人生の問いに答える 「善き力にわれ囲まれ」〜申命記6章4、5節

 昨日、NHK「心の時代ービクトール・フランクル 第5話」の録画を見ました。一回60分の番組ですが、それを10分に縮めた です。

 人生を振り返ってみると、「あのとき死んでても不思議ではなかった」ということがあります。ドイツの制限時速のない高速道路で時速160キロ以上のスピードでBMWを走らせていたことを振り返りながら、あのとき本当に「ひやり」としたということもあります。
 僕の母は、僕の幼児期を様々な危機を振り返りながら、「おまえを生かしてくださっている方がいる」と直感的に感じたと言ってくれました。

 番組では、それを「究極の意味」によって生かされていると訳していますが、ドイツ語では Der letzte Sinn(究極の『意思』)とも訳されることばです。

 フランクルは心理学者として語っていますから、「創造主によって生かされている」という代わりに、そのような曖昧な表現を使っています。
 彼はナチスドイツの支配の中で、四つの絶滅収容所を生き延びましたが、それは本当に様々な不思議の連続だったと言います。それを振り返りながら、自分は何らかの使命を果たすために生かされていると、心の底から信じました。

 そして、そのように「信じる」とは、何かの客観的な真実を信じるというよりも、そのように「信じる」ことによって、真実を生み出すという意思だと言います。
 ドイツ語の Sinn は「意味」とも「意思」とも訳し得ることばです。それは創造主の意思によって生かされていると信じることによって、自分の人生を真実なものにするという私たちの心の働きであります。

 フランクルは、アウシュビッツ強制収容所で、それまで上着に縫い付けていた自分にとって宝と思える「ロゴセラピー」の研究論文を奪い取られます。
  その後、ガス室に送られて殺された他のユダヤ人の古ぼけた上着をあてがわれます。不思議に、そのポケットに、聖書の核心と言われるみことばを書いた紙が入っていました。
 イエスご自身も聖書の核心と呼んだ申命記6章4、5節のことばです。

聞け、イスラエルよ。主 (ヤハウェ) は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい。

 フランクルはしばらくそのみことばを思い巡らしている中で、自分の収容所体験は、創造主によって与えられた「卒業試験」だと示されました。
 自分が考えて来た「人生の意味の心理学(ロゴセラピー)」が、究極の無意味と思われる世界で真に意味を持ち得るかを実験するために、生かされていると感じました。ドイツ語の Sinn には「知覚」という意味もあります。

 彼は心の底から、「究極の意思」と呼ばれる方から、生きる意味を「知覚」するように問われていると感じたのです。
 私たちの人生を訪れる様々な危機的な状況は、「それでもあなたは創造主に信頼するか」と問われる機会でもあります。
 その一瞬一瞬の応答が、生きる意味を生み出します。

最近の私たちの礼拝では、「善き力にわれ囲まれ」という賛美を歌っています。その二番目の歌詞は、次のような歌詞です

たとい、主から差し出される 杯は苦くても、
恐れず感謝を込めて、愛する主から受けよう 
輝かせよ 主のともしびわれらの闇の中に、
望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう
善き力に守られつつ 来るべきときを待とう
夜も朝も神は われらとともにいます

 この原歌詞は、ナチスドイツと戦って殉教した神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーが絞首刑にされる直前に書いた詩に由来します。
 これに新しいメロディーガつけられて、今ドイツ語圏の教会で、ボンヘッファーの最後の讃美歌として愛され、歌われています。
 これはまさに、フランクルが語った「究極の意思」によって生かされ、たとい、人生の死に向かう時も、復活の希望に生かされ続ける幸いを歌ったものと言えましょう。
 以下で作曲者自身の歌をお聞きいただけます

以下はドイツ在住のソプラノ歌手工藤篤子先生の解説と歌です