パリでのオリンピックが様々な感動と共に終わりました。
個人的に、一番うれしかったのは、僕の母校の旭川東高校出身の北口榛花選手がやり投げで金メダルを取ったことでした。
この高校は北海道で指折りの進学校で、多くの生徒たちは日々大学受験を意識して生活しています。ただ、勉強の指導も、進路指導も生活指導もまったくなく、すべてが生徒の自主性に任されています。僕も高校時代は天文部の部長などをしてましたが、部活にも勉強にも何の指導を受けた覚えがありません。(50年前の話ですが、今もその基本は変わっていないと思います)。
榛花さんは高校に入って初めて、陸上競技の投てき競技への参加に招かれ、やり投げですぐに注目を集めるようになります。お母様がバスケットボールの選手で、小さい頃から水泳やバドミントンで基礎体力がつけられていたからと言われています。
彼女は大学に進み、けがや挫折を通して、自分からやり投げ強国のチェコの指導者の指導を求め、一人でチェコのやり投げ訓練の世界に飛び込みます。
そこで、やり投げの成否の7割は助走にあると習い、やり投げの技術以上に基礎体力の増進に力を傾けます。
今回の金メダルはチェコ国民にも大きな喜びになっています。
今回、話題になったのは、競技の間にあのオリンピック競技場で、腹ばいになってリラックスをして嬉しそうにカステラを食べるシーンでした。お父様はパテシエだというのにセブンイレブンのカステラを買って来てもらっていたようです。
それともう一つそれ以上に国際的に話題になったのはウクライナの走り高跳びの選手ヤロスラワ・マフチフさんが、競技の間に、みんなが注目する中で、自分が持参した寝袋の中に入り を取っていたことでした。
これは「眠れる森の美女」として話題になっていました。そして彼女も、金メダルを取得しました。
二人の女性とも、みんなが注目する競技場のただ中で、自分の身体から発せられる声なき声にすなおに耳を傾け、最善の準備をしていたということです。
「人はみな、生まれた時にはオリジナル作品だが、死ぬときにはコピー品になっている」ということわざがあるようです。
世の中の慣習とか、人々の期待に沿った生き方を訓練させられる中で、徐々に、本来与えられていたユニークさが削ぎ落されて行くという人生の悲しみです。
私たち一人ひとりも、創造主の最高傑作として生みだされてきました。ただ、多くの人は、自分の生かされ方を知りません。この世的な基準で自分をはかり、自分の身体の生かし方、その身体から発せられる声なき声に耳を傾けることができていません。
詩篇139篇16–18節には次のように記されています(私訳)
あなたの目は胎児の私を見られ
あなたの書に すべてが記されました。
私のために作られた日々が
その一日も始まらないうちから。
あなたの御思い(意図)は なんと貴いことでしょう 神よ。
その総計は なんと多いことでしょう。
それを数えようとしても 砂よりも多いのです。
目覚めのときも 私はなおも あなたとともにいます。
これは私たちが胎児として母の胎内にいるときから、驚くほど多様な可能性が既に備えられているということばです。
しかし、多くの場合、この世の基準で自分をはかり、そこに秘められていた可能性を、自分で閉じてしまっています。
北口榛花さんの可能性を見てくれた高校のコーチが、彼女にやり投げを勧めてくれたところから、今回の金メダルへの道が開かれていました。
私たちも自分自身に関して、また身近にいる子どもたちに対して、それぞれの中にありとあらゆる可能性を見ることが求められています。
しかも、そこで自分に秘められた可能性を開くカギは、自分の身体の声にすなおに耳を傾けることから始まっています。
その際、周囲の視線に目が向かいすぎることは、そのユニークさを失わせる契機になり得ます。
私たちは、自分の創造主を知ることによって、世の人々の期待ではなく、神の期待に気づくことができます。
クリスチャンとしての成長を、「神が造られた最高の私になる」と表現した神学者がいます。
そのような成長をともに目指すことができれば幸いです。