ローマ人への手紙を表面的に読むと、「律法」が否定的に理解されることがあります。しかし「律法は聖なるもの」また、私たちを真の意味で「生かす」、愛の教えです。
もともと律法の原語は「トーラー(御教え)」であり、それは私たちを「いのちに導く」ものでした。それが私たちに死をもたらしたのは、「善悪の知識の木」が私たちに「死」をもたらしたのと同じです。
悪いのは律法ではなく「罪」です。罪こそが神の創造に対する最大の反対勢力です。律法に欠けがあるのではなく、罪が最高の愛の教えを台無しにする人格的な力として描かれています。
しかし聖霊が私たちに与えられたので、罪に勝利することができます。
1.「私の兄弟たちよ、あなたがたは律法に対して死んでいるのです、キリストのからだを通して」
7章1–4a節は、それぞれのことばの意味を細かく分析すると迷路にはまりますが、「それとも、あなたがたは知らないのですか、兄弟たちよ、律法を知っている人たちに私は話していますが、
律法が人を支配するのは、その人が生きている間だけです。
妻は夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれていますが、もし夫が死ぬなら夫に関する律法から解放されます。したがって、もし、夫が生きている間に他の男のものとなるなら姦淫の女と呼ばれますが、もし夫が死ぬなら、律法から解放されます。それで他の男のものとなっても姦淫の女ではありません。
ですから、私の兄弟たちよ、あなたがたは律法に対して死んでいるのです、キリストのからだを通して」と訳すことができます。
最初の「それとも、あなたがたは知らないのですか」という疑問は、6章14節の「罪があなたがたを支配することがない……それは、あなたがたが(既に)、律法の下にではなく、恵みの下にあるからです」ということばを受けて、キリスト者は「律法の下にはいない」ということの説明を述べる導入のことばです。
しかも、ここで「兄弟たちよ、私は律法を知っている人たちに話していますが」とは、当時のユダヤ人たちが、律法は神からの最高の贈り物であると信じていることを前提として、自分のことばが律法の価値を蔑むように聞こえても、決してそのような意図はないということを、念のために知らせたいという意味だと思われます。
なお「兄弟たちよ」という二回の呼びかけから始まる文章はほとんど同じ意味で、最初は「律法が人を支配するのは、その人が生きている間だけです」と言われ、最後は「あなたがたは律法に対して死んでいるのです、キリストのからだを通して」と記されます。
つまり、「あなたがたはキリストとともに死んだので、律法の支配下にはいない」と改めて述べられたのです。これは、6章7節で「死んだ者は、罪から解放されているのです(原文:「罪の結果から義と宣告されている」)と言われていたことの繰り返しでもあります。
ただ、そのことを説明するために真ん中に入っているたとえの文章、
妻は夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれていますが、
もし夫が死ぬなら夫に関する律法から解放されます。
したがって、もし、夫が生きている間に他の男のものとなるなら姦淫の女と呼ばれますが、
もし夫が死ぬなら、律法から解放されます。それで他の男のものとなっても姦淫の女ではありません。
の意味がかえって私たちを混乱させる面があります。
それは当時の結婚制度に対する知識が不足しているためと言えましょう。
当時の妻は、夫の所有物のように見られていました。申命記24章1–4節は、マタイによる福音書19章3–9節でのイエスとパリサイ人の結婚に関する論争の前提となる記事です。
これは当時のパリサイ人がイエスを試すために「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」(マタイ19:3) と尋ねたことから始まっています。
その前提に、「もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を去らせ……た場合」という問いかけがありました (申命記24:1、3)。
その本来の意味は、一時の気まぐれで妻を追い出すことを思いとどませる規定でしたが、当時のパリサイ人は、妻を合法的に離縁できるための規定として解釈していました。
つまり、結婚している女は、まるで夫の所有物かのように夫の管理下に置かれ、自分から夫のもとを離れることはできなかったのですが、夫の側では正当な理由があれば妻を離縁することができるという不平等があったのです。そこでは妻は夫に縛られ、ときには他の男性と会話を交わすことさえ、夫の制限下に置かれていました。
しかしその妻も、「夫が死ぬなら」、自由に他の男性と結びつくことができました。これが律法と私たちの関係に置き変えられると、私たちが古いアダムと一体になっている間は、律法の支配下に置かれていますが、古いアダムがキリストと共に死んでしまうなら、私たちは古いアダムを罪に定める律法の支配からも解放されることを意味します。
現代の私たちには理解しがたいことですが、妻が夫の支配から自由になるというたとえを通して、肉におけるアダムの子孫が、律法の支配から解放されたことを印象的に語っています。
2.「しかし、今は律法から解放されたのです、自分を縛っていた律法に死ぬことによって」
7章4節後半は原文の語順で、「それはあなたがたがほかの方のものとなるためです、それは死者の中からよみがえった方のことです。それによって私たちが神のために実を結ぶようになります」と記されています。
ここでは3節で「他の男のものとなる」と繰り返されたことばを受けて、まず「それはあなたがたが他(ほか)の方のものとなるためです」と言われます。まさに、合法的に「他の方」と結婚できるために、私たちのうちにある古いアダムがキリストとともに死ぬ必要があったのです。
そして新しい結婚相手が、「死者の中からよみがえった方」であるという途方もない説明が入ります。それは、私たちが律法の支配から解放されて初めて可能になる恵みでした。
さらにそこから生まれる結果が、「それによって私たちが神のために実を結ぶようになります」と説明されます。これは6章22節で「しかし今は、罪から解放され……聖潔に至る果実を持っています。その目的地は永遠のいのちです」と言われたことの言い換えです。
5節ではさらにそれに至る前の歩みが、「私たちが肉の中にあったときは、数々の罪の欲情が、律法を通して私たちの肢体(五体)のうちに働くことで、死のために実を結びました」と説明されます。
ここでは先の「神のために実を結ぶ」こととの対比で「死のために実を結ぶ」と記されます。なお、「私たちが肉の中にあったとき」とは、私たちが結婚に関する律法によって古いアダムと一心同体であったとき、罪の欲情が皮肉にも、禁止命令を中心とした律法を通して私たちの五体の中に生きて働き、「死のために実を結びました」と言われます。
その意味は続く7–10節で説明されます。どちらにしても、「数々の罪の欲情が」、「律法を通して働く」というのは、当時のユダヤ人が聞いたら目を丸くするような驚きの表現です。
それを前提として7章6節では、「しかし、今は律法から解放されたのです、自分を縛っていた律法に死ぬことによってです。その結果、私たちは新しい御霊のうちに仕えているのです、古い文字によるものではありません」と記されます。
この背後にはエレミヤ31章31節での「新しい契約」という表現があります。それは「エジプトの地から導き出した日に……結んだ契約」との対比で描かれます。
それは「石の板」(Ⅱコリント3:3) に記された「古い文字」の律法ではなく、主ご自身が「律法(トーラー:み教え)を」私たちの「心に……書き記す」というものでした (同31:33)。
その古い契約から「新しい契約」への転換が、ここでは「今は律法から解放された」、また「自分を縛っていた律法に死ぬことによって」と説明され、さらに「その結果、私たちは新しい御霊のうちに仕えているのです、古い文字によるものではありません」と解説されます。
これはまたエゼキエル36章26、27節で、主ご自身がイスラエルの民に、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける……わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」と記されている預言の成就でもありました。
つまり、エレミヤもエゼキエルも預言していた「新しい契約」の時代が、「律法に死ぬ」ことによって実現すると記されているのです。
そのことをパウロは、ガラテヤ人への手紙2章19、20節で、「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と告白しました。
「律法によって律法に死ぬ」とはパウロが先に「今は律法から解放されたのです、自分を縛っていた律法に死ぬことによってです」と述べたことの言い換えです。それは、古いアダムがキリストとともに死ぬことによって可能となりました。
3.「罪は戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆる欲望を生み出しました」
7章7節は、「今は律法から解放された」という前節の宣言を受けてのことばですが、
それでは、何と言いましょうか。律法は罪なのでしょうか?決してそうではありません。
しかし、律法を通してでなければ、私は罪を知ることはありませんでした。
私は欲情(欲望)を知らなかったことでしょう、
もし律法が、「欲してはならない」と言ったのでなかったとしたなら。
と訳すことができます。
最初の「律法は罪なのでしょうか?」という問いかけは、5節の「数々の罪の欲情が、律法を通して……働いた」を受けての議論です。
パウロはすぐに「決してそうではありません。しかし、律法を通してでなければ、私は罪を知ることはありませんでした」と、律法には私たちに神のみこころを知らせるとともに、その反対に、何が罪であるかを知らせる働きがあることを記します。
私たちは「律法を聞く」ことによって、神が私たちに何を望み、また何を罪とされるかがよくわかります。
しかし、ここでその副作用が、「私は欲情(欲望)を知らなかったことでしょう、もし律法が、『欲してはならない』と言ったのでなかったとしたなら。しかし、罪は戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆる欲望を生み出しました」と記されます。
ここで、「律法が、『欲してはならない』と言った」とは、「十のことば(十戒)」の第十番目の「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻……すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」(出エジプト記20:17) の要約です。
そこで禁じられていたのは、隣人の様々な豊かな財産を『欲する』気持ちであるとともに、隣人の妻を欲する欲情です。
ギリシア語の『欲する』は「欲情する」とも訳せることばです。これは5節とのつながりで言えば、「隣人の妻を欲してはならない」という「律法」が、「私たちの肢体(五体、からだ)のうちに」、「隣人の妻」に対する「罪の欲情」を「目覚め」させてしまうという皮肉です。
それは日本の物語に多い、「見るな」と命じられたものに目が向かうという人間の心の作用でもあります。鶴の恩返しの物語に代表されるように、「見るな」と言われて、かえって「見てしまう」ことの悲劇が繰り返されます。
しかも、この『欲する』ということばは、創世記3章6節で「女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」と記されている「好ましかった」と同じ語根のことばです。また、「目に慕わしく」の「慕わしい」とも似た意味があります。
つまり、アダムとエバが、禁断の木の実を取って食べる原因が、その木が「目に慕わしく」「好ましい」という、人間の「欲望(欲情)」を掻き立てるものとして映ったからなのです。
これも、「神である主 (ヤハウェ) 」が、「あなたは園のどんな木からでも思いのまま食べても良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:16、17) と命じられたことから始まりました。
簡単に言うと、「食べてはならない」という命令に「罪」が働いて、「その木が……目に慕わしく、好ましい」という気持ちを引き起こしたのです。
そのように、せっかくの良い命令が、私たちの欲望を目覚めさせることになるのは、そこに「罪」という人格的な力が働くからです。
そのことが7章8節で、「しかし、罪は戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆる欲望を生み出しました。律法がなければ、罪は死んでいます」と記されます。
ここでの「罪」とは、サタンとも言い換えられることばかもしれません。神の愛に満ちた教えを、意地悪な教えに見せるのがサタンの働きだからです。
ただそれが「罪」と呼ばれるのは、私たちの責任を明確にするためです。人はサタンに負けるのは当然とも言えますが、主がカインに、「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない」(創世記4:7) と言われたように、罪の力を「治める」責任が問われているからです。
最後に、「律法がなければ罪は死んでいます」と記されるのは、「罪」の力は、何よりも神の愛に満ちた教えである律法を無にしようとする働きだからです。
善いものであればあるほど、悪の働きを刺激するという矛盾がこの世界にあります。しかし、それは決して、善が悪の原因という意味ではありません。
4.「いのちに至る戒め、それが死に至らしめる」
7章9、10節では、「私」という一人称が強調され、「この私は律法なしにかつては生きていました。しかし、戒めが来たとき、罪が生き返りました。そして、この私は死にました。それで私は発見しました、いのちに至る戒め、それが死に至らしめると」と訳すことができます。
ここでの「私」はパウロ自身の内なる体験を現わしていると一般的に見られがちですが、「この私は律法なしにかつては生きていました」が、彼の体験を指すとは思われません。
事実ピリピ人への手紙3章5、6節で、パウロは自分のことを「私は生まれて八日目に割礼を受け……ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがないものでした」と紹介しています。
ですから、「この私」とはパウロ自身というより、イスラエル人と自分を一体化させ、「私」ということばでイスラエルの民全体を描いたとも言えます。事実、イスラエルは昔、「律法なしに生きていた」時代がありましたが、パウロは生まれながら律法とともに歩んできたことはその証から明らかです。
古代世界の人たちはより一般的な事柄について話すために、しばしば「私」という一人称単数の代名詞を用いたようです。
そして7章9節の続きは、「しかし、戒めが来たとき、罪が生き返りました。そして、この私は死にました。それで私は発見しました、いのちに至る戒め、それが死に至らしめると」と記されています。
ここでは、律法がイスラエルに与えられたときのことが思い起こされます。たとえばモーセは、神の契約に伴う「祝福」と「のろい」に関して細かく語った後、申命記30章19節で、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」と彼らに決断を迫りました。
ただそのように言った後、31章29節で、「私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私があなたがたに命じた道から外れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私はよく知っているからだ」と、彼らの堕落を預言しています。
それは、かつてモーセがシナイ山で四十日間過ごしている間に、イスラエルの民が、神が厳しく禁じられた目に見える神の像を求めてしまい、金の子牛を作ってしまったという記憶があったからでしょう。
残念ながら、アダムの子孫はいつも、神を見える姿で現したいという強い欲求を持っています。それが創造主である神が最も嫌われることであると分かっていても、禁じられれば禁じられるほど、それに心が向かう衝動が働きました。
ですから、与えられた律法によって息を吹き返したように「罪は生き返りました」と言われる状況が生まれたのです。しかもそれに「のろい」が警告されていることで、かえって彼らを自暴自棄にさせ、神の民としての自尊心を失わせ、そこにさらに「罪」の誘惑が働き続けたとも言えましょう。
7章11節には、「罪は戒めを通して機会を捕らえ、私を欺きました。そして、それを通して殺したのです」と記されます。これは、先の創世記の記事でも明らかですが、神のみこころが明らかになるときに、かえってそれを覆す「罪」の力も目覚めさせられます。そしてそれが人を「欺き」ます。
それは「その木から食べるとき、必ず死ぬ」(創世記2:17) と言われたことばを、「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」(同3:4、5) と逆転させることを指します。
「罪」は、神の愛のことばを「欺く」力を持っているのです。
最後に7章12節で「ですから律法は聖なるものです。戒めも聖なるものであり、正しく、また善いものです」と記されます。これは、先に律法に関して否定的なことばを続けざるを得なかったことで誤解を生まないための当然の宣言のようなものです。
詩篇19篇でも「主の教え (トーラー) は完全で、たましいを生き返らせ……主の戒めは……・人の心を喜ばせ……それらは金よりも 多くの純金よりも慕わしく 蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い」と歌われていました。
この詩篇をパウロも当時のユダヤ人も毎日のように心から味わっていました。「律法 (トーラー) は聖なるもの」というのは、ユダヤ人にとって常識中の常識です。しかし、「罪」はそれを用いて人を死に至らしめたのです。
ところが、キリストがその罪を負って十字架にかかり、復活してご自身の「聖霊」を与えてくださり、私たちが今、心から神の教えを喜ぶように変えられたのです。
私たちの人間的な力では「罪」に打ち勝つことはできません。しかし、古いアダムに結びつく「私」はキリストとともに死んで、復活のキリストと一体とされました。
それは、「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」(ガラテヤ2:19、20) と記される通りです。
これは目指すべき目標ではなく、既に、私たちのうちに実現している霊的な事実です。
私たちの信仰とは、神が既にキリストにあって成就してくださったことを霊の目で見直し、自分のうちに「新しい創造」が既に始まっていることを受け止めることです。
いつまでも、神の愛の教えを実行できない肉の弱さを嘆くのではなく、神がキリストにおいて私たちの内になしてくださった恵みと、既に始まっている聖霊の働きに目を留めさせていただきましょう。
律法の逆説が5章20、21節で、
しかし、律法が入ってきたことによって、違反が増し加わりました。
しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れました。
それは、ちょうど罪が死において支配したのと同じように、
恵みもまた義を通して支配するためでした……
私たちの主イエス・キリストを通して。
と記されていました。
これをもとに記された聖歌701番「いかに汚れたる」を味わってみましょう。
聖歌701「いかに汚れたる」
- いかにけがれたる もののこころをも
きよめたもう主は げにほむべきかな
罪けがれは いやますとも
主のめぐみもまた いやますなり - きみにさからいし 時こそおおけれ
したがいまつりし 日はそもいくばく
罪けがれは いやますとも
主のめぐみもまた いやますなり - けがれのみおおく いさおはなけれど
きみは血しおもて あらわせたまえり
罪けがれは いやますとも
主のめぐみもまた いやますなり - かくもみちたれる めぐみのかずかず
ちからかぎりなお たたえうたばや
罪けがれは いやますとも
主のめぐみもまた いやますなり