エレミヤ10~13章「あなたがたの神、主(ヤハウェ)に、栄光を帰せよ」

2024年6月16日

私たちは神を楽しみ喜ぶことができます。しかし、神を自分の目的達成の手段にすることは許されません。そこに偶像礼拝が始まるからです。私たちはこの世の発想の延長で、無意識にせよ、神を「利用する」ような発想になってはいないでしょうか。「楽しむ」ことと「利用する」ことの区別が大切です。

ウエストミンスター大教理問答の最初では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」という問いに、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と答えるように教えられています。

1.「人間の道は……歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではない」

10章2節で、主(ヤハウェ)はイスラエルに「諸国の道を見習うな。天のしるしにうろたえるな」と言われます。昔の人々は、日食や月食、彗星の出現などに恐怖を覚え、そこに特別な意味を見出そうとしました。今、それらは科学的に説明されますが、それでも星占いなどは廃れません。それで私たちも「国々の民の慣わしは空しい」(10:3) と共に心に留める必要があります。

たとえば東日本大震災の際、位牌を取りに家に戻って津波に巻き込まれた事例も報じられ、位牌は作り直すことができるからと改めて強調されています。それほどに多くの日本人の心には、祟りへの恐れが満ちています。ですから異教の偶像に関して「そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ」(10:5) という断言に安心を見出しましょう。

また6、7節の始まりと終わりに、「主 (ヤハウェ) よ、あなたに並ぶ者はありません」と繰り返されますが、私たちはこの世の権力者も知者も恐れる必要はありません。

ここで、主 (ヤハウェ) が「国々の王である方」(10:7) と呼ばれるのは、民族ごとに崇められている神々が違うのが当然であった世界の中で画期的な表現です。当時のだれが、弱小民族イスラエルの神こそ、全世界の王であると告白することができたことでしょう。

10章8、9節で再び偶像の神々の空しさが描かれ、10節では「しかし、主 (ヤハウェ) はまことの神、生ける神、とこしえの王。その御怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない」と力強く宣言されます。

なお、11節だけは不思議にもヘブル語ではなく当時の西アジア全域で通用したアラム語で、「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる』と」と記されます。それはそれらの国々で諺(ことわざ)になることを願っての表現とも言えましょう。偶像に満ちる日本でも諺とされるべきでしょう。

12–15節では、主(ヤハウェ)が全世界の創造主、すべての気候現象を支配すると強調されながら、「主は万物を造る方。イスラエルは主のゆずり(相続)の民。その御名は万軍の主 (ヤハウェ) である」(10:16) と宣言されます。

当時のイスラエルは吹けば飛ぶような弱小民族であったことを忘れてはなりません。現在の「私たち」も「ゆずりの民」とされています。この表現を自分に当てはめて思い起こす必要があります。今、イスラエルの神と呼ばれた方が、全世界で崇められ、当時の神々が忘れ去られています。

10章17–25節は、内容的には9章17–22節に続くものです。その初めの「包囲されている女よ。あなたの荷物を地から取り集めよ」とは、エルサレムがバビロン帝国に包囲され、その住民が捕囚とされ長い旅に駆り立てられることを指します。この警告の繰り返しこそ、エレミヤ書のテーマです。

ただそこで不思議に、イスラエルの民を代表してのエレミヤの祈りが、「主 (ヤハウェ) よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。主 (ヤハウェ) よ。私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ公正(ミシュパート:さばき)をもって」(10:23、24) と記されます。

それは人が、神の導きなしには自分の「歩みを確かにする」ことができないことを謙遜に認めながら、神の懲らしめによって民が自分の無力を悟り、神にすがる歩みへと戻ることができるようにという祈りです。

これは、現代の裁判でも被告の責任能力の有無によって情状酌量の余地が生まれるように、イスラエルの民が生まれながら正しい道を歩む能力を持ち合わせていないと訴えながら、主のあわれみにすがることばではないでしょうか。

続く「そうでなければ、私は無に帰してしまいます」(10:24) とは、主のあわれみがなければ生きてゆけないという嘆願です。

実はここで、エレミヤは、目の前の苦しみを越えた、より大きな神の救いのご計画を霊の目で見ようとしています。人によっては「私は信仰が弱いから、いつも道がぐらつくばかり……」と言うかもしれません。しかし、旧約の物語のすべては、生まれながらの人間は、目に見えない神を信じ続けることはできないということの証しのようなものです。

しかしそこで居直ることなく、「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24) と祈ることができます。私たちの信仰も神のみわざなのですから。

2.「この契約のことばを聞かない者は、のろわれる」

11、12章は、10章より少し前の時代の預言だと思われます。ヨシヤ王の時代の紀元前622年頃、主の宮で律法の巻物が発見されましたが (Ⅱ列王22:8、Ⅱ歴代34:14)、それが前提になっています。

申命記27、28章には「主 (ヤハウェ) の契約」を守らない者に対する「のろい」が警告されていました。その要約が11章3節の「イスラエルの神、主 (ヤハウェ) はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる」です。

一方、「祝福」に関しては、「わたしの声に聞き(従い)、すべてわたしがあなたがたに命ずるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言われましたが (11:4、7:23、出エジ19:5、6参照)、原文では何よりも「聞く」ことが強調されます。

私たちは具体的な行動を考える前に、主の命令の趣旨を全身全霊で理解することが求められています。ただじっと「聞く」というプロセスを飛び越えて身体を動かそうとするから、後で心がついて行かなくなり、途中で行き詰まるとも言えましょう。

その上で主はイスラエルの民を「乳と蜜の流れる地」(11:5) へと導きいれてくださいました。それはこの地でエデンの園にあった、神と人との親密な交わりを回復させるためでした。

エレミヤはその律法の要約を聞きながら、「アーメン。主 (ヤハウェ) よ」と応答しました。それに応じて、主(ヤハウェ)は彼に「ユダの町々と、エルサレムの通りで」、『この契約のことばを聞いて、これを行え』と「叫ぶ」ように命じられました (11:6)。

契約に対する「のろい」と「祝福」は、契約の鍵であり、契約を軽蔑した者への「のろい」は実現させなければなりませんでした (11:7、8)。

ところが、主はそれを敢えて遅らせながら、エルサレムに警告を発し続けます。それは、彼らがわざわいに会うとき、それがイスラエルの神、主(ヤハウェ)の無力さのゆえではなく、「のろいの契約」の成就であることを知り、主(ヤハウェ)に立ち返ることができるためでした。それが11章9–13節のことばの意味です。

特に衝撃的なのは、主が「彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」(11:11) と語ると同時に、「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない」(11:12) と言われることです。

聖書の教えは因果応報を超え、「罰が当たった!」という言い方はしないようと教わります。しかしわざわいの中には、原因と結果の関係が明確なものが多くあります。そのとき自分の過去の誤った行動が現在の悲惨を招いていると率直に反省できる人には希望があります。

残念ながら同じ過ちを繰り返す人は、自分の悲惨を人や環境のせいにばかりして、自分の側に問題があったと認められない場合が多くあります。それで主はエレミヤに敢えて、「あなたは、この民のために祈ってはならない……彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ」(11:14) と語ります。これは7章16節でも同じことが命じられていました。

それは、彼らは助けられる前に、自分自身の過ちと向き合う必要があるからです。

しかし彼らの心は主(ヤハウェ)から遠く離れており、見せかけの礼拝をしているだけでした。そして、かつては、「実りの良い、緑のオリーブの木」(11:16) と呼ばれた主の民が、今はバビロン軍の攻撃による「大きな騒ぎの声」と共に火で焼かれようとしています。

そのことが「あなたを植えた万軍の主 (ヤハウェ) が、あなたにわざわいを告げる。イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに犠牲を供え、わたしの怒りを引き起こしたからである」(11:17) と言われます。

当時の彼らの礼拝は、影で浮気を続けたまま、夫婦の関係を修復したいと口先で言い、贈り物で怒りをなだめようとするようなものでした。人は切羽詰まるとあらゆる人や神々にすがりたいと思いますが、主(ヤハウェ)は何よりも浮気を嫌われることを覚える必要がありました。

3.「『主 (ヤハウェ) は生きておられる』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられる」

11章18節から突然、エレミヤに対するユダヤ人の陰謀を、主ご自身が知らせてくださったと記されます。そのとき彼は「屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のよう」に無力で無知でした。

彼らは「木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」と計画していました。これは彼の子孫ができる前に殺すことを意味します。

しかしそこでエレミヤは恐れることなく、「正しいさばき」をする「万軍の主 (ヤハウェ) 」が、「彼らに復讐するのを私は見るでしょう」(11:20) と告白します。

「アナトテ」は祭司の町でしたが、そこの祭司たちは、エレミヤがヨシヤ王に受け入れられているのに対してねたみを覚え、「主 (ヤハウェ) の名によって預言するな。われわれの手にかかってあなたが死なないように」(11:21) と脅していたのだと思われます。

しかしエレミヤを預言者として召し出された主は、彼のいのちを守ることができる方です。主はかつてアブラハムに、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう」(創世記12:3) と言われましたが、その約束がアブラハムの子孫に実現します。

私たちは人に助けてもらいながら恩返しができなくても心配ありません。主が代わってその人を祝福してくださいます。反対に、人から意地悪されても仕返しをする必要はありません。主が仕返しをしてくださるからです。

一方、12章では、そのようには見えない現実を前に、エレミヤは主(ヤハウェ)に正直な疑問を投げかけ、「私はさばき(ミシュパートの複数形)について あなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者が みな安らかなのですか」と問いかけます (12:1)。

それは、「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました」とあるように、主ご自身が悪者をのさばらせているように見える現実があるからです (12:2)。

そこでエレミヤは彼らの偽善を、「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます」と訴えます。それは、彼らが口先で神をたたえながら、こころが主から遠く離れている現実を指します。

ただその一方で彼は、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます」(12:3) と自分の心の中が主に知られていることに安心し、「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください」と、神のさばきに委ねています。

これは自分で復讐をしなくて済むようになるための前提です。その上で彼は「いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています」と (12:4)、イスラエルの民が「乳と蜜の流れる」と言われた地を損なっていることを悲しんでいます。

それに対して主(ヤハウェ)は不思議にも、「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことがきるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか」(12:5) と言われます。

これはエレミヤが他の偽預言者との戦いや平穏なアナトテの地での苦労を嘆いていることに対し、バビロンの馬の攻撃や獣の住む密林での生活というさらなる苦しみが待っていることを示したものです。

そして主は、身近な人の裏切りも覚悟して生きさせるために「彼らを信じてはならない」と勧めます (12:6)。

私たちは、「この苦しみはすぐに終わる……」と淡い期待を抱くことによって、かえって目の前の困難への姿勢が逃げ腰になり、問題を長引かせることがあります。しかし、「この問題は、そうは簡単に解決しない」と腹をくくって対処するなら、反対にそこで神からの不思議な力を受けることができます。

12章7–13節では、主(ヤハウェ)がこれからエルサレムに下すさばきの恐ろしさを劇的に描きます。それはエレミヤが、主のさばきが見えないこと、自分が不条理な中に置かれていると嘆いたことへの答えです。

一方14節で主は、ご自分のさばきの手段として用いるバビロン帝国の民について、「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民」と呼びながら、「見よ、わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く」と言われます。

それは主が、この悲劇の後で、バビロン軍を約束の地から追い払い、ユダの民をバビロンの中から集めるという約束です。そのことが「わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる」(12:15) と言われます。

ただ一方で、イスラエルを堕落させ苦しめた異教徒の国々に関して、「彼らがかつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『主 (ヤハウェ) は生きておられる』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられる」(12:16) と、彼らが神の民に加えられる驚くべき約束が記されます。

しかし他方で、「彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こそぎ滅ぼす」(12:17) と、悔い改めない場合にはすべての希望が失われることが警告されます。

私たちにとって、「主 (ヤハウェ) は生きておられる」という信仰告白こそ、人生が祝福されるための鍵のことばです。主が私たちにしばしば苦しみを与えられるのは、主(ヤハウェ)以外の誰も頼りにはならないことを思い知らせるためです。

それは空気がなくなって初めて空気のありがたさが分かるのに似ています。主は、いつでもどこでも生きて働いておられますが、その真理は人生の暗闇の中でこそ発見できるものです。

4.「彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるため」

13章1–11節では、主がエレミヤに亜麻布の帯を用いての「実演によるたとえ」を命じます。主はまず、「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ……」と言われます。亜麻布は祭司の服装に用いられましたが (レビ16:4)、これは彼に神の民の「祭司」としての「誇り」を思い起こさせたことでしょう。

ところがすぐに主は、「その帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ」(13:4) と不思議なことを命じました。そして、「多くの日を経て」、主は彼に「あの帯を取り出せ」と命じますが、「その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた」というのです (13:6、7)。

そして、このたとえの説明が主からなされます。それは主(ヤハウェ)が、「ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする……この悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる」(13:9、10) ということでした。帯は、主がイスラエルの民をご自身に「結びつけた」ことの象徴です。

そして主は、「彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるため」に必要な教えを与えたのに「彼らはわたしに聞かなかった」とご自身の悲しみを表現されます (13:11)。

主は私たち一人ひとりに、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(Ⅰペテロ2:9) と語りかけ、そのしるしとしての「亜麻布の帯」を腰に締めさせ、主から召された働きに着かせてくださいます。

主のみことばは私たちに何よりも真の「誇り」を思い起こさせるものです。パウロは悪霊に対する戦いとして、「腰には真理の帯を締め」るように命じています (エペソ6:14)。悪霊の働きは、何よりも、私たちの心の目を神の約束からそらせ、私たちの「誇り」を奪い取ろうとすることにあります。

13章12–14節は酒壺」のたとえです。主(ヤハウェ)は、「酒壺には酒が満たされる」と言われますが、それは宴会の備えとして当然のことであり、民自身が望むことだったことでしょう。しかし、主の目的は皮肉にも、「この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く」ということにあるというのです。

しかも主は、「わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす」とさえ言われます。これは彼らが、「主 (ヤハウェ) の手から憤りの杯を飲む」(イザヤ51:17) という意味がありました。

パウロは後に主のさばきを、「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました」(ローマ1:24) と描きましたが、人にとっては自分の欲望のままに生きることは望ましいことのように思えますが、それこそ人と人とが互いに滅ぼし合い、自滅してゆく道です。

神のさばきが、気ままな生き方を、酒を飲ませて励ますことだというのは、何とも不思議なことです。

13章15–17節の警告は、「耳を傾けて聞け。高ぶるな……あなたがたの神、主 (ヤハウェ) に、栄光を帰せよ」という単純明快なものです。人は無意識に、神を自分の願望を達成する手段に貶めてしまう傾向がるからです。それは自滅への道です。

主は傲慢になった人に「闇を送り」ます。それは神のさばきであるとともに、人の愚かさを教える神の愛の現れです。そしてエレミヤは、「もしあなたがたがこれを聞かなければ、私は隠れたところで、あなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主 (ヤハウェ) の群れが捕らわれて行くからだ」(13:17) と、後のバビロン捕囚を予告します。

そして18–24節にはエルサレムを襲う悲惨が劇的に描かれ、その理由が「あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。わたしも、あなたの裾を 顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる」と説明されます (13:25、26)。それは、彼らの偶像礼拝を性的な罪に例え、その「裸の恥をさらす」というさばきとして描くためです。

「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか」(13:27) とは、主の心からの嘆きのことばです。主がエルサレムを懲らしめるのは、彼らが霊的な浮気の愚かさに気づかせ、回心させるためです。

「主 (ヤハウェ) は生きておられる」とは聖書の歴史のテーマです。それを知った人は祝福され、それを忘れた人はのろわれました。いつでもどこでも、今、生きて働いておられる主との交わりに生きることが私たちに求められています。

そして私たちはどのような状況でも、主を喜び楽しむことができます。幸せは、今、ここにある主との交わりのなかにあるからです。そしてそれこそ、天国の前味と言えましょう。

今ここでそれを味わうことができるなら、目に見える交わりの現実の中にも天の御国をもたらすことができます。