エレミヤ23章9節~25章「火のような主 (ヤハウェ) のことば」

2024年9月1日

「主 (ヤハウェ) のことば」は私たちの心にいつも「平安 (シャローム) を生み出す」というのは、偽預言者のことばです。エレミヤはエルサレムの堕落に心を痛め、主のことばを聞くことで、「私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった」と言っています。

イエスは十字架刑に向かう途上で、「イエスのことを嘆き悲しむ女たち」に向かって、「エルサレムの娘たち。わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分たちの子どもたちのために泣きなさいと、エルサレムに対する神のさばきが実現することを恐れ、そのために心から「泣く」ことを勧めました。

この不条理に満ちた世界に神のさばきが下されます。それを「恐れる」と同時に、それを通して神がこの世界を「新しく」してくださる」ことを覚えましょう。「火のような主のことば」は、私たちの心にときに混乱をもたらし、それを通して新たな希望を生み出します。

1.「だれが、主 (ヤハウェ) との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか」

23章9~22節では偽預言者の罪が指摘されます。9節では、エレミヤの内心の葛藤が、「私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。主 (ヤハウェ) と、主の聖なることばのために」と描かれます。それは、主のさばきのことばを聞き、エレミヤが一人で民全体が味わう苦難を先取りして味わっているからです。

そうなるのは、「地が姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧場は乾ききる」(23:10) と、彼らに何の悔い改めの兆候も見られないからです。民全体は極めて「のんき」な中で、エレミヤ一人が「酔いどれのように」、悩み苦しんでいます。

そして11、12節では主のことばとして、「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも……彼らの悪を見出した……それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわい……刑罰の年をもたらすか」と、一見、平穏に暮らしている彼らが、主の神殿を汚すことによっていかに危ないところに立っているかを指摘します。

主はまた「サマリヤの預言者たちの中に……ごまかしを見た」(23:13) と言われます。それは「彼らがバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた」からです。

そればかりか「エルサレムの預言者たちの中」にも、「姦通し、嘘をついて歩き、悪を行う者どもの手を強く」させるような者がおり、「彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ」(23:14) と言われます。

彼らは「預言者」という立場を自分の利得のために用いていたのでしょう。これはイエス・キリストから始まった初代教会でも起きたことで、使徒パウロは「知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じる」(Ⅰテモテ6:5) と警戒を呼び掛けています。残念ながら宗教とお金は結びつきやすいからです。

それに対し「万軍の主 (ヤハウェ) 」は「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ」(23:15) と言われます。

そして主はイスラエルの民に「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは主 (ヤハウェ) の御口からではなく、自分の心の幻を語っている」(23:16) と言われます。

残念ながらいつの時代にも、「自分の心の幻」を、主のことばと取り替える説教者がいます。彼らは、聴衆の耳に心地よいことばかりを語り、主を「侮る者に向かって」さばきを宣告すべきところを、「主 (ヤハウェ) はあなたがたに平安 (シャローム) があると告げられた」などと言います(23:17)。

そればかりか「頑なな心のままに歩むすべての者に向かって」、「あなたがたにはわざわいが来ない」などと言います。しかし、人々が心の底で聞きたいと願っていることだけを語る預言者にどんな存在意味があるというのでしょう。

23章18節では、「だれが、主 (ヤハウェ) との親しい交わり(主の会議)」に加わり、主のことばを見聞きしたか」と問われます。真の預言者は、主のことばの背景までをも知る必要があるからです。主は、何の痛みも感じずにエルサレムを滅ぼそうとしているわけではありません。

それにしても19、20節では、主の燃える怒りが「見よ。主 (ヤハウェ) のつむじ風(塵旋風)が憤りとなって出て行く。荒れ狂う暴風が悪者の頭上で荒れ狂う。主 (ヤハウェ) の怒りは、その心の御思いを行って成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟る」と描かれます。

「万軍の主 (ヤハウェ) の熱心」(Ⅱ列王19:31) とも言われるように、主は情熱に満ち溢れておられます。それは主にへりくだる者への燃える愛として表されるとともに、主の愛を軽蔑する者への激しい怒りとして表されます。

十字架こそは、罪に対する神の燃える怒りとともに、罪人に対する燃えるの表現です。そして今、主の燃える怒りは偽預言者たちに向けられ、「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに……彼らは預言している」(23:21) と怒っておられます。

そして再び、「わたしとの親しい交わり(会議)に加わっていたなら、彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪い生き方から……立ち返らせたであろうに」(23:22) と真の預言者の働きが述べられます。

みことばを語る者自身が、何よりも主 (ヤハウェ) との「親しい交わり」を築いている必要があります。

2.「わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない」

23章23、24節で主は、敢えてご自身を身近にいる偶像の神々と比較しながら、「わたしは近くにいれば、神なのか……遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか……天にも地にも、わたしは満ちているではないか」と言われます。

それは、目に見えないイスラエルの神こそが、天と地のすべてを支配しているという意味です。その上で主は当時の偽預言者の習慣を、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた」(23:25) と言われます。

そして彼らの心に隠されている思いを、「彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように、彼らはそれぞれ自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、企んでいる」(23:27) と描きます。

その上で「夢を見た預言者は夢を語るがよい」(23:28) と突き放し、最後に「しかし、わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦(または穀物)は藁(またはもみがら)と何の関りがあるだろうか」(23:28) と言われます。

麦と藁は外面的には似ていますが、藁は人の食物にはなりません。同じように「夢」は預言と似たものに見えますが、人のいのちを導くためには何の役にも立ちません。

それを受け、「わたしのことばは火のようではないか……岩を砕く金槌のようではないか」(23:29) と、主のことばには、この世のことばと決定的に異なる創造的な力があると述べます。

そして主は、「わたしは、互いにわたしのことばを盗み合う預言者たちの敵となる……自分の舌を操って、これがみことばだ、と言う預言者たちの敵となる……偽りの夢を預言する者たちの敵となる(23:31、32) と三度同じような表現を用いながら、偽預言者たちへのさばきを宣告します。

そして彼らのやり方を、「偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている」と非難します。残念ながら、これは現代の教会でも起こりえる問題でしょう。

パウロは、ベレヤの信徒たちのことを賞賛して、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。それで彼らのうちの多くの人たちが信じた」(使徒17:10–12) と描いています。

意外にも、彼らの何よりのすばらしさはパウロのことばを鵜呑みにしなかったことにあるというのです。彼らは、自分で聖書を調べ、自分で心から納得して、その結果、まわりの人々に聖書のことばを分かち合うことができました。

これを読むときに、偽預言者を見分ける責任は一般の信者自身にあるということがわかります。それはすべてのキリスト者のうちに聖霊が宿っていると記されているからです。

23章33節から40節のキーワードは、「マッサー」というヘブル語で、「宣告」とも「重荷」とも訳すことができます。主はエレミヤに、「この民、あるいは預言者か祭司が、『主 (ヤハウェ) の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら」、彼らの問いに答える代わりに、主ご自身が、「あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる』と言え」と、敢えて衝撃的な答えをするように命じておられます (23:33、別訳)。

それは、彼らがエレミヤをからかうような調子で、「主 (ヤハウェ) の宣告」ということばを使っていることへの応答でした。

そしてエレミヤは、彼らが主の「重荷」となっている理由を、彼らが「自身のことば」を、「宣告」として、「生ける神、万軍の主 (ヤハウェ) 、私たちの神のことばを曲げるからだ」と説明します (23:36)。

預言者はただ、「主 (ヤハウェ) はどう答えられたか。主 (ヤハウェ) はどう語られたか」(23:37) と言うべきなのです。しかし自分のことばを、「主 (ヤハウェ) の宣告」などとして言う者に対しては、「見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱を……与える」(23:39、40) というさばきが宣告されます。

今も、一部の過激な教会では「預言者」という立場の人がいて、礼拝中に「万軍の主 (ヤハウェ) はこう仰せられる」と、聖書に書いていないことを告げることがあるようです。

しかし、主の御名の権威を借りて人間のことばを語る者に主は誰よりも厳しいさばきを下されます。昔から、そのようなさばきにあった霊的指導者が常にいます。そのような人が出てしまうのは、多くの人々が、自分の頭で考え、悩むということを嫌って、断定口調のことばに魅力を感じるからです。

しかし、聖書には、一見、矛盾することが書いてあります。「神は、世を愛された」(ヨハネ3:16) と記した同じヨハネが、「世を愛してはなりません」(Ⅰヨハネ2:15) と記しています。「私は恐れない」と告白する詩篇作者が、至るところで自分の恐怖心を大胆に表現しています。ことばの意味を決めるのは文脈です。

そして、私たちは何よりも、主の熱い思いを知る必要があります。イスラエルへのさばきを宣告している神は、同時に、哀れみで胸を熱くしておられるからです。

3.「良いいちじくと悪いいちじく」

「バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと」(24:1) と描かれるのは、紀元前597年の第二次バビロン捕囚を指します。預言者エゼキエルもこのときに捕らえ移されます (エゼキエル1:1:2)。

そこで主(ヤハウェ)はエレミヤに、主の宮の前の「二かごのいちじく」を見せましたが、「一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないもの」でした (24:1、2)。

主はエレミヤに意外にも「わたしは、この場所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、引き抜くことはない」(24:5、6) と、苦しみの後の祝福を約束してくださいました。

その際、主ご自身が彼らの心を造りかえるという意味で、「わたしは、わたしが主 (ヤハウェ) であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである」(24:7) と約束されました。

これは神が捕囚の地でイスラエルの民を「神の民」として整え直すことを意味します。現在のユダヤ人の信仰は、この捕囚という試練を通して整えられました。神は捕囚の民に預言者エゼキエルなどを遣わして、彼らの信仰を建て直して行かれました。バビロン捕囚こそは、ユダヤ人の信仰を整えた原点であり、それによって旧約聖書も現代の形に整えられました。

そしてそれは最終的には、彼らに新しいイスラエルの王としてのイエスを送り、彼らの心を聖霊によって造り変えることをも指します。

しかし一方で、主 (ヤハウェ) は、「悪くて食べられないあの悪いいちじくのように……ユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者」を、「このようにする」というさばきを宣告されます (24:8)。

そればかりか、「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのものと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。 わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす」(24:9、10) とまで言われます。

これは先に、エレミヤがゼデキヤに、「いのちの道と死の道」(21:8) を示したことの成就と言えましょう。

4.「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り……これを飲ませよ」

25章1節の「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年、バビロンの王ネブカドネツァルの元年」とは、バビロン帝国がエジプト王国をユーフラテス川上流のカルケミッシュで打ち破って中東の覇者となった紀元前605年を指します。

エレミヤは、「ユダの王ヨシヤ(31年間の王座)の第十三年」に預言者として召され、そのときから「この二十三年間」、ユダの人々に、「絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった」と、彼らを非難します (25:3)。

そればかりか、主(ヤハウェ)は他の預言者をも「早くからたびたび遣わされた」(25:4) ということを彼らに思い起こさせます。

そして預言者たちのメッセージの核心は常に一貫して、「さあ、それぞれ悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、主 (ヤハウェ) があなたがたと先祖たちに与えた土地に、いつまでも、とこしえに住め。ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そのようにすれば、わたしも、あなたがたにわざわいを下さない」(25:5、6) というものでした。ところが彼らはそれを聞こうとせずに、主の「怒りを引き起こし」(25:7) 続けてしまいました。

現代の私たちの感覚からしたら、「悪の道から・・・立ち返る」とは、不道徳な行為や自堕落な生き方をやめることを思い浮かべますが、(ヤハウェ) が求めておられたのは何よりも、他の神々や偶像を作って拝むことをやめ、主が求める礼拝の生活に立ち返ることに他なりませんでした。

自分で自分を律することができないからこそ人は神を求めます。そして神は、そのように自分の弱さを認めてすがってくる者を決して軽蔑することなく、助けの御手を差し伸べてくださいます。しかし、偶像を拝む者は自分で自分の首を絞めてしまっているのです。

そして今、「万軍の主 (ヤハウェ)」は、神の民の敵である「バビロンの王ネブカドネツァル」を「わたしのしもべ」と呼びながら、彼によってエルサレムを「永遠の廃墟とする」と言われました (25:9)。

ただしそこで、「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」(25:11) と言いながら、突然、「七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民……を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする」(25:12) とバビロンへの復讐も約束されました。

これは紀元前538年にペルシア王キュロスがバビロンを滅ぼしたときに成就します。

確かにバビロンの王は、神のしもべとして用いられましたが、それは決して、神に愛されたという意味ではありません。ネブカドネツァルは自分の野望のために国々を滅ぼし続けていました。神が彼を用いたとは、彼にやりたいようにさせたことに過ぎません。

しかし神は、人を人とも思わない傲慢な振る舞いにさばきを下されます。そして、その期間が七十年とエレミヤに告げられていました。これは、主がモーセに、「わたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジ20:5) と警告されていたことが実現するという意味でした。

一代を二十年とすると、七十年はまさに「三代、四代」で、神の復讐の期間が限定的なことを指します。そして、紀元前605年のカルケミッシュの戦いから紀元前538年のペルシア王キュロスによるバビロン陥落で、バビロンの王の70年の支配が終わるという預言が成就したことになります。

なお主(ヤハウェ)はその際、「多くの国々と大王たち……に、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる」(25:14) と言われました。ただその方法は、「この憤りのぶどう酒の杯を……わたしが……遣わすすべての国々に……飲ませよ。彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる……彼らの間に送る剣のためである」(25:15、16) と記されます。

そしてエレミヤは、「私は主 (ヤハウェ) の御手からその杯を取り、主 (ヤハウェ) が私を遣わされたすべての国々の民に飲ませた」(25:17) と言いながら、その杯を飲む国々を、「エルサレムとユダの町々とその王たち」に始まり、「エジプトの王ファラオ……ペリシテ人の地のすべての王たち……エドム、モアブ、アンモン人に……ツロ……シドン……海のかなたにある島の王たち……北国のすべての王たち……地の面のすべての王国である。そして彼らの後でバビロンの王が飲む」と記します (25:18–26)。

そしてさらに主はエレミヤを通して、「イスラエルの神、万軍の主 (ヤハウェ) は、こう言われる。わたしがあなたがたの間に送る剣のゆえに、飲め、酔え、吐け。倒れて起き上がるな……あなたがたは必ず飲むことになる……見よ。わたしの名がつけられているこの都に対して、わたしはわざわいを下し始めているからだ。あなたがたは罰を免れようとするのか、免れることはできない」(25:27–29) と言われます。

つまり、主は、ご自身にとっての宝であるエルサレムをさばくことを契機に、すべての国々をさばかれるというのです。しかも、そのさばきとは、意外にも、諸国民が自分たちの飲みたい酒を思う存分に飲むようにさせ、彼らの気持ちを高ぶらせ、互いが互いの剣によって滅ぼしあうままにさせるということだというのです。

不思議にも、主のさばきとは、人を自分の肉の思いのままに生きさせ、自滅させるということにあるのです。

私たちのために「主 (ヤハウェ) の憤りのぶどう酒の杯」を受け、また民の牧者として「主 (ヤハウェ) の燃える怒り」(25:37) をその身に引き受けられたのがイエス・キリストでした。

主はゲッセマネの園で、「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください……わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と三度も祈られました (マタイ26:36–44)。

多くの人々は、自分の欲望のままに生きて自滅します。それは自分から主の憤りの杯を飲み干してしまうことです。しかし、イエスはこの憤りの杯の意味を熟知した上で、それを私たちの身代わりに引き受けてくださいました。

十字架は「罪から来る報酬は死です」ということのシンボルですが、同時にそこには、「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と記されます (ローマ6:23)。それは私たちがキリストの死にあずかるバプテスマを受けることによって、主の憤りの杯を飲むことを免れる者とされたからです。

十字架には、神の燃えるような怒りと、神の燃えるような愛が交差しています。私たちの悩みや葛藤、神のさばきに対する恐怖の気持ちを、すべて主イエスの十字架の前に差し出させていただきましょう。