私たちは自分をクリスチャンと呼びます。それは自分を「キリスト・イエスのうちにある者」と自認しているという意味です。あなたは日本人である前に、キリストの王国の中に生かされているのです。それをパウロは、「罪の奴隷」から「義の奴隷」へと変えられたと述べます。
自分を「奴隷」と位置付けるのは抵抗感があるかもしれません。しかし、それはあなたに心の自由を与える言葉です。あなたの主人はこの世の者ではありません。あなたの価値も生き方も、もうこの世の基準で評価されたり指導されたりする必要はありません。
あなた自身の創造主の所有とされた奴隷であるとは、この世から自由とされた生き方の始まりです。
1.「あなたがたの肢体(五体、手足)を……神に献げなさい」
6章11節 では、「同じように、あなたがたも自分をこのように考え(見做し)なさい、罪に対して死んだ者であることを、また神に対して生きている者であることを、それは私たちの主キリスト・イエスにあってのことです」と記されています。「考えなさい(見做し、認めなさい)」のギリシア語は会計用語で、現実が借金まみれに見える中で、今後の収支の見込みを計算した結果、安心できるようになることに似ています。この世ではなく、創造主の視点から現実を見直すことの大切さです。
現実の私たちは先祖から受け継いだ罪の性質に支配され、自分の心に沸き起こる様々な欲望に心が支配されているように見えます。しかしそこで、創造主の視点から自分の現実を「そこには新しい創造があります」( Ⅱコリント5:17別訳 ) と言えることです。
12、13節 では、「それゆえ罪(単数形)が支配してはいけません、あなたがたの死ぬべき身体を。それは情欲の中に身体を服従させないためです。またあなたがたの肢体(五体、手足)を不義の道具として罪(単数形)に献げて(贈り物にして)はいけません。むしろ自身を、死者の中から生かされた者として、神に献げなさい。またその肢体(五体、手足)を義の道具として」と記されます。
多くの真面目な信仰者は、この箇所を道徳的に見すぎて、自分が今も罪の支配下にあると責めます。しかしここにはパウロのジョークが含まれているとも考えられます。彼は先に「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた」(6:4) と言いました。死んだ身体は、罪に対してさえも「贈り物」にはなり得ません。ですから生き方を変えるしかないのです。
そこでさらに昔からの生き方を貫こうとすると、身体の様々な部分に痛みが生まれます。ですから自分を「神に対して生きている者」と「考え(見做し)なさい」と言われます。そこであなたの仕える国が、罪と死の支配から、恵みの支配の国へと変えられたという自覚を持って、自分の生き方を見直し、身体のすべての部分を、神への献げ物(贈り物)としなさいと勧められます。
しかも自分の手足を含む肢体を不義の道具ではなく義の道具とするために神の支配下に置きなさいと命じられます。イスラエルの民は律法の下のあったとき、それを守ることができずに「のろい」を受けましたが、イエスは今、その「のろい」を自分の身に引き受けてくださいました (ガラテヤ3:13)。
そして私たちにはキリストの御霊が送られ (同3:14)、その御霊の導きの中で、自分の身体を「義の道具」として神に差し出すことができます。
その理由が 14節 で、「それは罪があなたがたを支配することがないからです。それはあなたがたが(既に)、律法の下にではなく、恵みの下にあるからです」と記されます。
そこで自分の身体や気質をこの世の基準で軽く見る代わりに、神の最高傑作として見直し、自分を神の働きのために生かすことができます。そのようにあなたが「罪の支配」から「神の恵みの支配」の中に移されたことを覚える必要があります。
ナルニア国物語で、次男のエドマンドが魔女から差し出された魔法のプリンを食べて、魔女の奴隷にされてしまいました。しかし、アスランが自分のいのちを犠牲にして、エドマンドの身代わりに魔女ののろいを受け、彼を魔女の支配下から救い出したという話が記されています。
その後、エドマンドは復活したアスランのもとでナルニアに平和をもたらす戦士として魔女と戦うようになります。キリストのうちに生かされる者は、すでに罪の支配から恵みの支配の中に移されています。そのことを決して忘れてはなりません。
私もかつての野村證券で7年を過ごしたころ、ドイツの支社で働いていましたが、事務所に着くたびに頭痛に悩まされました。大学病院で診察を受けたら、血圧が低すぎるのではないかと、血圧を高くされる薬を処方されるほどでした。
しかし、そのような中で伝道者としての召しを受け、支社長に退職を申し出ましたが、社費で留学させてもらっていることを理由に、退職が許されませんでした。しかし、不思議に退職を申し出たとたん、頭痛が消えました。会社に自分を合わせなければという意識から解放されたからかもしれません。
自分がしたい仕事の仕方を主張し、有給休暇も堂々と主張でいるようになりました。そこでは、自分を野村の社員である前に、神の国の特別社員として野村に派遣されている者であるというような見方ができたような気がします。
私は証券会社を最終的に辞めて牧師への道を歩み出しましたが、そこで与えられた召しの一つが、「不当な要求がまかりとおる職場で、神のしもべとして生きる」ことの意義を分かち合うことでした。それが、四年前に上梓された「職場と信仰」という本が生まれた経緯です。
私たちが「キリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります」( Ⅱコリント5:17別訳 )、その視点を忘れてはなりません。それは神の視点から職場を見られることです。
退社する際、お世話になった大学の先輩にご挨拶に行きました。その方は後に副社長になったような有能な影響力のある方でした。
彼は僕に、「君が望む部署への移動を叶えてあげる。会社は君のためにお金をかけたのに、それが無駄になる」と言いました。僕は彼に、「そんなことはありません。野村が僕のために投資したことは、僕が牧師になることで、より広く社会に還元されます。これは会社の社会的貢献の働きだと思ってください」と言い返したら、彼は大笑いしてくれました。
彼も、会社は自分の利益以前に、社会のために置かれていると言い続けてきたからです。このことを通しても、自分はこの世の支配から、神の支配下に移されたと実感できました。
2.「あなたがたは……罪の奴隷」から「義の奴隷とされた」
6章15、16節 は、「では、どうなのでしょう、『私たちは罪を犯しましょう!』とでも、それは『私たちは律法の下にはいません、恵みの下にいます』というのであれば? 決して、そのようなことはありません。あなたがたは知らないのですか、あなたがたは自分を献げた相手に服従する奴隷となるのです。それは、罪の奴隷となって死に至るのか、あるいは従順の奴隷となって義に至るかです」と記されています。
ここで最初に、パウロはユダヤ人律法主義者が批判しそうな議論を出してきます。それは、私たちが「律法の下ではなく、恵みの下に」置かれているという安心感から、罪の刑罰を恐れる必要がなくなり、「私たちは罪を犯しても大丈夫です、神は救い主を通して罪を贖ってくださったのだから」という議論が沸き起こる可能性があるからです。
残念ながら、人はある程度の脅しがあって初めて、基準を守る傾向があります。事実、ほとんどの運転者はパトカーを見たとたん、運転速度を下げますが、それが過ぎ去るとまた速度を上げて走り出します。
ただ、ここではそのような個々の戒めを超えて、律法を与えられた神との関係自体に立ち返ります。それは「あなたは自分の人生の主人をどなたと思っているのか?」という根本的な問いかけです。
この世のほとんどの人は、自分の人生の主人は自分自身であると考えていますが、13節によると、そのような人は知らないうちに自分の「肢体(手足)を不義の道具として罪(単数形)への贈り物にして」しまっています。なぜなら人には、「罪の奴隷」として生きるか、「従順の奴隷」として生きるかのどちらかの選択肢しかないからです。
ただし、そこで問われているのは創造主との関係です。聖書によると創造主を否定すること自体が「罪の奴隷」に他なりませんし、主のことばに真剣に耳を傾け、自分の肉の欲と戦いながら、主の教えを実行したいと願っていること自体が「従順の奴隷」になっていると言えるからです。
この世の人からどう評価されているかではなく、主のことばへの心の姿勢が問われています。
それを受けて 17〜19節 では、「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でした。しかし、心から従う者となりました、受け渡された教えの基準に向かって。
それは罪から解放されて、義の奴隷とされたということです。
私は人間的な言い方をします、それはあなたがたの肉の弱さを通してのことです。
(以前)あなたがたが自分の肢体(手足)を汚れと不法の奴隷として献げ(贈り物とし)て不法に進んだのと同じように、今は、その肢体(手足)を義の奴隷として献げなさい、聖潔に向かっての」と記されています。
これは翻訳が非常に難しい文章です。その際、パウロはまだ会ったことのないローマ教会の人々に向かって、何の条件も付けずに、「罪の奴隷」状態から「義の奴隷とされた」と言い切っていることに目を向ける必要があります。最後は「された」という受身形になっています。
何かの基準で測って、「これを達成したから、罪から解放された」と評価できるというのではありません。それは3章22–24節に記されていたように、「キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに(無償で)義と認められる」という「イエス・キリストの真実」に信頼するすべての人に与えられている恵みです。
つまり、すべてのクリスチャンが「罪の奴隷」から「義の奴隷」へと変えられたのです。それは「受け渡された教えの基準に向かって、心から従う者となりました」という生き方の方向の変化です。
私は未信者の方の信仰告白を導くときによく言うことですが、「キリストは神と等しい方なのに、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、十字架の死にまで従われた」(ピリピ2:8) という告白は、この世の基準では愚かしいことと言えます。しかし、それを感謝して受け止め、その姿に倣ってみたいと思えること自体が、神が起こしてくださった変化です。
このイエスの謙遜を、美しいと思い、それに従いたいと思っているということ自体が、何よりの決定的な変化なのですと申し上げます。そこではあなたが自分の肢体を汚れ不法のための贈り物としているのか、「聖潔に向かって」の「義の奴隷として」の贈り物とするかが問われているのです。
どこに向かって生きるかという方向が大切なのです。
3.「今は、罪から解放されて、義の奴隷とされ、聖潔に至る果実を持っています」
6章20、21節 は、「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義に関しては自由の(解放された)状態にありました。ではその頃、どのような果実を持つことができましたか。それらは今、あなたがたが恥じているもの(生き方)で、それらの目的地(ゴール)は死です」と訳すことができます。
ここでは私たちがキリスト者とされたことで変わる倫理観が描かれていると解釈できます。しばしば、「クリスチャン生活は、不自由な、堅苦しい生き方」と見られがちです。なぜなら、「神の義」という基準から「解放された」自由な生き方と見られることもあるからです。
たとえば日本の古典と言われる源氏物語では、光源氏と呼ばれる天皇の後継ぎにはなり得ない息子の自由な恋愛遍歴が、人間の心の機微の美しい描写とともに描かれています。
そのような物語を美しく感じれば感じるほど、性道徳に厳しいクリスチャン生活は不自由極まりなく見えるかもしれません。そこから美しい歌など生まれようがないとも言えましょう。
事実、源氏物語第一巻帚木(ははきぎ)には当時の女性に期待された態度が次のように描かれています。
「少々男の心がほかへ移ったといっては、恨んでいきり立ち、仲たがいしてしまうのも、全くお粗末な話です。心はほかの女に移っていても、ふたりが結ばれたころの愛情を思えば、女がいとしくて、これはこういう縁だと思って別れてしまう気持ちなどはないのに、女のほうが騒ぎ立てたどさくさまぎれに、つい、せっかくの縁も切れてしまうというものなのです。
何事もすべて女はおだやかに、たとえ嫉妬することがあっても、知っていますよという程度に、何となくほのめかして、恨みごとを言いたい場合も、さりげなく、やんわり伝えると、夫のほうは、そんな女の態度にかえって不憫さを深めましょう。
だいたい、夫の浮気は、妻次第で、おさまりもするものなのです。かと言ってあまりむやみに夫を自由にさせ、放任しておくのもいかがでしょう……
妻に干渉されない浮気は、男にとってかえって面白味もありません。如何ですか、そうでしょう」(瀬戸内寂聴現代語訳)。
これは何となく著者である紫式部の気持ちを表しているように思えます。
しかしクリスチャンになった者は、このような自由な恋愛関係を保つことを「恥じる」ようになります。それは、「罪の奴隷」から「義の奴隷」へと立場が変えられたしるしと言えましょう。
ここで「奴隷」ということばに違和感を覚えられる方も多いかと思います。しかし、それは先日話した、Owner Changed ということばから明らかです。私たちがイエスを主と告白するとは、自分の主人をイエス様であると告白することだからです。
しかし、それこそ私たちがこの世の支配から解放されるための道でした。私たちは知らないうちにこの世の奴隷にされています。その最大の証しが、人の価値を無意識にせよ、その人の年収や、人々の評価で測ってしまうという傾向です。
しかし私たちの人生の所有者が、この世の人や基準から、私たちの創造者へと変えられるとき、私たちは自分の価値を神の基準からから測り、この世の基準では偏っているという自分の個性を、神の賜物と見ることができます。
ある人の奴隷とされたら、別の人がその奴隷の働き方を批判することはできなくなります。この世的には偏った生き方であっても、その人の主人がそれを「良し」とするなら、それを誰も批判はできなくなるのです。ですから、そこには自由な生き方が生まれます。
I先生ご夫妻も私たち夫婦も、2001年にスイスのラサで自分を再発見する決定的なセミナーに参加できました。でもそれ以降の生き方はある意味で対照的だったかもしれません。
I先生は、直感的に動く多動的な傾向をますます先鋭化させ、同時に三つの団体で働きながら人々に福音を届け、多くの人の生き方に変化を生みだしました。
一方、私は自分の神経症の傾向を逆手に取って、次々と文章を書き、それを本やその他の媒体を通して伝えるようになりました。
どちらも牧師の平均的な姿からは偏って見えることでしょう。しかし、「平均的な牧師の姿など関係ない」と思うようになりました。なぜなら、私たちのオーナーは、この世の組織ではなく、私たちの創造主ご自身であると確信しているからです。
あなたの主人も創造主ご自身です。あなたらしい輝き方、生かされ方があります。人の評価を恐れる必要はありません。
19、22節
で成長の方向が「聖潔に向かって」「聖潔に至る果実を持つ」と描かれています。
パウロは Ⅰテサロニケ4章3節 で「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と述べますが、「聖なる者」とここでの「聖潔」は同じギリシア語です。
そして、そこではそれを言い換えるように「一人ひとりがわきまえて自分のからだを聖なる尊いものとして保つ」ことと記されます。
またその反対の概念が「淫らな行いを避ける」、「神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、またそのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです」と記されています (4:4–6)。
つまり、神の前に「聖なる者」であるとは、人と人との間での性的な純潔さと切り離せない関係にあるのです。またそれは誠実を尽くしあうことでもあります。
しかも 6章22、23節 では「しかし今は、罪から解放されて、義の奴隷とされ、聖潔に至る果実を持っています。その目的地は永遠のいのちです。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は永遠のいのちです。それは私たちの主イエス・キリストのうちにあるものです」と記されます。
「目的地(ゴール)」は「永遠のいのち」と記されますが、それは「御父と御子」との交わりが完成する場です。それは「来たるべき世のいのち」とも言い換えられます。それは既に今ここでは始まり、完成に向かっています。
歴史のゴールは愛の交わりの完成にあります。この地上の夫婦関係は互いに愛し合うことを学ぶ訓練の場です。そしてイエスが、「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです」(マタイ22:30) と言われたように、来たるべき世界においては、その愛の交わりがすべての聖徒たちとの間に実現します。
しかもここでは「今は、罪から解放されて……聖潔に至る果実を持っています」と、神の目から起きた変化が描かれます。私たちは既に聖霊を受けた者として「聖潔に至る果実」を既に「持っている」のです。
ここでは神の目から起きている「新しい創造」に目を向けるようにと勧められています。決定的な変化は既に始まっています。
そのことがさらに「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は永遠のいのちです、それは私たちの主キリスト・イエスのうちにあるものです」(6:23)と描かれます。
これは 5章12、21節 で「ちょうど一人の人を通して罪が世界に入り、罪を通して死が入った……ちょうど罪が死において支配したのと同じように、恵みもまた義を通して支配するためでした。それは永遠のいのちのためで、私たちの主イエス・キリストを通してのことでした」と記されたことのまとめとも言えます。
キリストのうちに生かされている者は、すでに「罪」と「死」の支配から「恵み」が「義を通して支配する」「永遠のいのち」へと移されているのです。ですから私たちは生かされている国が代わった者として、「義の奴隷」として神に向かって生きるのです。
今日の箇所は、私たちが聖化されるための具体的な勧めのようにも理解されますが、その基本は、私たちに求められた成長の努力ではなく、既にキリストが私たちにしてくださった「新しい創造」を覚えることです。
そのことが 14節 では「罪があなたがたを支配することがない……あなたがたが、律法の下にではなく、恵みの下にある」と記され、
17、18節 では「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でした。しかし、心から従う者となりました……罪から解放されて、義の奴隷とされました」と記され、 22節 では「しかし今は、罪から解放されて、義の奴隷とされ、聖潔に至る果実を持っています。その目的地は永遠のいのちです」と記されています。これらのことばはすべて、私たちに求められる聖くされるための努力のようなものではなく、神が私たちのためにしてくださった救いのみわざを確認させることばです。
信仰の基本は、私たちに対する神のみわざを繰り返し覚えることです。何よりも大切なのは、自分をキリストにあって新しくされた者と「考える(見做す)」(6:11)ことです。
そのことをパウロは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です(そこには新しい創造があります)。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と記しています ( Ⅱコリント5:17 )。この「新しい創造」を覚えることこそ鍵です。