ローマ人への手紙6章1〜11節「罪に対して死に、神に対して生きる」

2024年6月9日

私たちは何のために生かされているのでしょうか。ときに伝道や証しのために生かされていると考えすぎると、周りの未信者の方から「あなたそれでもクリスチャンなの」と言われることに敏感になりすぎる、堅苦しい生き方になるかもしれません。

しかしイエスは「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します」(ヨハネ15:20) と、奇妙な保証?をされました。批判を受けるのは弟子のしるしとも言えましょう。

日々の生活で、恐れる必要のないことを恐れてはいないか、どなたに対して生きているのかという問いを繰り返し思い起こす必要があります。

5章17、21節 は「もし、一人の違反に基づいて、死が一人の人を通して支配する(王として治める)ようになったのであれば、なおいっそう、恵み(カリス)と義の賜物(贈り物:the free gift)をあふれるばかりに受けている人は、いのちにあって支配する(王として治める)ことになります……

ちょうど罪が死において支配した(王として治めた)のと同じように、恵みもまた義(covenant faithfulness:契約の真実)を通して支配する(王として治める)ためでした」と、二つの王国の支配が対比されていました。

1.「罪に対して死んだ者である私たちが、どうしてなおもその中に生きていられるでしょう」

6章1、2節 では不思議なことばが、「それでは、何と言いましょうか。罪の状態に留まるとでも?それで恵みが増し加わるのであれば。決してそうではありません。罪に対して死んだ者である私たちが、どうしてなおもその中に生きていられるでしょう」と記されています。

「罪(単数形)に対して死んだ者である私たち」の意味は11節までに至る文章全体で説明されます。

一方、「決してそうではありません」という表現は3章4節、6節などでも使われていましたが、パウロが想定する批判者の屁理屈を敢えて記すことで、自分の主張をより明確にできるためのレトリックです。

この前提には5章20節で、「律法が入ってきたことによって、違反が増し加わりました。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れました」と記されたことがあります。これはそこから生まれる誤解を正すための、罪への居直りを断罪するためのことばです。

私たちはたとえば、ルカ15章11節以降の「放蕩息子」のたとえを聞きながら、神の赦しの偉大さに感心します。だからと言って、神の赦しの偉大さを体験するために敢えて、罪を犯し続けるようなことがあれば、それは神の「あわれみ」を軽く見る安価な恵みにつながります。

ただ、そこで「罪の状態に留まる」とか「罪の中に生きる」とは、同じ過ちを繰り返し続けるとか、悪い習慣を止められていないという日々の生活習慣に関することであるよりは、 1章21–23節 に記されていたような神を忘れた生き方を指します。

そこでは「彼らは神を知っていながら、その方に神としての栄光を帰しませんでした、また感謝もしませんでした。かえってその思いはむなしくなりました。また、その鈍い心は暗くなりました。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになりました。

そして、朽ちない神の栄光を替えてしまいました、朽ちるものに似たかたちとへと、人間や、鳥、獣、這うもののような」と記されていました。

それこそ、ここで描かれた「罪の中に生きる」状態です。その基本は、創造主を完全に無視した生き方にありました。

たとえば、私は45年以上前の証券会社での営業時代、繰り返し、神のみこころに反するような仕事の仕方をして、良心の呵責に悩んでいました。

しかし、毎日曜日ごとに礼拝に集い、その礼拝の式文に記されている「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」という趣旨の祈りを繰り返していました。それは、この世的には、罪の中に留まり続けているようでありながら、キリストのうちに生かされている者として、それにふさわしい仕事をしてはいないという正直な反省とともに、どうにかして仕事のやり方を変えたいという熱い思いが込められていました。

私たちはこの世の様々なしがらみの中で生きています。もっと聖く生きたいと思いながら、それができずに悩んでいます。それはイエスが、 ルカ18章9–14節 でのパリサイ人と取税人のたとえで話したことと同じです。

パリサイ人は「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下して」いました。それとの対比で、「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください』」と描かれていました。

そこでイエスは、「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは。あのパリサイ人ではなく、この人(取税人)です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と言われました。

今から45余り前の証券会社の同僚は、自分の仕事を恥じて、自分たちのような汚れた者はキリスト教会には足を踏み入れることができないと救いを諦めているか、罪に居直って自暴自棄になっているかのどちらかでした。

そのような中で、私は「エセクリ」などと罵倒されるようなことがあってもひたすら、礼拝に通い続けました。土曜日まで仕事しているのがほとんどでしたので、礼拝メッセージの間はひたすら眠り続けていました。しかし、神様はそんな自分をあわれんでくださっていたと確信しています。

それは、寝ても覚めても主に助けを求め続けていたことと、キリストにある罪の赦しと同時に新しい導きを求め続けていたからです。

そこで問われるのは、自分の立場の自覚です。少なくとも、自分がクリスチャン(キリストのもの)であるという最低限の自覚がなければ、自分の不信仰や心の弱さに悩むことはないはずだからです。

2.「キリストの死にあずかるバプテスマを通して、主とともに葬られた」

6章3–5節 では、「それとも、あなたがたは知らないのですか。私たちはキリスト・イエスにつくバプテスマを受けたことによってすべて、主の死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは主の死にあずかるバプテスマを通して、主とともに葬られたのです。

それはちょうど、キリストが御父の栄光を通して死者の中からよみがえられたのと同じように、この私たちもまた、新しいいのちにあって歩むためです。

もし私たちが主の死の似姿に接ぎ合わされているのなら(新改訳脚注参照)、主の復活とも同じようになるからです」と記されています。

私たち福音自由教会では原則、バプテスト教会と同じように、水の中に沈む浸礼を行います。それはアダムから受け継いだ身体がキリストとともに葬られ、復活のキリストとともに歩み出すことを目に見える形で現わすためです。

ここでは、11章17節以降に記される明確な「接ぎ木」に関することばは使われませんが、5節の新改訳で「キリストと一つになっている」と訳された言葉には「ともに成長する」という意味が込められています。

たとえば母は、おいしいと同時にたくましく育つメロンのために、メロンの苗木をかぼちゃの台木に接ぎ木するようなことをしていたようです。それはまるで新しい植物を作るようなものですが、そうすることによって、繊細なメロンの苗がたくましいカボチャの台木によって成長します。

私たちもこの世の欲望に駆られた価値観に死ぬというキリストの死の似姿に接ぎ合わされることによって、新しいいのちの中に歩み出すことができますが、その際、台木が代わっても苗木は変わりませんから、私たちに生まれながら与えられている個性や気質はそのまま生かされることになります。

故岩井基雄先生は、信仰者の歩みを Owner Changed (所有者が代わった歩みである)とよく表現していました。あるアメリカの文字を読めない老夫婦が、大きなクリスチャンの集会に参加したとき、青年たちが着ているトレーナーの文字がかっこよく見え、同じものを作りたいと思いました。家に帰ると目の前にあったお店のシャッターが閉まっていて、そこに文字が書いてありました。

その意味が良く理解できないまま、その文字の感じだったと思い、その文字をTシャツに真似て書いて次の集会に参加しました。するとみんなが手をたたいて喜んでくれました。そこに書いてあった文字は、「Owner Changed」という文字でした。

私たちの主人は、アダムの子孫としてのこの私ではなく、キリストに接ぎ合わされ、私の人生の所有者はキリストご自身となったという意味です。

私たちがこの世界の歩みで体験するのは、自分の真の雇い主が、あなたの勤める会社ではなく、キリストがあなたの所有者となったということです。私たちがバプテスマで目に見える形で体験するのは、この世の様々な苦難を通して、キリストとともに死に続けるというプロセスです。

苦難があればあるほど、自分の所有者はキリストに代えられたということを体験するのです。

6章6、7節 では、「私たちはこれを知っています、私たちの古い人が主とともに十字架につけられたことを、それは罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷ではなくなるためです。

死んだ者は、罪から解放されているのです(原文:「罪の結果から義と宣告されている(罪の刑罰が科せられない)」と記されています。

これは私たちがもはや罪と死の奴隷であるアダムの子孫の状態から解放されたことを意味します。私たちの「古い人」がキリストとともに十字架で死んだと見做されているなら、私たちはもはや、罪の刑罰を恐れながら生きる必要はなくなるのです。

これは2節の「罪に対して死んだ者」を説明することばで、「もう罪を犯さない者」というより、「罪」(単数形)の帝国の支配の中ではもう生きてはいないという意味です。

そこで 8節 では、「もし、私たちがキリストとともに死んだというのであれば、私たちは信じています、キリストとともに生きることになるということを」と記されています。

これは新しい生き方がキリストとともに始まることを意味します。私たちは信仰をあまりにも道徳的な基準で考え、罪の衝動に支配される状態から、神のみこころをいつでもどこでも実行できる聖い人間に変えられることと意識しているかもしれません。

しかしパウロのことばの背後には、いつも旧約のストーリーがあります。そこでは、神がイスラエルをかつてのエジプトで奴隷状態から解放して、乳と蜜の流れる約束の地に導き入れてくださったという救いの物語があります。エジプトでの彼らの価値は、奴隷としての生産能力にありました。しかし、約束の地では自分の労働の結果の恵みを喜んで味わうことができました。

これは、日本に当てはめると、多くの人々は、自分の価値を、「どれだけお金を稼ぐことができるか」とは、「どれだけ多くの人からその作品を評価されているか」などと、お金で人間の価値が量られる状態からの解放を意味します。

また、「過労死」などという日本語がそのまま英語にされるように、死ぬまで働かざるを得ないという恐怖支配の中に置かれている状態を意味します。

私は野村証券のドイツ支社に勤めていたとき、牧師の働きへの召しを受けました。そのとき、退職を支社長に願い出た所、その前の社内留学の約束があるので、あと三年はやめられないはずだと言われました。でも、そうなって初めて、自分はお金のために会社で働いているのではなく、キリストご自身が私の真の上司であり、自分はキリストに仕える一環としてこの職場に置かれているということが心から分かりました。

会社を辞めると決めた自分にとって、上司の評価などまったく気にならなくなりました。そして、「私はこのような働き方をしたい」と堂々と主張できるようになりました。それこそが、アダムにある生き方から、「キリストとともに生きる」という生き方だということが分かりました。

同時に、堂々と有給休暇を要求できるようにもなりました。「過労死」という概念が英語化できないのは、欧米ではすべての従業員は「これ以上は働けません」と言える自由が公然と認められているからです。そしてそれを言えないのは自己責任と見做されます。

ところが日本では、多くの人は無意識的に組織の奴隷状態に置かれています。私たちはそのような帰属集団の奴隷状態から解放されたということを心から理解する必要がありましょう。

それは、私たちがもう「罪」(単数形)の原理が支配する横暴な帝国の市民であることを止めているからです。

3.「見做しなさい、罪に対して死んだ者であると、また神に対して生きている者であると」

6章9、10節 は、

「私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。

死はもはや主を支配しないのです。なぜなら、主はただ一度、罪に対して死なれたからです。

しかし今、主が生きているのは、神に対して生きておられることです」と記されています。

キリストが死者の中からよみがえったということは、死んだラザロが生き返ったこととは異なります。イエスは朽ちることのない栄光のからだへとよみがえったのです。復活の主が手と脇腹に傷跡を残しておられたのは、私たちの罪のために死んだという栄光のしるしであって、古い身体が残っているという意味ではありません。

イエスはただ一度、全人類の罪を負って十字架にかかって死にました。しかし、イエスは死人の中からよみがえって、新しい復活のいのちを生きておられますが、それは「神に対して生きておられる」という意味です。

ただ、このように敢えて記されるのは、キリストのいのち私たちのいのちを重ねて考えられるためです。

そのことが 11節 で、「同じように、あなたがたも自分をこのように見做しなさい、罪に対して死んだ者であることを、また神に対して生きている者であることを、それは私たちの主キリスト・イエスにあってのことです」と記されています。

この初めで「見做しなさい(認めなさい、考えなさい)」と命じられていることばは会計用語です。これはたとえば、あなたが家をローンで買ったとしたら、定期的な支払いができなくなったとしたら、その家は差し押さえられることになります。それは財産的には、それはあなたの完全な所有とはなっていないという意味になりますが、現実には、多くの人は、その家は自分の所有物であると見做して生活しています。

賃貸家賃の代わりにローンを支払っていると多くの人は見做し、安心しています。

同じように私たちにこの地上の肉体のいのちが残ってはいても、すでに肉から生まれる罪の報酬の支払いは既に終わっていて、すべての不安が消えているかのように生きることができます。

なぜならイエスご自身が「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」( ヨハネ5:24 ) と保証してくださったからです。

私たちは既に、キリスト・イエスにあって「死からいのち」へと移されていると「見做し」、それを繰り返し思い起こし、心に刻む必要があります。

私たちには既に与えられた「永遠のいのち」とは、来たるべき「復活のいのち」であり、また今、すでに始まっている、創造主である御父と御子イエスにある永遠の喜びの交わりです。

残念ながら今も多くの信仰者は、この世の脅しの中に生きています。また自分が帰属する交わりから排除されることを恐れながら生きています。しかし、クリスチャン一世の方は、一度、この世の常識的な交わりから自分の意思で出て、多くの人々から奇人変人と見做されることを受け入れて信仰の告白をしています。

二世、三世の信仰者の方も、どこかで自分たちの価値観とこの世の価値観が違うことを自分で気づき、それでもこの世のマイノリティーである信仰者の群れの中に生きて行く決意をしました。

そこで無意識のうちに問われていたのが、この会計用語である「見做しなさい(認めなさい)」ということばです。あなたは自分を借金まみれの存在と見ているのか、それとも借金の心配もない、復活のいのちにあずかっている者と見做しているかが問われています。

しかし、そこで私たちが「生きる」という基準は、この世的な成功や評価の基準ではなく、何のために、どなたのために生きるのかという生きる方向の問題です。

そのことをパウロは、 ガラテヤ人への手紙2章19、20節 で、

「しかしこの私は、律法を通して律法に死にました。それは神に(向かって)生きるためです。私はキリストとともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているのちは、私を愛し、私のためにご自分のいのちを与えてくださった、神の御子の真実によるものです」 と記しています。

私たちは既に、律法によって罪を裁かれるという恐怖から解放されました。私たちは、自分の失敗や神のさばきを恐れる必要はありません。何の負い目も感じる必要はないのです。

ただ一方で、自分に授けされたタラントを土に埋めるような、賜物の出し惜しみは、さばかれる可能性があります。

イエスは タラントのたとえ の結論で、「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ、そこで泣いて歯ぎしりするのだ」(マタイ25:30) と恐ろしいことを言われました。

簡単に言うと、神にあって冒険して失敗しても赦していただけるのですが、失敗ばかりを恐れて冒険できなかった臆病さは、不信仰の罪として赦されようがなくなる場合があるということです。

ただそのような場合でも、「主よ。私は怖くてこんなことをできる自信がありません。主よ、どうか私に勇気を与えてください」と祈るならすべてが変えられます。

問われているのはこの世的な成功や評価ではなく、どなたのために、どなたに倣って生きているかという生きる方向の問題です。あなたのすべての罪はキリストによって赦されました。しかし、それは何のためであったかという生きる目的、また生かされる目的が問われています。

神のために生かされるとは、神がこの世界を平和に満ちた状態へと造り変えようとしておられるという救いの目的と不可分です。

私の妹は宗教に批判的です。それは「自分の救い」という自己都合を第一に考えている自己中の延長に見えるからとのことでした。

それに対して、世界の救いのために、この私たちの罪が赦され、罪に死んで、もうこの世の評価から自由にされ、神の救いのご計画のために生かされるという話は納得できるように思われます。

イエスは何の罪もない方なのに、ヨルダン川でバプテスマを受けられました。それはご自身が私たち罪人と一体となるためでした。私たちが受けるバプテスマは、キリストと一体とされるというしるしです。滴礼による洗礼にも同じ意味が込められています。

私たちが水の中に沈められるのは、キリストとともに死ぬということの象徴であり、水の中から出していただくのは、復活のキリストと一体となって、今から復活のいのちを生き始めるという象徴です。

私たちはもう律法によるさばきを恐れる必要がありません。私たちは既に「罪」と「罰」のような因果の原理が支配する死の脅しの帝国の市民ではないからです。

そればかりか、すでに「キリストが私たちのうちに生きておられ」ます。私たちはあまりにもこの世の基準で自分を評価し、自分を小さくして生きてはいないでしょうか。それは謙遜ではなく、あなたを最高傑作として創造してくださった神への冒涜になるのかも知れません。

私たちの人生のゴールは、キリストとともに王として、この世界を治めることにあります。そのために神の子とされました。この世の仕事はそのための予行演習のようなものです。

私たちは、自分を既に復活のいのちを生きている者と繰り返し「見做す」必要があります。それはキリストのうちに生かされているというイメージを日々思い浮かべる霊的な修練とも言えましょう。

ローマ5章17、21節

もし、一人の違反に基づいて、死が一人の人を通して支配する(王として治める)ようになったのであれば、なおいっそう、恵み(カリス)と義の賜物(贈り物:the free gift)をあふれるばかりに受けている人は、いのちにあって支配する(王として治める)ことになります……
ちょうど罪が死において支配した(王として治めた)のと同じように、恵みもまた義(契約の真実)を通して支配する(王として治める)ためでした」

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ローマ6章1、2節

それでは、何と言いましょうか。罪の状態に留まるとでも?  それで恵みが増し加わるのであれば。
決してそうではありません。  罪に対して死んだ者である私たちが、どうしてなおもその中に生きていられるでしょう

5章20節 「律法が入ってきたことによって、違反が増し加わりました。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れました

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ローマ1章21–23節

彼らは神を知っていながら、その方に神としての栄光を帰しませんでした。また感謝もしませんでした。かえってその思いはむなしくなりました。また、その鈍い心は暗くなりました。

彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになりました。そして、朽ちない神の栄光替えてしまいました、朽ちるものに似たかたちへと、人間や、鳥、獣、這うもののような。

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ルカ18章9–14節 パリサイ人と取税人

パリサイ人は「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下して」いました。
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』」
イエスは言われた、「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは。あのパリサイ人ではなく、この人(取税人)です。
だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」

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ローマ6章3–5節

それとも、あなたがたは知らないのですか。私たちはキリスト・イエスにつくバプテスマを受けたことによってすべて、主の死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは主の死にあずかるバプテスマを通して、主とともに葬られたのです。それはちょうど、キリストが御父の栄光を通して死者の中からよみがえられたのと同じように、この私たちもまた、新しいいのちにあって歩むためです。
もし私たちが主の死の似姿に接ぎ合わされているのなら (新改訳脚注参照)、主の復活とも同じようになるからです

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Owner Changed(所有者が代わった)

私たちの主人は、アダムの子孫としてのこの私ではなく、
キリストに接ぎ合わされた結果、私の人生の所有者はキリストご自身となった

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ローマ6章6–8節

私たちはこれを知っています、私たちの古い人が主とともに十字架につけられたことを、
それは罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷ではなくなるためです。
死んだ者は、罪から解放されているのです
「罪から義と宣告されている(罪からの刑罰が科せられない)」
もし、私たちがキリストとともに死んだというのであれば、私たちは信じています、キリストとともに生きることになるということを」

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ローマ6章6–8節

私たちはこれを知っています、私たちの古い人が主とともに十字架につけられたことを、
それは罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷ではなくなるためです。
死んだ者は、罪から解放されているのです
「罪から義と宣告されている(罪からの刑罰が科せられない)」
もし、私たちがキリストとともに死んだというのであれば、私たちは信じています、キリストとともに生きることになるということを」

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ローマ6章9、10節

私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはや主を支配しないのです。

なぜなら、主はただ一度、罪に対して死なれたからです。しかし今、主が生きているのは、神に対して生きておられることです

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ローマ6章11節

同じように、あなたがたも自分をこのように見做しなさい、罪に対して死んだ者であることを、また神に対して生きている者であることを、それは私たちの主キリスト・イエスにあってのことです

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ヨハネ福音書5:24

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、
死からいのちに移っています

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ガラテヤ人への手紙2章19、20節

しかしこの私は、律法を通して律法に死にました。それは神に(向かって)生きるためです。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において生きているのちは、私を愛し、私のためにご自分のいのちを与えてくださった、神の御子の真実によるものです

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マタイ25章タラントのたとえ
  • イエスの結論「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ、そこで泣いて歯ぎしりするのだ」

神にあって冒険して失敗しても赦していただける
失敗ばかりを恐れて冒険できなかった臆病さは、不信仰の罪として赦されようがなくなる場合がある

そのような場合でも、「主よ。私は怖くてこんなことをできる自信がありません。主よ、どうか私に勇気を与えてください」と祈るならすべてが変えられる。

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