分にとっての決定的な弱点と思える部分が、人との結び目としてもっとも良く機能するということがあります。だれでも皆、キリストと出会った時、自分の弱さを自覚しています。そこにおいて私たちは真剣に神との交わりを求め、また人との交わりを求めます。そのとき、身近な人の存在自体が感謝に思えてきます。

しばしば、教会が目に見える形で成長していないと思われるとき、キリストご自身が、私たちの愛の交わりを、見えないところで整えていて下さいます。問われているのは、ひとりひとりが、キリストと真実に出会い続けているかということです。しかも、人は、多くの場合、順境の時よりは、逆境を通して、キリストとの交わりを深めているのです。目に見える現実に翻弄されないように注意したいものです。教会は「からだ」として「成長」してゆきます。その際、幼い子供が不完全な人間とは呼ばれないように、問題を抱えたひ弱な教会もキリストのからだとして、聖霊の宮としての美しさに満ちているということを忘れてはなりません。欠点を見る前に主のみわざを見上げましょう!