米国の悲劇——対立を超えて〜創世記3章5節

 先日の日曜日、米国で恐ろしいことが起きました。共和党の大統領候補のトランプ氏が、暗殺されそうになりました。
 耳をぶち抜かれていますから、ほんの数センチずれていたら確実に死んでたことでしょう。
 すべてが神の御手の中にあるという意味では、全能の主の守りの中で生かされたと考えることもできましょう。

 ただ、日本の報道では、これでトランプ氏の有利が確定した?というような、その後の情勢に焦点があたってしまうのが、極めて残念です。
 好き嫌いは別として、米国の二大政党の一つから大統領候補にされている方です。その方を全面否定するということは、それを支持する方々を「愚か者」と呼ぶに等しいことです。

 確かに米国の大統領が誰になるのかは、世界情勢に大きな影響を持ちます。まさに多くの人々の命がかかっている選挙です。
 ですから、政策論争はとってもとっても大切です。

そのような中で、一週間前の英国の議会で、前スナク首相が、新しい首相と新しい議長にエールを送っている議会演説の 動画を、友人から紹介されました。

早口で難しい単語が出て来るので、理解が難しいですが、ニュアンスを感じていただければ幸いです。

 スナク前首相は、過去六週間の政策論争を振り返り、その意見の違いの大きさを認めながらも、新しい首相を心から尊敬していると語り、何よりも、有権者の意思で新しい内閣が生まれていることを尊敬を持って受け止め、良い働きができるようにと心からのエールを送っています。
 また新しい議長に対しても、聖書のヨブの忍耐とソロモンの知恵が求められるのは当然と言いながら、公平な議会運営を期待する旨を語っています。
 自分のせいで多くの同僚議員が議席を失ったことを謝罪しながらも、その背後にある国民の意思を謙遜に受け止めるように議員たちに訴えています。
 しかも、それらの中に数多くのユーモアが入って、対立政党の方々もそのスピーチに賛同を表明しています。
 さすが議会制民主主義の母国の伝統があると感心しました。

 一方、米国のバイデン大統領にしてもトランプ前大統領にしても、政策論争以前に、相手への人格攻撃を含めた、あまりにも幼稚な非難ばかりが目立ちます。
 本当に残念なことになっています。相手への憎しみを正当化するような議論に、どうしてみんなが耳を貸し、応援するのでしょうか。
 どちら側も、あまりにも品位を欠いていると言わざるを得ない言動が見られます。
 ただ、これは日本の問題でもありますが……

 聖書では、人間の最初の罪は、禁断の木の実を取って食べたこととして描かれますが、それを食べたくさせた蛇の誘惑が、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知るようになることを、神は知っているのです」ということばでした (創世記3章5節)。
 ですから、人間の堕落とは、自分を神のようにして、自分の善悪の基準を世界の基準としようとする傲慢さにあります。
 つまり、聖書が描く「堕落」とは、「落ちる」ことよりも、「自分を神のように引き上げ、自分の価値観を絶対化して、相手を見下すこと」なのです。
 どうして、米国のように多くの方々が聖書を読んでいるはずの国で、そのように、自分を神として相手を見下すような議論がなされるのか、本当に残念に思います。
 
 今回の悲劇を、不幸中の幸いとして、互いへの攻撃をもっとトーンダウンして、互いに対する尊敬のことばをほんの少しだけでも表明するような議論がなされることを期待しています。