エレミヤ14:1〜17:18「主を捨てる者へののろいと、主に信頼する者への祝福」

2024年6月30日

人の生涯はハプニングに満ちていますが、それこそ、ハッピー(幸せ)の原点です。ハッピー、ハプニングは、古英語 “hap”(ハップ)に由来し、「偶然」を意味します。ただそれはすべて神の御手の中にあります。

それにしても、人生は不公平に見えます。ある人は多くの幸福を手にしている一方、ある人は、「私には何もない……」と思える時期があるかもしれません。ただ、そこで、「諦め、現状を受け入れる」というのは仏教的な価値観ではないでしょうか。

聖書には、神に「食い下がる」ような祈りが満ちています。確かに、現実を受け入れることは大切ですが、それは全知全能の神の支配を覚えてなされるべきです。

本日の箇所に出てくるエレミヤの祈りは、モーセのように大胆で、ダビデのようにパーソナルです。主に信頼するとは、そのような祈りを献げることではないでしょうか。私たちは主の前でもっと正直であることが求められます。その結果として、目の前の人の心に寄り添った、愛のことばをかけられるように変えられることができます。

人生には変えられない不条理が満ちていますが、それも主の御手の中にあるハプニングとして受け止め、変えられることを変えて行く勇気を求めることができます。すべてのハプニングは主との交わりを深める契機とされます。そこで自分で自分を変えるのではなく、主に変えていただくのです。

1.「私たちはあなたの御名をもって呼ばれている……契約を覚えていて、それを破らないでください」

14章最初で「日照りのことについて」、主(ヤハウェ)は「ユダは喪に服し……エルサレムは哀れな叫び声をあげる。高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが……水は見つからず、空の器のままで帰る……地には秋の大雨が降らず、地面が割れ……野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ」(14:2–5) と言われます。

これはかつてモーセがイスラエルの民に申命記11章で、「主 (ヤハウェ) を愛し」「命令に……聞き従うなら」、「初めの雨(11月頃)と後の雨(4月頃)をもたらす」(13、14節) と約束する一方、「ほかの神々に仕え、それを拝む」なら「主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる……あなたがたは……その良い地から、たちまち滅び去る」(16、17節) と警告していましたが、それが今、実現するというのです。

それを聞いたエレミヤは、「私たちの咎が……不利な証言をしても、主 (ヤハウェ) よ、あなたの御名のために事をなしてください」(14:7) と願いながら、「どうしてあなたは……一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか」(14:8) と訴えます。

これは旅人が目的地に急いでいる際、宿を取ることは必要に迫られてのことで、彼の関心は滞在するその地にはないという姿を示したものです。彼はこれによって主の関心がイスラエルの民に十分に向けられていないという疑いを訴えています。これは、ときに妻が夫に「あなたは仕事のことばかり考えて、家庭を何だと思っているの!」と非難することに似ています。

その上で彼は、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私たちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。私たちを置き去りにしないでください」(14:9) と不思議な訴えをします。

それは、イスラエルが主(ヤハウェ)の民と呼ばれているのであれば、彼らを捨てることは主(ヤハウェ)の御名が国々の間で汚されることになるという論理です。

この祈りは、出エジプトから間もないとき、モーセが40日間もシナイ山に登って留守の間、金の子牛を造って拝んだイスラエルの民を主が滅ぼすと言われたときに、モーセが必死に執り成した祈りに似ています。

そのときモーセは、イスラエルを滅ぼすなら、エジプト人は「神は彼ら(イスラエル)を山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ」と言うようになり、主の御名が汚されると述べ (出エジプト32:12)、「すると主 (ヤハウェ) は……わざわいを思い直された」(同32:14)と記されていました。

ところが主(ヤハウェ)は、エレミヤが主を「旅人」のように振舞うと訴えたことに対し、イスラエルの民こそが「さまようことを愛し、その足を制することもしない」と非難します (14:10)。

そればかりか主は彼に「この民のために幸いを祈ってはならない」(14:11) とまで言われます。これは三度目のことで (7:16、11:14)、主の忍耐が限界に達しているという意味です。

それを聞いたエレミヤは、当時の預言者たちが、主のことばとして「わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と預言していると訴えます (14:13)。それに対し、主は「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している」と、さばきを宣告します (14:14、15)。

一方14章19節では、エレミヤは主の命令に逆らうかのように、主に「あなたはユダを全く退けられたのですか……なぜ、あなたは私たちを打ち、癒してくださらないのですか。私たちが平安 (シャローム) を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません」と訴えます。

そして民を代表しながら、「主 (ヤハウェ) よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります」と遜って祈っています (14:20)。

ただ同時に「私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください」(14:21) と祈りながら、さらに「国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか……それはあなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます」(14:22) と告白します。

これもモーセの祈りに似ています。二つの祈りには、主の御名の栄光のためと、主の契約を思い起こすことを求めるという点で同じです。主が私たちの罪を赦し、頑なな私たちを守り通してくださるのはこの二つの動機の故です。

私たちも自分が神の子とされていることを世に証しし続けるなら、主ご自身が御名の栄光のために私たちを守り通してくださいます。それと同時に、私たちは特に聖餐式において、主の契約を思い起こさせていただくことができます。主の栄光こそが私たちの信仰の基盤です。

ところがこのとき、主(ヤハウェ)はエレミヤに、「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない」(15:1) と、どんなに偉大な執り成し手が現れても、主はみこころを変えられないと言われました。

そして彼らに、「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に」という四種類のわざわいを宣告されます (15:2)。

そして主は、ご自身の厳しいさばきを行う理由を、「ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである」(15:4) と言われます。ヒゼキヤはアッシリアの攻撃を前に必死に主に嘆願し、主の奇跡的な救いを見ることができましたが、息子のマナセはアッシリアに媚びへつらい、エルサレムを偶像で満たしました。

列王記の記者は、「マナセは彼らを迷わせて、主 (ヤハウェ) がイスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせた」(Ⅱ列王21:9) と記しますが、彼は55年間も王座に留まってしまいました。残念ながら、指導者が悪ければ、民全体が腐敗してしまうというのが王政の何よりの矛盾です。

そして、このとき主は、「エルサレムよ……おまえはわたしを捨てた……おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた」(15:5、6) と言われます。

ここに主の悲しみと怒りが生々しく描かれます。主は、何度もご自身の「民から捨てられ」ながら、忍耐を重ねて来られました。しかしこのときは何と、「わたしはあわれむのに疲れた」と言われたのです。

2.「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」

15章10節では、エレミヤが今度は自分の使命を嘆き、「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので……私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている」(15:10) と、「生まれてこなければよかった」という感じに似た絶望感を表現しています。

ただそれに対し主(ヤハウェ)は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする」(15:11) と主に従い続ける者への祝福と名誉を保障します。

ただ13、14節で主は、エレミヤとユダの民を一体化して、彼らの罪のゆえに、神の「怒り」がエレミヤと彼の民に「燃え上がる」と描かれます。

さらに15章15節でエレミヤは「迫害する者たち」に関し「私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください」と祈ります。

エレミヤを迫害しているのは同胞の宗教指導者たちですが、彼はここで、彼らの上に神の怒りがすみやかに下されることを願っています。

これは先の民全体の救いを願う祈りと矛盾しているように思えますが、それこそ感情の現実でしょう。そして、そのような祈りはダビデの詩篇にもたびたび出てきます。

そこで不思議にもエレミヤは、神を喜び、「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主 (ヤハウェ) よ。私はあなたの名で呼ばれているからです」と告白します (15:16)。

エレミヤは、差し迫る神のさばきを聞いて、深く悲しんでいました。しかし彼は同時に、神がそれをイスラエルの益とされることを知り、同時に、それを語るために自分が召されたということに、大きな誇りを感じることができたのではないでしょうか。

ただ15章17、18節ではそれと矛盾するような、今ここでのエレミヤの「嘆き」が描かれます。人の心は目の前の悲惨な現実を前に、すぐに憤りや絶望感に変わります。

しかしその正直な訴えに対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの道に立たせる」(15:19) と、優しくエレミヤを招きます。

さらに彼のことばの行き過ぎをたしなめるように、「もし、あなたが卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる」と励まします。

その上で、最後に主は、「わたしはあなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す」(15:21) と保証して下さました。

一方、16章2節で主は、エレミヤに「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな」と異例な命令を与えられます。それは、「この場所で生まれる息子や娘」ばかりか、その父も母も、「ひどい病気で死ぬ」ばかりか、「彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる」(16:3、4) という想像を絶する悲劇が目前に迫っているからです。

そのようなときは、家族を持たないほうが幸せとも言えましょう。そして9節では、主はこれからのエルサレムを襲う絶望に関して、「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で、あなたがたが生きているうちに」と告げられます。

3.「彼らは、わたしの名が主 (ヤハウェ) であることを知る」

16章10節で、主はエレミヤに「あなたがこの民に、このすべてのことばを告げるとき、彼らがあなたに、『何のために、主 (ヤハウェ) は私たちに、この大きなわざわいを語られたのか。私たちの咎とは何か。私たちの神、主 (ヤハウェ) に対して犯したという、私たちの罪とは何か』と尋ねたら」という仮定のことを話します。

ただ11–13節で、エレミヤが彼らに与えるべき答えは、主がモーセの時代から何度も語っておられたことに他なりません。それはイスラエルの民はこの期に及んでも、自分たちがどれだけ主を悲しませ、怒らせてきたかということが分かっていないという意味です。人はみな、自分を正当化する名人だからです。

ただ、これによってイスラエルの民が滅びてしまうわけではありませんでした。

16章14、15節では、主は、この苦しみの後の希望が、「見よ、その時代が来る─主 (ヤハウェ) のことば─そのとき、もはや人々は、『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主 (ヤハウェ) は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主 (ヤハウェ) 生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる」と記されています。

つまり、出エジプトに匹敵する主の救いのみわざが、捕囚とされ散らされたイスラエルの民の上に表されるというのです。これは、約束の地に入る前のモーセの時代、申命記30章1–5節ですでに預言されていたことでした。

旧約の前半のテーマは出エジプトですが、後半のテーマは「出バビロン」ということができます。

そして約束の地への帰還こそ、多くの預言書のテーマになっています。これは私たちにとっては、黙示録21章に描かれている「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」に招き入れられることを指します。

どちらにしても強調されているのは、主の一方的なあわれみのみわざです。私たちの責任は、一時的な幸せを約束するサタンの甘い誘いに耳を貸さず、苦しみの中でも主(ヤハウェ)の救いを待ち続けることです。

16章16–18節では、再び神に背いたイスラエルの民に対する厳しいさばきが宣告されます。将来的な救いの希望と当面の厳しいさばきを交互に描くのが預言書の特徴だからです。

その上で19–21節では異邦人に対する救いの希望が描かれます。まずエレミヤは、「主 (ヤハウェ) よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ」(16:19) と主の救いを個人的に描きます。

ただその直後、それが全世界の民の告白となるというのです。そのとき、偶像を拝んでいた諸国の民は地の果てから来て、「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない」と言うことになると預言されます (16:19、20)。

これは今まさに、日本で私たちに起こっていることです。そして主ご自身も「今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主 (ヤハウェ) であることを知る」(16:21) と言われます。

主の御名「ヤハウェ」には、ご自身が天地万物の創造主であり、世界のすべてを支配しておられるという意味がこめられています。

17章1–4節では「ユダ王国」の罪が明確に記録され、神の怒りが避け難いことが記されます。

その上で、5–8節では美しい詩文で「人間に信頼する者」と「主 (ヤハウェ) に信頼する者」の対比が描かれます。

原文の最初は「のろわれている人とは」という宣言から始まり、それがどのような人かを、「人間(アダム)に信頼する者。肉なる者を自分の腕とし、心が主 (ヤハウェ) から離れている者」と定義されます。

つまり人に信頼すること自体が悪いというより、それによって「心が主 (ヤハウェ) から離れる」ことが問題なのです。これは当時のエルサレムの指導者が、主に信頼することを忘れて、エジプトとバビロンを両天秤にかけて、国際政治の力学で自分の国の独立を保とうとしていたことを非難したものです。

しかもその状況が「そのような者は荒地の灌木」、つまり不恰好な役に立たない木と呼ばれ、その状況が「幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のない塩地に住む」と描かれます。

私たちも神を忘れて生きることで、人生で出会う様々な機会を生かすことができず、不毛の人生のままに留まるというのです。Happy(幸せ)の反対語とはmishap(災難:不運)とも言え、神が与えた hap(機会:偶然)を生かせない悲劇です。

それに対し7、8節では、「祝福される人とは、主 (ヤハウェ) に信頼し、主 (ヤハウェ) を頼みとする者。その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない」と対照的な平安と祝福が述べられます。

ここも「祝福される」という断定形、約束のことばとして理解すべきでしょう。これは詩篇1篇を思い起こさせる表現です。そこでは暑さや日照りがなくなるというのではなく、根がいつも豊かな水に届いているという幸いが保証されています。それこそが「健康」ではないでしょうか。

それはこの矛盾に満ちた世界に向かう力を意味します。私たちの人生にも様々な苦しみがありますが、そのただ中で、不思議な主のみことばによる慰めが与えられます。永遠の視点からは、地上の苦しみは、ほんの一瞬の mishap(災難:不運)に見えるもの過ぎません。

この永遠の幸いの約束こそ、私たちが毎日の生活の中で繰り返すべきみことばです。ぜひ、この箇所を暗唱してみましょう。

一方、その直後に「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか」(17:9) と記されるのは衝撃的です。

ただ、「ねじ曲がっている」は、「欺くもの」とも訳すことができ、イスラエルの始まりである「ヤコブ」の名と同じ語根のことばです。エサウは弟から祝福を横取りされたとき、「あいつの名がヤコブというのもこのためか。二度までも私を押しのけて(欺いて)、私の長子の権利を奪い取り」(創世記27:36) と言いました。

しかし、「ヤコブと同じ心が人に宿っている……」と言われるなら、そこに神の救いのご計画を見ることができます。「それは癒しがたい」も「癒すことができないほどに病んでいる」状態を表すに過ぎないからです。

多くの人は、生き難さを抱えた人の問題を指摘し、健全な社会生活を送られるように教えてあげるのが愛の行為だと思っていますが、それで人が変わるならイエスが十字架に架かる必要はありませんでした。人ができないことを、神がしてくださったのです。

しかし主は、「わたし、主 (ヤハウェ) が心を探り、心の奥(原文:腎臓)を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる」(17:10) と言われます。

腎臓には人間を動かす理解しがたい気質が宿ると考えられていましたが、「あなたには闇も光のようです。それは、あなたが、私の奥深い部分(腎臓)を作り」(詩篇139:13私訳) と記されるように、「心の奥」も神の作品でもあり、すべてが神に知られていることです。

それを思うとき、私たちに何よりも求められるのは、人の問題を指摘する前に、すべてを支配し、すべてをさばく主の愛と主への恐れを分かち合うことだということが分かります。

しかも、主のさばきが、「しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正(さばき)によらないで富を得る者がある。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、その末は愚か者に終わる」(17:11) と描かれるように、主はご自身のときに、この地上の「生涯の半ばで」、すべてにけじめをつけてくださるのですから、自分で人をさばく必要もありません。

一方、「私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。イスラエルの望みである主 (ヤハウェ) よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます」(17:12、13) と断言されます。

それに対し、主の警告が「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主 (ヤハウェ) を捨てたからだ」(17:13) と述べられます。これこそ私たちがこの地上の生活の中で、主を忘れそうになったときに繰り返すべきことばです。

イエスは「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20) と言われ、また「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:14) と言ってくださいました。

私たちはイスラエルの歴史を見るとき、人の心がいかに頑なで、救いがたいものであるかを知ることができます。しかしイエスは、そんな救い難い人を救うために十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に死人の中からよみがえって、一人ひとりにご自身の「霊」、神の子とする御霊を与えてくださったのです。

「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい」とは私たちが覚えるべき現実です。しかし、聖霊は、人にはできないことを可能にしてくださいます。

旧約のストーリーは、救いがたいほどのイスラエルの民の罪深さを全人類の代表として描きますが、新約のストーリーは、そのような罪人を神の御子のイエスが愛し、立ち直らせてくださったことにあります。

そして、今、創造主であられる聖霊ご自身が私たちのうちがわに宿っておられます。その結果、私たちの心の中に主への正直な祈りが起こされ、自己中心のかたまりのような人が、他人のためにとりなしの祈りをすることができるように変えられているのです。