ローマ人への手紙8章1〜11節「あなたがたは御霊のうちにあります」

2024年8月25日

ローマ人への手紙8章1-11節私訳、その他の参照聖句

私たちはつい自分の信仰を反省して、自分で自分の信仰を励ますような生き方をしてはないでしょうか?しかし、自分で自分を変えられるならイエスが十字架にかかる必要はありませんでした。自分ができないことをイエスが成し遂げ、私たちに聖霊を送ってくださいました。

信仰の原点とは、神のみわざを覚えることです。「御霊によって歩む」とは人間的な努力目標ではありません。すでに私たちのうちには聖霊が住んでおられるからです。自分の愚かさや弱さを認め、ただ自分の心を主に開いて行くことがすべての始まりです。

「主の麗しさを仰ぎ見る」(詩篇27:4) ことに心を向けましょう。そしてただ、主の救いのみわざを感謝し、それを歌い、主に賛美をささげましょう。主のみわざを歌うことに聖霊の生きた働きが始まります。

1.「今や、決して処罰はありません、キリスト・イエスのうちにある者は」

7章14、15節でパウロは一人のイスラエル人として、「私たちは律法が霊的であることを知っています。しかし、この私は肉の者です。罪によって売り渡されています。

自分のしている(生み出している)ことが私には分かりません。それは、自分が望むことを私が実行しているのではないからです。かえって、自分が憎んでいることを行っています」と自分の状態を描き、「なんとみじめな人間なのでしょう、この私は。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょう」(7:24) と告白しています。

ただ、この嘆きの直後に、「しかし、神に感謝します、私たちの主イエス・キリストをとおして。こうしてこの私は、心では神の律法に仕えています。ただ肉では、罪の律法に仕えているのです」(7:25) と記しています。

それを受けて8章では、「こういうわけで、今や、決して処罰はありません、キリスト・イエスのうちにある者には」と記されます。

新改訳で「罪に定められる」と訳されていることばは、3節終りの「神はご自分の御子の……肉のうちにあって罪を処罰されたと記される「処罰する」の名詞形です。つまり、「すでに処罰が終わったので、処罰はない」と言われているのです。

多くの英語訳では There is no condemnation と訳されています。つまり、自分が「望むことを実行できずに、憎んでいることを行っている」という「みじめ」な状態を告白して、それで自己嫌悪に陥るのではなく、かえって「処罰はない」と宣言されるのです。

これは分かりやすい表現では、「もう地獄行きを心配する必要は全くない」という意味になります。

しかも、この「今や」ということばは3章21–24節で「しかし今や、律法から離れて、神の義が現わされたのです……すなわち、神の義がイエス・キリストの真実によって(を通して、媒介として)、すべての信じる人に与えられたのです……それはすべての人が罪を犯して、神の栄光を受けるに値しなくなっているからです。それで、神の恵みによって価なしに(無償で)義と認められることになりました、それはキリスト・イエスによる贖いをとおしてのものです」と記されていたことを思い起こさせる表現です。

とにかく、「なんとみじめな人間でしょう」と告白しながら、同時に、「キリスト・イエスにあって」、「今や、決して処罰はない(罪に定められることはない)」と言い切ることができるというのは何と素晴らしいことでしょう。もう、決して」「決して」、地獄行きの恐れはないのです。

しかも、その対象とされる人々は「キリスト・イエスのうちにある者」と描かれます。確かにそれはキリストの真実を「信じる人」なのですが、「イエスのうちにある」とは私たちの信仰以前にイエスご自身から始まっていることです。

それは使徒パウロの回心に明らかです。彼はクリスチャンを異端者と思って根絶やしにすることに情熱を傾けていましたが、突然、復活のイエスに捉えられ、キリストの真実を知る者とされるのです。

私たちの信仰は、神の聖霊のみわざによって始まった者です。イエスの十字架を自分の罪のためであったと信じる人に、何の処罰の恐れもないのです。

その理由が2節で、「それは、いのちの御霊の律法(トーラー:御教え)が、キリスト・イエスのうちにあって、あなたを罪と死の律法(トーラー:御教え)から、解放したからです」と記されます。

7章23、25節で繰り返された「罪の律法」ということばが、ここでは「罪と死の律法」と記されます。これは、「聖なる神のみ教え(律法)」を守ることができなくて、自分は「死」に定められていると絶望する状態からの「解放」です。

これは5章20、21節で、「律法が入ってきたことによって、違反が増し加わりました。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れました。

それは、ちょうど罪が死において支配したのと同じように、恵みもまた(契約の真実)を通して支配するためでした。それは永遠のいのちのためで、私たちの主イエス・キリストをとおしてのことでした」と記されていたことを思い起こさせます。

私たちは今、「いのちの御霊の律法」によって罪と死の律法」から「解放」されているのです。すべては「いのち」を生み出す聖霊の働きです。

また7章では「私」の悲惨さが描かれていましたが、ここではそれに対応するように単数形で「あなたを……解放した」と記され、しかもいのちの御霊の律法」が、「罪と死の律法から解放したと描かれます。

「律法」が「悪い」のではなく、アダムの「肉」を受け継ぐ者すべてに「罪が住んでいる」(7:17、20) ために、せっかく「善いもの」が「罪と死」を生み出したのです。

それで「いのち」を生み出す「御霊」が、「律法」を「いのちと死」の支配から、「キリスト・イエスのうちにあって」、「解放した」と言われるのです。

簡単に言うと、「神の律法 (トーラー)」を黙想しながら、それを実行できない自分に絶望する代わりに、神の御霊が自分に与えられ、それによって「永遠のいのち」が保障されていることをまず感謝することが出発点となります。そこでは律法」が努力目標ではなく、少しずつでも一つ一つ実行できたという感動を生みます。

たとえばある人は、親のプレッシャーから逃げることばかりを考えていましたが、自分の人生を主にあって見なおし、証しを書いているうちに、両親への感謝の思いに満たされたと証ししておられます。「あなたの父と母を敬え……そうすれば、あなたは幸せになる」(エペソ6:2、3) が自分の体験となったのです。

2.「神はご自身の御子を罪の肉の似姿のうちに……遣わし……肉にあって罪を処罰された」

8章3節は、「それは肉をとおして弱くされ、律法には不可能になっていることに関して、神はご自身の御子を罪の肉の似姿のうちに、罪の(きよめの)ために、遣わし、肉のうちにあって罪を処罰されたからです」と記されます。これこそ、神がご自身の御子を「人の姿」で遣わされたことの意味です。

原文ではまず、「律法には不可能になっていること」と描かれますが、そうなったのは「肉のうちに……罪が住みついて」(7:17、20) いるとういう現実があるからですが、それで神の「御子」の「肉のうちにあって罪を処罰され」たというのです。

神はご自身の御子を私たちの身代わりに死刑にしたというのではなく、肉に結びつく「罪」を「処罰した」と記されています。

そして私たちがバプテスマによって主の死の似姿に接ぎ合わされているのなら、主の復活とも同じようになる」(6:5) と記されていたように、私たちは罪の支配から解放された復活のイエスに接ぎ合わされた歩みをすることができます。

それを実現させるために、神はまず「ご自身の御子」を「罪の肉の似姿のうちに……遣わして」くださいました。それは私たちの創造主である神の御子がアダムと同じ姿になることで、アダムに結びついた「罪」とご自身を結び付け、律法の「のろい」を引き受けてくださるためでした。

しかもここでの「罪のため」とはイザヤ53章10節で主のしもべが「自分のいのちを(罪の)代償のささげ物とする」という意味でした。イザヤのキリスト預言の成就がここに確認されます。

とにかく、アダムと結びつく」が処罰されたことで、キリストにつながる私たちは罪の支配から解放されたのです。

4節ではそれを受けて「それは律法の要求(正しい判決)が満たされるためです、肉に従ってではなく御霊に従って歩む私たちのうちにです」と記されます。

「要求」ということばは5章16、18節では「不義に定める(罪に定める)」との比較で「義と認められる」と訳されていました。

「肉に従ってではなく御霊に従って歩む私たち」とは、7章5、6節によればすでに実現している現実を指しています。

とにかく御霊のうちに生かされている私たちは、「律法」の基準によって有罪を宣告される恐れから解放されているのです。

それを受けて5、6節は「それは、肉に従う者たちのうちにあっては肉に属することを考え、御霊に従う者は御霊に属することを考えるからです。 それは、肉の思い(考え)は死ですが、御霊の思い(考え)はいのちと平安だからです」と記されます。

ここでは4節の「歩む」が「あっては」という存在を表すことばに変えられます。これは肉のアダムに従っている存在と、キリストに従う者との対比で、それは「考え」に表されるというのです。

「肉に属することを考える」とは、自分を神としたアダムの発想で生きることを指し、「御霊に従う者は御霊に属することを考える」とは、「しもべの姿」となったキリストの発想に倣う生き方を指します。

そして肉のアダムに従う者には「死」が定められ、「御霊の思い」からは「いのちと平安」が生まれます。

7、8節ではその理由が、「なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に服従しません、いや、そうできないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることは、不可能です」と記されます。

「肉の思い」とはアダムに倣う思いで、それは「神に敵対する」と言われます。そしてそれは「神の律法に服従しません」と言い換えられます。

ここでは7章25節での「罪の律法」に対比される「神の律法」が再び登場します。同じ「律法」なのですが、それがアダムに反抗心を起こさせたように私たちのうちに反発や絶望を生み出すのが「罪の律法」であり、私たちのうちに神のみ教えに対する喜びを起こさせ、それを実行させるのが「神の律法」と呼ばれます。

つまり、私たちがどれほど心がけを変え、神に喜ばれる生き方を全うしたいと心を入れ替えても、「肉のうちにある」というアダムの生き方に倣う者は「神を喜ばせることが、不可能です」と断定されます。

私たちはこの「不可能です」という宣言を、心の中で繰り返すべきでしょう。これは単純に、どれほど良い行いをしたいという心がけを持っても、神を喜ばさることは無理ということです。まさに「地獄への道は善意(良い心がけ)で舗装されている (The road to hell is paved with good intentions)」と言われる通りです。

自分を神としたアダムに倣う「肉の思い」は「神に敵対する」ことを覚えるべきです。

ただ、ここで、「肉に従って歩む」代わりに、「御霊に従って歩む」とは、何か私たちが達成すべき目標として描かれているのでしょうか。

また、私たちの中では、「肉の思い」と「御霊の思い」がいつも格闘していて、私たちは自分の意思で「御霊の思い」を選び取らなればならないと勧められているのでしょうか。しかしそれなら、再び、アダム以来の自分を神とした道に戻ってしまいそうです。

そうではなく、すべての始まりは、この私のためになされた神のみわざを、感謝をもって受け止めることから始まります。それはたとえば、外を散歩しながら、目の前に咲いている美しい花を観賞することに似ているとも言えましょう。

3.「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊は……あなたがたの死ぬべきからだを生かす」

8章9節は、そのような疑問に答えるように、「しかし、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにあります」という断定形から始まります。

日本語訳では「神の御霊が……住んでおられると仮定したら」というニュアンスに受け取られるかもしれませんが、原文では、あなたがたはすでに肉のうちにではなく、御霊の支配に捕らえられ御霊のうちに存在しているという霊的事実を前提とした表現になっています。

これは6章11節で「自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい(見做しなさい)」と命じられていたのと同じです。

それはまた、「だれでもキリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります」(Ⅱコリント5:17) と宣言されるのと同じことです。

そして続く文章は、「神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられます。だれかキリストの御霊を持っていないなら、その人は主のものではありません」と訳せます。

私たちは自分を「キリスト者(クリスチャン)」(使徒11:26) と定義づけますが、それは「キリストのもの」という意味です。ここでは「キリストの御霊を持っていない」者が「キリストのもの」ではあり得ないと言われているのですから、聖霊またはキリストの御霊を受けていないキリスト者はあり得ないという意味になります。

それは「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)、また「人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」(Ⅰヨハネ4:2) と記されているように、ローマ帝国で十字架になった人を救い主と呼べる人間の中には「キリストの御霊」が「住んで」おり、その人は「御霊を持っている」のです。

ここでは敢えて「神の御霊」ではなく「キリストの御霊」と呼ばれ、すべてのクリスチャンが「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20) と言えることを指しています。

しかもそれを受けて10節では、「しかし、キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだが罪をとおして死んではいても、霊が義をとおしていのちとなっています」と記されます。

これも「キリストがあなたがたのうちにおられる」ことを「前提とするなら」という意味で、これは既に実現しています。ここでは何よりも私たちのうちにおられる「キリストの御霊」が「いのち」となっていると記されます。

これは5章21節の繰り返しでもあります。アダム以来の「罪」がこの肉体を「死」に追いやるのですが、「恵みが義を通して支配し」、それが「永遠のいのち」を生み出すというのです。キリストの御霊こそは「いのち」の源だからです。

そして11節は「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊はあなたがたのうちに住んでおられるのですから、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたの死ぬべきからだを生かすことになります、あなたがたのうちに住んでおられる御霊をとおしてです」と訳すことができます。

原文の始まりは、「しかし、もし、御霊が……住んでおられるなら」とも訳されますが、これは「そうであったら良いのに」という意味の仮定法ではなく、先と同じように現実に起こっていることを前提とした条件文です。

たとえば荒野の誘惑で悪魔はイエスに、もしあなたが神の子なら」と呼びかけましたが、これはイエスがご自身を「神の子」と宣言していることを前提とした表現です。

しかもここでは「イエスを死者の中からよみがえらせた方」の「御霊」と説明されています。これは父なる神がイエスを死者の中からよみがえらせたということを前提に、それと同じことが私たちに起こることを指しています。

Ⅰコリント15章20節で、「今や、キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と記されるように、キリストの復活は、私たちすべてがやがて「死者の中からよみがえる」ことの「初穂」なのです。つまり、復活の御霊は確かに私たちのうちに「住んでいる」のです。

しかもここではそれが「あなたがたの死ぬべきからだを生かすと記されます。私たちの身体は日々、死に向かっています。それが老化現象として現れていますが、私たちのうちに住んでいる「御霊」は、そのような死に向かう身体を「生かす」というのです。

そのことを前提にパウロは、「たとえ、私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16) と宣言しています。

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」が、この私のうちに「住んで」いて、肉体的な死に向かっているこの「私」を、内側から生かし続け、「日々新たにしている」というのは何と感動的なことでしょう。

この霊的な真理が、自分に実現していることを思い起こし、それを日々感謝することこそが御霊に従う歩みです。そのような神の救いのみわざを思い起こさせる賛美を心から味わうことは何よりも有益です。

イエスは私の喜び」という三十年戦争直後の混乱に満ちたドイツで1653年に生まれた讃美歌があります。J.S.バッハは1723年にその六番までの讃美歌の間に、ローマ人への手紙8章1、2、9、10、11節の五つの節のみことばを解釈した声楽曲をはさみモテットとしましたが、これほど私たちに与えられた救いのすばらしさを確信させる曲はないとも思えるほどの曲です。これこそ最高の聖霊論の歌とも言えます。

その最初の歌詞(逐語訳)は、「イエスは私の喜び、私の心の牧場、イエスは私の誉れ(宝)。ああ、何と長く、ああ長い間、不安な気持ちの中で、あなたを慕い求めてきたことか。神の子羊、私の花婿よ。あなたにまさってこの地でこれほど慕わしい存在は私に何もありません」と歌われています。

これは混乱に満ちた目の前の現実にイエスの救いを見ることができない葛藤の中で、イエスへの憧れを歌った名曲です。

様々な課題をこなすことで心が一杯になり、イエスの救いを遠く感じること、また自分の救いを疑うようなことがあるかもしれません。しかし、私たちはこの曲でイエスの救いを、今ここで体験できます。

のような歌詞と聖句が様々なアレンジの声楽曲で歌われます(高橋訳 教会福音讃美歌422番。聖句の声楽曲が続く歌詞の意味と結びついています)。

1.会衆賛美

わが喜び わが慰め わが主イエス
この地にあり 思い焦がれ 主を求む
神の小羊 いとしの花婿 わがすべてよ

ローマ8:1節別訳声楽曲

こういうわけで、今や決してありません、決して処罰はありません、
キリスト・イエスのうちにある者には。
その人は、肉に従ってではなく、御霊によって歩んでいます

2.会衆賛美

御手のもとに やすらぐ身に 敵はなし
たとい悪魔 力尽くし 脅すとも
罪と地獄が われを脅すとも 主はわが盾

ローマ8:2声楽曲

それは、いのちを生む、いのちの御霊の律法(トーラー)が、
キリスト・イエスのうちにあって、あなたを罪と死の律法(トーラー)から
解放したからです。まさに解放したのです

3.会衆賛美

悪しき力 たけり狂い 迫るとも
われは立ちて こころ安く 主に歌う
神の御腕は 確かに伸ばされ われを包む

ローマ8:9声楽曲

しかし、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにあります。
神の御霊は、確かに、あなたがたの住んでおられます。
だれかキリストの御霊を持っていないなら、
その者は主のものではありません。
キリストの御霊を持たないキリスト者はいないのですから

4.会衆賛美

別れ告げよ 世の誉れや 世の栄え
主イエスこそは 永遠(とわ)に朽ちぬ わが誉れ
恥も悩みも われを主イエスより 引き離さじ

ローマ8:10、11声楽曲

しかし、キリストがあなたがたのうちにおられるなら、
からだが罪をとおして死んではいても、
霊が義をとおしていのちとなっています。
霊がいのちとなっています。
今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊は
あなたがたのうちに住んでおられるのです

5.会衆賛美

永遠(とわ)に眠れ 世のいざない 世の力
イエスを死より 復活させた 主の御霊
わが内に住み 死ぬべきこの身も 生かしたもう

ローマ8:11声楽曲

それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、
あなたがたの死ぬべき からだを生かすことになります、
あなたがたのうちに住んでおられる御霊をとおして、
あなたがたのうちに住んでおられる御霊をとおしてです

6.会衆賛美

去れ!悲しみ 喜びの主 イエス来ます
主を思えば 苦しみにも 安きあり
わが苦しみを ともに担う主は わが喜び