ローマ人への手紙7章13〜25節「自分の惨めさを認める中から生まれる感謝」

2024年8月11日

ローマ人への手紙7章7–25節私訳、その他の聖句

「地獄への道は善意(良い心がけ)で舗装されている (The road to hell is paved with good intentions)」ということわざがあります。

様々な解釈がありますが、良い教えを聞いて、それを実行しようと頑張りながら、何度も失敗したあげく、自分に徹底的に失望し、自暴自棄になってしまう現実を指していると思われます。

この世界には、ありとあらゆる方法論 (How to) が満ちています。それは目の前の問題の解決に役に立つ場合が多くありますが、自分の人生の根本的な問題、「何のために生きるのか、あなたの人生のゴールは何なのか」というような問いかけには答えることができません。死を前に人間の知恵は無力なのです。

それにしても、パウロの回心ほど不思議なものはありません。彼は自分の生き方に悩んでイエスに出会ったのではなく、「主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き」、「ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし……『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いて」、イエスを救い主と認めたと描かれているからです (使徒9:1–4)。

彼はアウグスティヌスのように放蕩していたわけでも、ルターのように神のさばきを恐れていたわけでもありません。彼は律法を守ることに情熱をかける生粋のパリサイ人だったのです。しかも、「律法による義については非難されるところがない者でした」(ピリピ3:6) と自分の正義を誇っていたような者でした。

その彼がこのローマ人への手紙7章24節で「私は本当にみじめな人間です」と告白しているのは、何とも不思議です。ただそこには、個人的な悲惨さの響きというよりも、聖なる律法が罪と死を結果的に生み出すという論理が描かれます。

これはパウロ個人を描いたというよりは、律法を受けたイスラエルの民を「私」という代名詞で描いているとも解釈できるように思います。

1.「自分のしている(生み出している)ことが私には分かりません」

7章9–12節では「この私は律法なしにかつては生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返りました。

そして、この私は死にました。それで私は発見しました、いのちに至る戒め、それが死に至らしめると。 罪は戒めを通して機会を捕らえ、私を欺きました。そして、それを通して殺したのです。

ですから律法は聖なるものです。戒めも聖なるものであり、正しく、また善いものです」と記されていました。

これは、律法(トーラー)を神からの最高の贈り物と理解しているユダヤ人たちに寄り添いながら、律法が人の心の中に罪意識を目覚めさせ、人を死に至らしめたという旧約時代の限界を語ったことばと言えましょう。

それを前提に7章13節では、「それではこの善いものが、私に死をもたらしたというのでしょうか?決してそうではありません。むしろ罪がそれ(死)をもたらしたのです。

それはこの善いものをとおして私に死を生み出すことによって、罪が明らかにされるためでした。それは、罪が戒めを通して限りなく罪深いものになるためでした」と記されます。

これは、エデンの園では、「善悪の知識の木からは、食べてはならない」(創世記2:17) という戒め」が与えられたことによってアダムに死がもたらされたと見える現実を前に、神からの最高の賜物である「律法」が人間に罪を実現したとも解釈できるからです。

それでパウロはここでまず、律法が死をもたらしたのではなく、「罪」が「戒め」を通して機会を捕らえ、アダムを欺き、彼に死をもたらしたのだと振り返ります。

その上で、「罪」がイスラエルの一部である「私」に「死を生み出す」ことによって、「罪」の存在が「明らかにされ」、「罪」が「限りなく罪深いもの」とされたという論理を展開しています。つまり、アダムの最初の「」が、イスラエルの一部である自分をも支配していると語っているのです。

7章14、15節では、「それは私たちが、律法が霊的であることを知っているからです。しかし、この私は肉の者です。罪によって売り渡されています。

自分のしている(生み出している)ことが私には分かりません。それは、自分が望むことを私が実行しているのではないからです。かえって、自分が憎んでいることを行っています」と記されています。

14節は言語的には「霊的」「肉的」という対比が描かれているようにも思えますが、それは多くの人が考えるような対比ではありません。パウロはここで「律法は聖なるもの」であると同じような意味で「霊的」と呼んでいますが、「私」はアダムの子孫としての」に属する者であると語っているに過ぎません。

原語のサルキノスはコリント第一の手紙3章1節、3節、Ⅱコリント3章3節、10章4節にも用いられますが、それらはすべて「肉的」というよりも肉に属するという意味があります。

少なくともパウロが自分を現在形で「私は肉的な者です」と描いているとは考えられません。なぜなら彼は回心前の自分を「律法による義については非難されるところがない者でした」(ピリピ3:6) と描いていたからです。

ですから、ここでの「私」を「回心前のパウロか、回心後のパウロか」などと論じ合う以前に、イスラエルの一人としての「私」、またアダムの子孫としての「私」を指していると理解した方が良いように思います。

「罪によって売り渡されている」とは、アダムの子孫すべてに当てはまることです。

また「自分が望むことを私が実行しているのではない……自分が憎んでいることを行っている」とは、2章17–24節でイスラエルの現実が「律法から教えられて……他人を教えながら、自分自身を教えない……盗むなと説きながら、自分は盗む……姦淫するなと言いながら、自分は姦淫する……偶像を忌み嫌いながら……神を侮っている」と描かれていましたが、それらすべてが「肉によるイスラエル」の現実であると述べているとも解釈できましょう。

7章16、17節でパウロは、「もし自分の望んではいないことを行うのであれば、私は律法を良いものと認めていることになります。ですから、今それを生み出しているのは、もはや私ではありません。そうではなく私のうちに住みついている罪なのです」と描きます。

何度も繰り返しているようにローマ書では基本的に」が単数形の人格的な存在として描かれています。これはアダム以来のすべての人の現実を指していると言えましょう。

皮肉にも、私たちが罪の奴隷」の状態にあることは、自分の罪を否定して、それを神と隣人の責任にすることに表されています。

アダムは禁断の木の実を食べた後、神から「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか?」と質問されただけで、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と、言い逃れをしました (創世記3:11、12)。

今や、アダムの子孫のすべてが基本的に、悪いと分かっていることを行いながら、その責任を自分の創造主や親や環境のせいにし、「私をこんな弱い者にした責任は誰にあるのか?」などと、自分を正当化します。それは幼い子から、あなたの伴侶や友人にいたるまですべてに当てはまります。

そして、そのように人を非難する人に対してパウロは、「あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです」(2:1) と非難しています。

ですから「私のうちに住みついている罪」とは、何か特別な悪を行うという以前に、日々の家庭生活や職場の中に見られる現実を指しています。人を非難する人は、何が善であるかの基準を持っていることを証ししていますが、その基準を自分に当てはめるだけで、自分の中に自分を正当化する「罪」があることに気づきます。

なおパウロはこれを、律法を持っていること自体を誇っているイスラエルに対して語っているのです。

2.「それを生み出しているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住みついている罪です」

7章18、19節ではそれをさらに深めるかたちで、「それは私が知っているからです、自分のうちに、すなわち私の肉のうちに、善が住んでいないことを。

私の中にはそれ(善)を望む思いがいつもあるのに、その良いことを生み出すことがないからです。

それは、望んでいる善を行なわないからです。かえって、望んではいない悪を実行しているからです」と記されています。

ここに記されているのは、自分を責める自己嫌悪でも、自分の無力さを嘆く無力感でもなく、アダムの子孫としてのすべての人間の中にある現実を冷静に分析したことばと言えましょう。

アダムの子孫の肉のうちに善が住んでいないからこそ、神はイスラエルを選んでご自身の「善」の基準である「律法(トーラー)」を与えてくださいました。イスラエルはその律法を喜んで、それを実行したいと「望んでいる」にも関わらず、それを「生み出す」ことができません。

そのことがさらに「望んでいる善を行わない」と言い換えられ、さらに「望んではいない悪を実行している」と述べています。

ここにはイスラエルの歴史の要約が記されているとも言えます。モーセがシナイ山で、「主 (ヤハウェ) のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた」ときのことが、「すると、民はみな声を一つにして答えた。『主 (ヤハウェ) の言われたことはすべて行います』と描かれていました (出エジプト24:3)。

さらにモーセが「契約の書を取り、民に読んで聞かせた」ときのことが、「彼らは言った。『主 (ヤハウェ) の言われたことはすべて行います。聞き従います』」と描かれていました (同24:7)。

ところがその直後、イスラエルの民が行った、神の怒りを買う行動が、「モーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。『さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから』」と描かれていました (同32:1)。

そこで彼らは「金の子牛」を作って「座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と描かれ、それを見た神は「わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼす」と言われました (同32:6、9)。

このとき神はモーセの必死に執り成しの祈りを聞いて「わざわいを思い直された」と描かれますが (同32:14)、イスラエルの民はこの後も同じように神を怒らせ続けました。そして、最後は、神がバビロン帝国を用いてエルサレム神殿を破壊するまでに至ります。

その歴史を見て預言者エレミヤは神が「新しい契約」を与えることに関し、「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った……これらの後の日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである……わたしはわたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と描かれていました (エレミヤ31:32、33)。

つまり、シナイ契約はイスラエルの民に「石の板」を通して与えられたのに対して、「新しい契約」は「生ける神の御霊によって、石の板にではなく、人の心の板に書き記されたと描かれています (Ⅱコリント3:3)。

ですから、パウロは自分の心を描写したというよりは、イスラエルの民の歴史を語り、「聖なる」「霊的」な律法」が機能しなかった現実を語っていると言えましょう。

その上でパウロは7章20節で、「しかし、もし私が自分の望んではいないことを行うのであれば、それを生み出しているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住みついている罪です」と述べます。

これは16、17節のことばをさらに繰り返した表現です。この背後には5章12節での「ですから、ちょうど一人の人を通して罪が世界に入り、罪を通して死が入ったのと同じように、死がすべての人に広がったのです、それに基づいてすべてが罪を犯すことになりましたということばがあります。アダムを通して「罪」が世界に入るとともに、すべての人が「死」と「罪」の支配下に置かれました。

また3章23、24節では、「すべての人が罪を犯して、神の栄光を受けるに値しなくなっている……それで、神の恵みによって価なしに(無償で)義と認められることになりました、それはキリスト・イエスによる贖いを通してのものです」と記されていたように、イスラエルの民を含むすべての人」が、「キリスト・イエスによる贖い」なしには、「義と認められる」ことはないという宣言に結びつきます。

簡単に言えば、パウロを含めたすべてのイスラエルの民が、律法を喜びながら、律法にかなった生き方ができない理由は、人間のあらゆる意思の力を超えた「私たちのうちに住みついている罪」の力に勝つことができないことにあるというのです。

人がどれほどのすばらしい教育を受け、自分を律するためのあらゆる訓練を受けたとしても、罪の奴隷(6:17) 状態から解放されることはないというのです。ですから、責められるべきはイスラエルである前に、アダムの最初の罪と言えましょう。

パウロは、このような論理によって、問題の解決のためには、「善い教え」を身に着ける前に、キリストの前にへりくだり、「キリストによる贖い」を受け入れ、その贖いを感謝して受け止めるしかないと言えましょう。

つまりパウロは、彼自身の体験を語るというよりは、私たちのうちには大きな罪の力が住みついていること、それを自分の力ではどうしようもない現実を認めるようにという神学的な視点を述べているのです。

3.「なんとみじめな人間なのでしょう、この私は」

7章21節は、「それで、律法に関して、これを私は発見します、良いことをしようと望んでいる私にとって、悪が私の身近にあるということを」と訳すことができます。

新改訳で「原理」、協会共同訳で「法則」と訳されていることばは、それぞれの脚注に明記されているように本来、「律法」と訳されるべきことばです。しかもここは定冠詞付きの「その律法」とも訳せることばで、7章全体での「律法」に関してのまとめのような意味が描かれていると思われます。

その内容が、「良いことをしようと望んでいる私にとって、悪が私の身近にあるということを」と描かれますが、これは7章7、8節で、「私は欲情(欲望)を知らなかったことでしょう、もし律法が、『欲してはならない』と言ったのでなかったとしたなら。

しかし、罪は戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆる欲望を生み出しました。律法がなければ、罪は死んでいます」と言われたことを思い起こさせます。

これは、欲してはならない』という律法が、私の中にあらゆる欲望(欲情)を生み出したということです。

その結果が10節で、「それで私は発見しました、いのちに至る戒め、それが死に至らしめると」という皮肉として描かれていました。

21節の「発見」と10節の「発見」は同じことばです。つまり、いのち」を生み出すはずの「律法」が、自分の中にある「欲望」を目覚めさせ、自分を死に追いやるというのです。

アダムの長男のカインがアベルのささげ物が神に受け入れられていることを知ったときに、激しく怒りました。そのとき神はカインに「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない」と言いました (創世記4:7)。

私たちの場合も同じように、律法が罪を目覚めさせるため、その罪が私の身近にいてささやきかけ続けているのです。つまり、神の最高の贈り物である律法が与えられたことで、かえって罪の力が恐ろしいほどに身近な現実として迫ってきているというのです。

そのことが7章22、23節で、「それは律法を私は喜んでいるからです、内なる人としては。

しかし私のからだの中には別の律法があるのを見ています、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私のからだの中に存在している罪の律法の虜にしているのです」と記されています。

ここでの「別の律法」とは7章5節で「私たちが肉の中にあったときは、数々の罪の欲情が、律法を通して私たちの肢体(五体)のうちに働くことで、死のために実を結びました」と記されていたような、人を絶望に追いやるような「律法」を指します。

ここでは、律法を心から喜んでいる自分と、律法によってかえって「罪の奴隷」になっている自分を知ることの葛藤が描かれています。

そのことがさらに24節では、「なんとみじめな人間なのでしょう、この私は。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょう」と告白されます。

これは、自分がアダムの子孫として、律法によって死を宣告されている惨めさを指します。そこには、自分の意思や訓練で自分をその罪の奴隷状態から解放することができない「みじめな人間」としての現実が描かれています。

ただ、この嘆きの直後に、「しかし、神に感謝します、私たちの主イエス・キリストを通して。こうしてこの私は、心では神の律法に仕えています。ただ肉では、罪の律法に仕えているのです」(7:25) と記されます。

これは、自分が人間的な努力では救いようのない状態にあると告白したとたんに、神がイエス・キリストを通してなしてくださったみわざに目が開かれているからです。

ただそれと同時に、自分の置かれている状態が「心では神の律法に仕え」「肉では罪の律法に仕える」という分裂の状態にあることを告白して、8章につなげようとしています。

それが8章3節で「肉によって弱くなったため、律法にはできなくなったことを、神はしてくださいました」という告白です。律法にはできなくなったことを神はしてくださったのです。

パウロは、Ⅰコリント15章56、57節でも、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と、律法が罪の力を刺激して、私たちを死に追いやるという現実を描写しますが、その直後に、「しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」という神への賛美へと導いています。

その上で、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(同15:58) という日々の働きへの励ましが述べられます。罪よりも目の前の課題を見るべきなのです。

パウロは不思議にも、「なんとみじめな人間なのでしょう、この私は」と告白した後、すぐに、「しかし、神に感謝します」という賛美が生まれています。それは自分のみじめさを嘆くというよりも、人間にはどれほど努力してもできなかったことを、神が可能にしてくださったという、救いの教理が記されています。

実は、これはパウロの個人的な葛藤を描いたというよりも、イスラエルはどれほどすばらしい律法をいただいていても、それが罪によって歪められ、いのちの実を結ばないという必然的な帰結が記されているに過ぎません。

ですから、これは淡々と、アダムの子孫は、どれほどすばらしい律法を受けても、それがかえって悲惨を招くという現実を描いていることに他なりません。私たちの場合も、それほど良い教えや効果的に見えるアドバイスを受けても、それによって自分を変えることはできません。必要なのは私たちの弱さのうちに働く聖霊のみわざを知ることです。

後にパウロは、「肉体に一つのとげを与えられ」、それを取り去って欲しいと彼が心から願ったとき、主から「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました (Ⅱコリント12:7、9)。

それを聞いてパウロは、「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と記しています (同12:9)。私たちに求められるのは、自分の罪深さを卑下することではなく、キリストにある救いを喜ぶことなのです。

なお、「罪」と「弱さ」は区別が必要ですが、たとえば敏感気質という「弱さ」が攻撃的な言動を生むことがあり、また「空気を読めない」という弱さが、自己中心な行動を引き起こすことがあります。

すべての人が抱える固有の「弱さ」は「罪」を治める力を弱めます。しかし、自分の弱さを正直に認めるときに、その弱さが人の弱さを理解する窓になり得えます。そこでこそ、「弱さのうちに現れる神の力」を体験する契機となります。