エペソ3章14〜21節「御父の愛が内なる人を再生させる」

2024年9月22日

小生の母は、聖書はほとんど読みませんでしたが、「お前のうちに働く神の力は分かる」と言ってくれました。母が私を出産する頃、母は生きる気力を失っており、出産自体が命がけの奇跡でした。誕生した後も、一歳を過ぎた頃、高熱で扁桃腺が腫れ、医者は僕を逆さにして気道を開くため切開手術を行わざるを得ませんでした。すると何度か心臓の鼓動が止まったようですが、母の胸に抱かれるたびに心臓が動き出しました。

その神学的な意味が詩篇71篇6、7節で、「私は生まれたときから あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り出しあげた方……私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです」と描かれています。

それに続いて、キリストの十字架と復活の場面を示唆する描写が続き、それを要約するように「あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが 私を再び生き返らせ 地の深みから 再び引き上げてくださいます」と記されます (20節)。

私たちの人生には、「産みの苦しみ」があります。しかし、それは新しい歩みへの転換点になります。母も僕を産み育てることで強くなりました。

そして、イスラエルが新しくされるための「産みの苦しみ」(マタイ24:8) こそ、その真の王、イエスの十字架と復活でした。預言書のテーマはイスラエルの死と再生(復活)であると言われます。

残念ながら西洋化されたキリスト教が神秘的な力を軽視した道徳宗教化されるのは、この死と復活の物語が福音の核心から少しずつ離され、ギリシャ化され過ぎた結果かもしれません。

1.「このことのゆえに、御父の前に私の膝をかがめます」

3章14節からパウロの有名な祈りが記されますが、それは今まで彼が語ってきたことを「祈り」として表現するような意味があります。

その始まりは、「このことのゆえに、私の膝をかがめます、御父の前にと記されています。直前で彼は、「確信をもって大胆に神に近づく」(3:12) と告白しましたが、その表れとして、天地万物の創造主に向かって、「父よ」と親しく呼びかけながらひざまずくことができるというのです。

「父」という呼びかけは1章2節で、「私たちの父なる神主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」という表現で用いられました。万物の源であられる創造主なる神が、「私たちの父」と呼ばれ、イエス・キリストは、私たちにとっての「主」であると告白されました。

私たちは「父なる神」と「主イエス」のお二方から特別な「恩恵」を受け、お二方の愛の交わりの中に招かれ圧倒的な「平和(平安)」をいただけるのです。そして、その神秘が1章3~14節まで続くパウロの祈りと賛美に現わされ、神が改めて、「私たちの主イエスの……の父」と呼ばれます。

その際、その方が「ほめたたえられ(祝福され)ますように」と祈られますが、その同じ「祝福」を用いて、「神はキリストにあって、諸々の天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われます。神が「祝福されることと私たちが祝福されることがつながっているのです。

しかも、「霊的」とは「御霊に属する」という意味で、それは、神が与えてくださるものが地上の枠を超えた、創造主なる御霊に属する人知を超えた「祝福」を意味します。

そしてその内容が1章4節で「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」と説明されます。

悲惨な私の出生が、神の不思議なご計画の中にあったと分かったとき、それまで嫌っていた自分の故郷を愛おしく、美しいものと見られるようになりました。それは、自分の出生を「キリストのうちにあったと受け止められた結果です。

なお、原文では、「愛をもって」ということばが4節の終わりに記され、「御前に聖なる、傷のない者とされる」ために、「愛をもって、ご自分の子にしようとあらかじめ定めておられた」と記されています。

しかも、「ご自分の子にしようと」とは一つの単語で、神が私たちをご自分の一人子イエスと同じ「立場に置くという意味です。神は私たちをまるでご自身の御子イエスと同じように高価で尊い者として見てくださるのです。

そればかりか私たちが「神の子」とされるのは、信仰への報酬というより、すべて神のみわざです。私は神経症的な不安のせいか、自分の信仰が神の救いを受けるに値するものと自信を持てずに悩んでいましたが、ここに神ご自身が私を「御前に聖なる、傷のないものとされるために」、「世界の基が据えられる前から」「愛をもって……あらかじめ定めておられた」と記されているのを見て深い安心を覚えました。

続けて、1章7節では、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」と記されます。「贖い」とは代価が支払われて奴隷状態から解放されることを意味します。それは、イスラエルがかつてエジプトの奴隷状態から解放されたことを意味し、その後は、バビロン捕囚からの解放であり、当時はローマ帝国の剣の支配からの解放を意味していました。

実は、この世の権力者の陰には、より恐ろしい悪が存在します。私たちはそのサタンの支配から「贖い出された」のです。そのことが、2章2節では、「かつては、この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って、あなたがたは歩んでいました。それは、不従順の子らの中に今も働いている霊に従ったことです」と訳すことができます。

そこでは、「この世の時代に合わせ(流れに従い)」という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従ったものでした。サタンは天の神と地の人との間の「空中」に入り込み、神と人との関係を壊すために働き、神を信じない「不従順の子らの中に働いている霊」として、世界に悪を広めています。

この「働いている(エネルゲオー)」とは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19) という表現と対比されます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

2章3節も、「その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と訳すことができます。

つまり、悪霊に従った歩みとは、皮肉にも、自分の生きたいように生きることだというのです。最初の人間のアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けて善悪の知識の木を見たとき、「その木は……目に慕わしく……好ましかった」ものに映ったと記されています (創世記3:6)。

それは、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方を指し、そのように生きる人が、「御怒りの子」と呼ばれます。つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、極悪人というより、生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指します。

私たちは「御怒りの子」と呼ばれた状態から、イエスの貴い血によって救い出され、イエスの弟、妹としての立場を持つ「神の子とされました。

そして3章15節では、その私たちの「御父」となってくださった方に関して、「その方によって、諸々の天と地上のすべての家族が名をつけられる」と描きます。ここにはギリシャ語での言葉遊びが見られます。「御父」はパテラ、「家族」はパトリアと呼ばれますから、「家族(パトリア)」という呼び名は「御父(パテラ)」に由来すると記されているのです。

なお「家族」とは「民族」とも訳すことができますから、ユダヤ人も異邦人も、同じ父なる神のもとにあるということが意図されています。

それは2章19節でエペソの異邦人クリスチャンにパウロが、「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」と言ったことを改めて思い起こさせます。私はドイツの自由福音教会の会員となったとき、外国人から「神の家族」となったと心から感動できました。

ただ同時に、ここでは「諸々の天と地上のすべての家族」とも記されているように、そこには御使いたちさえも含まれるとも考えられます。つまり、私たちの天の「父」は、すべての被造物にとっての「父」でもあると呼ばれているのです。

当時は、父親の権威が絶対的でした。父親がすべての子に名をつけましたが、それは子どもに対する父の権威の現れでした。それは同時に、家族一人ひとりを、自分のいのちを賭けて守り通すという意思の表れでもありました。

同じように、天の父なる神は、天と地のすべての家族に対する支配権を主張すると同時に、すべての家族を守り通すという強い意志を持っておられます。

2.「聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」

16–19節までは「賜りますように」という一つの動詞に基づく祈りとして描かれます。

そこでのパウロの祈りの第一の内容は、「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがってあなたがたに力を賜りますように。その聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」(3:16) というものです。

先に彼は、「神の恵みの賜物により、また神の力の働き(エネルゲイヤ)により、福音に仕える者になりました」(3:7) と告白しましたが、その同じ「神の力」によって、「あなたがたの内なる人が強くされるように」と祈ったのです。

「働き(エネルゲイヤ)」というギリシャ語から英語の「energy」ということばが生まれます。私たちの「内なる人」の中に、創造主なる「聖霊」のエネルギーの働きがあって「強くしてくださいまうように」と祈ることができます。まさに「聖霊を通して」、不可能が可能になるということを、危機的な状況の中でこそ体験できるのです。

2章4–6節では、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました……神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」と記されていました。

神のみわざの第一は、「死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」ということです。

しかもこれが第二、第三のみわざとして、「キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天を指します。

これは天国への期待というより、私たちがキリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現しているかのように見られるのです。「永遠のいのち」とは、この復活と昇天のいのちが、今このときから始まっていることを意味します。

そして第二の祈りの内容が3章17節では、「(御父が)キリストをあなたがたの心のうちに、信仰によって、住まわせてくださいますように」と記されますが、これは先の「聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」(3:16) ということばの言い換えでもあります。御霊が住んでくださるとは、復活のキリストご自身が住んでくださることに他ならないからです。

ただ、この手紙の初めから「キリストにあって」と繰り返されたことばが、ここでは「キリストを……住まわせてくださるように」と変わっていることに注目すべきでしょう。それは、まさにキリストの御霊によって私たちがその存在の内側から変えられると期待できるからです。

しかも、ここでの「信仰によって」も、何事にも動じない自分の内側から沸き起こる確信というよりも、キリストのみわざにこころを開くという柔らかな心を指すといえましょう。すべての「信仰」は神のみわざです。

さらにその祈りの内容が、「あなたがたができますように(3:18) という動詞とともに、それが二つの不定詞の「把握する(理解する力を持つ)」、また「知る」(3:19) にかかってきます。

ですからここは、「また、愛のうちに根ざし、基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを把握する(理解する、悟る)ことができますように、そして、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように、そのようにして、あなたがたが満たされますように、神の満ち溢れる豊かさにまで」 (3:17–19) と訳すことができます。

「愛のうちに根ざし、基礎を置いている」とは明らかに、キリストの愛に浸され支えられ守られているということを意味し、前半の祈りは、「御父が、その栄光の豊かさによって……力を賜りますように」(3:16) 以降の神の愛のみわざすべてを指しながら、「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを把握することができますように」という願いだと思われます。

そして、そのことが後半の祈りで、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ること」として言い換えられます。

残念ながら、多くの人が目の前の課題の解決ばかりを祈り、「人知をはるかに超えたキリストの愛」の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを把握できますように」という祈りを忘れているような気がします。

そして、このように神の愛の広さ、深さ、高さ、深さを理解し、キリストの愛を心の底から確信することによって、「神の満ち溢れる豊かさにまで……満たされる」(3:19) というのです。

最初のアダムは神の競争者になろうとしてエデンの園から追い出されました。しかし、私たちはキリストの愛を心の底から知る結果として、愛と哀れみに満ちた神のご性質に似た者にさせていただけるのです。

ただし、この成長とは何よりも共同体としての真の神の宮が建てられることに現わされます。そのことが2章20、21節では、「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされ、そして主にある聖なる宮へと成長します。この方にあって、あなたがたもまた、ともに築き上げられ、御霊にあって、神の御住まいとなります」と記されていました。

多くの人々は、クリスチャンとしての信仰の成長を、あまりにも個人的な次元で考えがちかもしれません。しかし、目に見える成長とは、人と人とが「ともに組み合わされ……ともに築き上げられる」ことです。それは時間のかかるプロセスです。家族関係の中で深い心の傷を負ってきたという人も多いからです。

この少し前に、ヘロデ大王は、大理石を組み合わせた壮麗な神殿の拡張工事をしていました。その神殿は、「神の家」と呼ばれていましたが、パウロは全世界のキリスト者の交わり自体を指して「神の御住まい」と呼んだのです。

それは一つひとつの独立した教会組織の集合体ではなく、全世界の信仰者によって構成される唯一の目に見えない公堂の教会を指した表現です。使徒信条では、「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白されますが、「公同」とはラテン語でカトリックと呼ばれ、本来、普遍性を意味します。

しかも、当時のユダヤ人にとっての「神の満ち溢れる豊かさ」とは、モーセのときに建てられた宮が、またはソロモンの時代に建てられた宮が、栄光の雲」に満たされたような状態を指します。私たちはそのような「栄光」を全世界的なキリストの身体である教会を通して味わうことができるのです。

3.「私たちのうちに働く(エネルゲオー)御力(デュナミス)によって」

そして祈りの最後は、「どうか、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて行うことができる方に、それは私たちのうちに働く(エネルゲオ)御力によってですが、この方に栄光がありますように、教会のうちにあって、すべての世代に、とこしえからとこしえまでありますように。アーメン」(3:20、21) という頌栄でまとめられます。

ここでは、御父が、「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えた」大きな働きをしてくださる方と呼ばれながら、その神のみわざに、「私たちのうちに働く御力によって」という説明が加わっています。

このギリシャ語の「御力(デュナミス)」から「ダイナマイト」という名が生まれます。アルフレット・ノーベルはこの発明で巨万の富を手にしますが、それが軍事利用され、自分が「死の商人」と呼ばれているのを知り絶望しました。彼は孤独な性格で、独身だったため、自分の遺産を用いてノーベル賞の創設を遺言しました。彼には子がいませんでしたが、世界中の科学者に夢と希望の交わりを生み出します。

20節では、先の「神の力(デュナミス)」の「働き(エネルゲオ)」が、一人ひとりの「内なる人」の中に働くことを示しています。つまり、ダイナマイトのようなエネルギーが「内なる人」の中に働くのですが、それが「キリストのからだ」としての「教会」の交わりを生み出し、共同体として世界を変えて行くことになるのです。

パウロは3章3節で、「実に、奥義(ミステリー)が啓示によって私に知らされたのです」と記していましたが、「キリストの奥義」(3:4) には、自己保身に向かわせる「恐れ」から人を解放する力があります。

その「奥義」に関しては1章10、11節で、「それは、この方にあって、神があらかじめ喜びとされ、お立てになったもので、時が満ちて計画(オイコノミヤ)が実行されるものです。それは、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」と記されていました。

これは「キリストにある再統合 (recapitulation)」とも訳すことができる、東方教会神学の核心です。

目に見えるキリストの支配は、弱く無知な者の集まりに見える「教会(エクレシア)」を通して現わされます。なぜならそれは「キリストのからだ」そのものだからです。

その不思議な力は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを生んだ世界的な学問の中心のギリシャ人と、いかなる偶像礼拝をも拒絶した最古の信仰の民であるユダヤ人が、アブラハムに繋がる「ひとりの新しい人間として創造」されたことから生まれます (2:15)。

それは核融合にも似た爆発的な力を生み出す原因となりました。まさに「多様性を保った一致」こそ力の源泉でした。

パウロにとって「キリストの奥義」(3:4) に動かされた「働き(エネルゲイヤ)」というのは極めて具体的なことでした。彼はエルサレムの聖徒たちを助けるために、ギリシャの諸教会から献金を集めて、自らエルサレムに戻ることが神のみこころであることを「御霊によって示され」ました (使徒19:21)。

それは、ユダヤ人に憎まれている彼にとっては、いのちの危険が伴うことであり、回りの人々からは、無謀なこととして反対されました。彼はしかし、この行為が、異邦人とユダヤ人の一致を生み出すために何よりも大切なことと信じ、エルサレムで殺されることを覚悟で行きました。お金はギリシャ人とユダヤ人を結び付けたのです。

この世的な効率性の観点からは、これほど愚かな行為はありませんが、主イエス・キリストは、異邦人とユダヤ人の一致という「奥義」を、パウロに示すとともに、彼を動かして、目に見える形での一致を作り上げてくださいました。

このような行為をいのちがけで行うことができたのは、彼自身がキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」に圧倒され、御霊によって、彼の「内なる人が強く」されていたからです。

私たちの肉の誕生も、神の子としての霊的な新生も、すべての「家族(パトリア)」の源である「御父(パテラ)から始まっています。

そして、聖霊の働きは、私たちの「内なる人を強める」ことに他なりません。それは「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」ということから生まれるものです。

そして現代の神の力とは、「天からパンを降らす」という奇跡以前に、この矛盾に満ちた世で、神と人とのために働くことを可能にする「私たちのうちに働く御力」として現わされます。

キリストを死者の中からよみがえらせた方の御力は今、私たちのうちに働いているのです。キリストの復活は、あなたの「産みの苦しみ」を導く力です。