エレミヤ7~9章「悟りを得て主(ヤハウェ)を知るとは?」

2024年5月26日

19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「すべての生は苦しみである……生は、まるで振り子のように……苦痛と退屈の間を行き来する……人間がすべての苦しみと悩みを地獄に追放したあとでは、天国にはただ退屈しか残らない」という皮肉を言いました。

しかし神の救いの目的は、人を「この世の苦悩から解放する」ことではなく「新しい天と新しい地」を創造し、新しくされた私たちをそこに住まわせることです。

そして人生の苦しみは、肉的な自我が砕かれ、神の救いの目的を「知る」ために与えられている訓練の機会です。

神はイスラエルの民に対して、約束の地に入って生活が満たされるようになったときこそ、「気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主 (ヤハウェ) を忘れないようにしなさい」(申命記6:12) と警告しました。

彼らが偶像礼拝を加速させたのは、この世の幸せという幻想を神とし、自分を奴隷状態から解放された神に聴くということを忘れてしまったからに他なりません。苦しみから逃げようとするのではなく、苦しみの中で、「悟りを得て」、「主 (ヤハウェ) を知る」ことこそが何よりも大切ではないでしょうか。

1.「主 (ヤハウェ) の宮を『強盗の巣』にした者たちへのさばき」

主(ヤハウェ)はエレミヤに、「主 (ヤハウェ) を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々」に、「あなたがたの生き方と行いを改めよ(善くせよ)。そうすれば……この場所に住まわせる」と語るように命じました (7:2、3)。そこには、生き方を改めなければ、この都に住み続けられないという警告が込められています。

ところが彼らは、「これは主 (ヤハウェ) の宮、主 (ヤハウェ) の宮、主 (ヤハウェ) の宮だ」という「偽りのことば」を聞いていました (7:4)。偽預言者たちは、エルサレム神殿は主(ヤハウェ)の住まいだから、主ご自身がこの町を守ってくださると偽りの希望を語り合っていたのです。しかし (ヤハウェ) は、主を恐れ、主を愛する人々の中に住んでくださるのであり、建物自体に魔法的な力を求めてはなりません。

そのことをさらに「公正を行い、寄留者、孤児、やもめを虐げず……ほかの神々に従って……わざわいを招くようなことをしなければ、わたしは……この地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませる」(7:5–7) と言われます。

つまり、「役に立たない偽りのことば」を「頼りに」する代わりに、「生き方と行い」を変えることが求められていたのです。

ところが彼らは、「盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え……ほかの神々に従って」いながら (7:9)、主(ヤハウェ)の「名がつけられている」家の、主(ヤハウェ)の前に「やって来て立ち」、「私たちは救われている」と言っていました (7:10)。

これはたとえば、主が忌み嫌われるあらゆる悪行を重ねながら、荘厳な礼拝の場で気分が高揚されて、救われているような気持ちを味わうことと似ています。

7章11節で主(ヤハウェ)は、「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ。このわたしもそう見ていた」と驚くべき事を言われます。

イエスも後にこのことばを用い、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった」(マルコ11:17) と言われます。それは当時のエルサレム神殿の異邦人の庭が、「両替人」や「鳩を売る者たち」によって騒々しくなり、遠方から来た異邦人が静かに祈ることができなくなっている様子にイエスが心を痛め、これらの商売人を追い出した理由を述べるためでした。

さらに主は、「主 (ヤハウェ) の宮」の幻想に浸る人に、「シロにあったわたしの住まい……へ行って……イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ」(7:12) と言われます。

これはサムエル記第一2–4章の悲劇を指します。祭司エリの息子たちは当時、シロにあった幕屋で人々が主にいけにえをささげて礼拝するシステムを、私腹を肥やす手段と変えてしまいました。それに対し、主は、何とご自身の契約の箱がペリシテ人に奪われることを許すことまでして、当時の礼拝システムを壊してしまわれたのです。

そして今、主はエルサレムの指導者に、「わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず……呼んだのに、答えもしなかった」(7:13) とその罪を指摘し、「わたしはシロにしたのと同様のことを行う」(7:14) と宣告します。

エルサレム神殿が社会的弱者を虐げるシステムとなったとき、主はこの大切なものを捨てることを自ら決められたのです。礼拝で何よりも問われるのは、私たちがどれだけ多くの犠牲を捧げたかではなく、主(ヤハウェ)の語りかけをどれだけ恐れをもって聞いたかということでした。神殿の心臓部には、主がご自分の手で書かれた「十のことば」が置かれていましたが、 (ヤハウェ) のことば」に耳を傾けない者は、自分で神の民の立場を捨てています。

それで主は「かつて……エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたを、わたしの前から追い払う」(7:15) と言われました。

7章16節では主はエレミヤに、「あなたは、この民のために祈ってはならない……」とまで言われました。それは彼らが「ユダの町々や、エルサレムの通りで……子どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こそうとしている」(7:17、18) からでした。

彼らは家族で協力し合って偶像を拝んでいたのです。その上で、神の「怒りと憤り」は、「燃えて、消えることがない」(7:20) と言われます。

7章22節で主は、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何も語らず、命じもしなかった」と不思議なことを言われます。それはシナイ契約自体の中に「全焼のささげ物や、いけにえ」の規定があったのではなく、契約成立後に主との関係が維持されるために、それらが命じられたことを意味します。

主はさらに「ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え(聴きなさい)。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる(7:23) と言われます。

それに対し24–28節では四回に渡る様々な表現で、彼らが主のことばに「聞かなかった」ことが非難されます。そればかりか31節では「自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いた」という忌まわし罪が指摘されます。「ベン・ヒノムの谷」はエルサレムの南西に横たわり、トフェテは子供をモレクにささげる偶像礼拝の場所として有名でした (Ⅱ列王記23:10)。

ところが、主のさばきが臨むとき、そこには「虐殺の谷」と呼ばれるほどに死体が葬られることになると警告されています。それはエルサレムが間もなくバビロンによって廃墟とされることを指しています。

イスラエルの民は、神の御教えを本来の姿から捻じ曲げました。「全焼のささげ物や、いけにえ」は神の恵みへの応答だったはずなのに、神を動かす手段、また祭司の特権を維持するシステムに変えられました。人間のわざが前面に立つとき、神の教えが退きます。

人の知恵が絶対化する所で、強い者や賢い者による支配体制が作られるのです。律法の中心は、主(ヤハウェ)の教えを遜って聞き続け、思い巡らすことです。みことばを心から味わうことを素通りした教会の働きは、必ずひずみを生み出します。忙しすぎる教会活動によって、また様々なことを断定する教会の教えによって、傷ついているキリスト者が残念ながらいつの時代にもいます。

主は、しばしば、そのように原点を忘れた教会を閉じてしまわれることがあります。

2.「『私はなんということをしたのか』と言って、自分の悪を悔いる者は、一人もいない」

7章34節~8章3節では、エルサレムが「廃墟」とされ、王や宗教指導者たちの墓が暴かれ、その骨が偶像の前に晒しものにされると記されます。これは最大の辱めです。

これは北王国の礼拝の場ベテルに対し預言され、実現した神のさばきが (Ⅰ列王13:1–3、Ⅱ列王23:15、16)、神の都にも起きるという意味です。

8章4–6節で、主はエルサレムの民の心が頑なになっていることを指摘しますが、そこで印象的なのは、「わたしは気をつけて聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか』と言って、自分の悪を悔いる者は、一人もいない」(8:6) と言われたことです。

私たちも時に、大きな過ちを犯しますが、「私はなんということをしたのか」と反省している者には望みがあります。

ところが「彼らはみな、戦いに突き進む馬のように、自分の走路に走り去る……山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主 (ヤハウェ) の定めを知らない」(8:6、7) という頑なさの中にいました。

しばしば、自分の置かれている状況が不利になればなるほど、力ずくで正面突破を計ろうとする人がいます。彼らは多くの場合、問題をこじらせるばかりです。

そのようなときに大切なのは、空の鳥の柔軟さに倣うこと、静まって、「主 (ヤハウェ) の定め(さばき、支配)」(8:7) を思い巡らすことです。主の前で、自分の計画を変えることができる柔軟さが問われます。

8章8節では、エルサレムの指導者たちが、「私たちは知恵ある者。私たちには主 (ヤハウェ) の律法がある」と言っていることを引き合いにしながら、「だが、見よ、書記たちの偽りの筆が、それを偽りにしてしまった」と、彼らが主の教えを捻じ曲げている現実を指摘しています。

なおこれは「書記」という働きの最も古い記録で、律法がバビロン捕囚前から管理されていたことを証明します(Ⅱ歴代34:13参照)。

ただ、これは書記たちが聖書を恣意的に書き換えたというよりは、彼らが主の教えを几帳面に管理しているように見せながらも、それを人々に教える際に自分に都合よく歪めて教えたという意味にも理解できましょう。

10–12節で彼らの問題が指摘されますが、これは6章12~15節のみことばと同じです。ギリシャ語七十人訳ではこの部分を重複と見たためか、省かれているほどです。しかしエレミヤには同じことばの繰り返しが多く、敢えて記したとも解釈できます。

「彼らは、わたしの民の娘の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、『平安だ。平安だ』と言っている」(8:11) という状況は、すべての組織が滅びて行くときの原則です。すべての組織は内側から壊れます。当時のエルサレムも同じです。この百年前に、ヒゼキヤ王のもとで奇跡的にアッシリアの攻撃を撃退しました。それは、主のあわれみでしたが、当時の宗教指導者は、足元の問題を直視することなく、日本で言えば「神風神話」のような勝利の幻想を語り続けていました。

残念ながら、誤った信仰理解は、現実に基づいた悲劇的な見通しを、力で押さえつける方向に働きます。

なお、8章14、15節の、「私たちの神、主 (ヤハウェ) が、私たちを滅びに定め……毒の水を飲ませられる……平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない」という表現は何と悲痛なことでしょう。

16節の「ダンから馬の鼻息が聞こえる……」とは、イスラエルの最北端のダンからバビロン軍が南下して来る様子であり、「まじないの効かないコブラや、まむしを……送り、あなたがたをかませる」(8:17) とは、彼らの知恵が役に立たなくなるという意味です。

18、19節はエレミヤの嘆きですが、『主 (ヤハウェ) はシオンにおられないのか。シオンの王はそこにおられないのか』という「民の叫び」にこそ、エルサレム陥落の本質が現わされます。

この町が奇跡的に守られ続けたのは、実際に主がシオンの中におられたからです。ところがバビロン軍が攻めてきたとき、主はシオンを離れ、神殿は主のない空き家の状態でした。だからこそ神殿は敵の攻撃で崩れ去ったのです。

しかし主が真ん中におられるとは、イエスが「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21) と言われたように、私たちの心の中が、「ヤハウェは私の主です」と認められていることが前提です。神は私たちの賛美を住まいとしておられるからです (詩篇22篇3節)。

その上でエレミヤの嘆きが、再び、「娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私を捕らえる。乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか」(8:21、22) と描かれます。

ギルアデの乳香には癒しの効果があることで有名でしたが、神の民の傷は、外面的なものではなく、彼らの信仰に関わることでした。その場合は主(ヤハウェ)のことば以外による癒しは期待できませんでした。

私たちのまわりにも様々な癒しの手段があります。しかし、たましいの癒しは、私たちの創造主である方からの愛の語りかけを聴き続けること以外にはあり得ません。

3.「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟り得て、わたしを知っていることを」

9章初めでは、エレミヤの嘆きが、「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを」と詩的に表現されます。

そして、主ご自身の嘆きが、「彼らは舌を弓のように引き、真実ではなく偽りを放つ、それは地に広がる。悪から悪へ彼らは進む。わたしを知らないからだ」(9:3私訳) と記されます。

そこにイスラエルの民の状態がどんどん悪化する様子が描かれます。そのすべての原因は、彼らが「主 (ヤハウェ) を知らない」ということにあるのです。

一方9章4節では、「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き(押しのけ)、どの友も中傷して歩き回るからだ」と、民の堕落の状態が描かれます。

「出し抜き(押しのけ)」は、原文で「アコーブ・ヤコブ」と記され、かつてエサウが「あいつの名がヤコブというのもこのためか。二度までも私を押しのけて……」(創世記27:36) と言ったように、民族の父ヤコブの名を思い起こさせます。

イスラエルとは、主がヤコブに与えてくださった「新しい名」です。ヤコブが正直な生き方ができるようになったのは、彼がたった一人で母の実家に向かって旅をする中で、主ご自身が彼に現れ、「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る」(創世記28:15) と約束し、彼が母の兄ラバンに何度も騙されながらも、主によって豊かにしていただいたからです。

ところがイスラエルの民は、自分たちの父が持っていた罪の性質をますます悪化させています。その堕落した彼らの状態が、「互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く……欺きのただ中に住み……わたしを知ることを拒む(9:5、6) と描かれます。

それに対して主は、「見よ、わたしは彼らを精錬して試す。いったい……わたしの民に対して ほかに何ができるだろうか」(9:7) と言われます。これは主のさばきの目的が、金を精錬して純金を残すようなものであるという意味です。

その上で主は、彼らの堕落した状態に対し、「口先では友人に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む……このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか」(9:8、9) と告げられます。

ここに指摘される罪は、人間関係に関わることです。多くの人は自分の依存症的な弱さを嘆きますが、何よりも主を悲しませるのは、友を裏切る罪です。その原因は、「主を知ることを拒む」ことから生まれているというのです。

しかし、神が育てようとしたのは、このようにヤコブの罪の性質を受け継いだ民でした。あなたが友に裏切られる悔しさ、恩知らずに対する悲しみと怒りは、主ご自身が嘆いておられたものでもありました。

9章10–16節には、エルサレムの滅亡についてのエレミヤの嘆き、また神のさばきの理由などが描かれます。そこで特に、主ご自身が「見よ。わたしはこの民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」(15節) と言われます。災いは悪魔のわざばかりではく、主のさばきの警告でもあります。

イエスも「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28) と言われたように、主は私たちを滅ぼすことができる方なのです。

ただ、イエスはそれに続いて、「二羽の雀は一アサリオンで売られているではなりませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです」(同10:29–31) と言われました。

健全な意味で主を恐れることで、私たちは平安を味わうことができるのです。

9章17節で主は、ご自身を「万軍の主 (ヤハウェ) 」と紹介しながら、葬式のときに使う「泣き女を」、急き立てるように集めることを命じます。それは、シオンを滅ぼす敵の軍隊が目前に迫っているからです。

そればかりか「泣き女」が不足することになるので、自分たちの娘や隣の女にも「嘆きの歌」や「哀歌を教えよ」と命じられます (9:20)。

さらに22節では、「人間の死体は、畑の肥やしのように……落ちる」とまで言われます。

9章23、24節は多く人の愛唱聖句です。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな」とありますが、私たちは自分の「知恵」、「力(強さ)」、「富」を誇りがちです。

しかし「誇る」とは「ハレルヤ」の「ハルル」(賛美する)と同じで、「喜ぶ」の気持ちが込められています。私たちが何よりも誇り、喜ぶべきことは、福音を信じているという現実です。そのことを主は、「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」と言われます。

私たちは人生において知るべき最も大切な知識を得ています。その特権を余りにも軽く考えすぎてはいないでしょうか。なお、その「悟り」は自分で得たものではなく、神から与えられたものです。

しかも「知る」とは性的な交わりにも使われることばで、個人的(パーソナル)な親密な関係が築かれることを意味します。律法の中心は、神の自己紹介の記録です。神が知らせてくださったように神を知ることが大切です。

それは常に「聴く」ことから始まります。黙想の中で神を作り出す危険がありますが、悟りはみことばを通して与えられるものです。

さらに主を知ることの内容が「わたしは主 (ヤハウェ) であり」(9:24) と記されます。それはこの方がすべてに先立って存在し、すべてのものがこの方によって成り立っていることを意味します。

そしてこの方は「地に恵みと公正と正義を行う」とご自身を紹介しておられます。「恵み」とはヘセド、神がご自身の契約を守り通される真実の愛、「公正(さばき)」とは、公平な裁判におけるように悪人の横暴が正されることを意味します。さらに「正義」とは、弱者の訴えが聞き届けられること、しばしば「救い」と同じ意味を持ちます。

確かに主は災いをも創造される神です。ただその究極の目的は、この地に公正と正義を行い、この地を平和(シャローム)で満たすことです。それが「わたしがこれらのことを喜ぶ」からと表現されます。

主はこの地をさばくとき、ご自身で苦しんでおられます。それは何よりも、御子の十字架に現されています。神は私たちの罪をさばく代わりに、ご自身の御子を私たちの罪の身代わりとして、心を痛めながらさばかれたのです。

9章25、26節で、主は、「見よ。その時代が来る……わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する」と、イスラエルの子孫に対するさばきを宣告されます。

さらに「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ……すべての者を罰する」とユダの民が偶像礼拝者と同類にされた上で、「すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ」と言われます。

イスラエルの民は、自分が神の民とされた肉のしるしである割礼を誇っていましたが、大切なのは「心の割礼」です。それは、主との心の結びつきです。

私たちの誇りはこの世のものとは異なります。それは、私たちが神に選ばれ、神からの知恵が与えられ、創造主である神を礼拝できるようになったことを心から喜ぶことにあります。

主がイスラエルを傷つけ苦しめたのは、彼らが悟りを得て主(ヤハウェ)を知ることができるようになるためでした。彼らは国が滅ぼされたとき、バビロンの神々を拝むのではなく、イスラエルの神ヤハウェに立ち返りました。バビロン捕囚がなければ聖書はこのようにまとめられ残されることはありませんでした。

彼らは苦しめられることを通して、主こそがこの地に「恵みと公正と正義を行う」方であることを「知るようになりました。自分の知恵、富、力を誇ることができなくなって初めて、真に主を知ることができたのです。

私たちはみな苦しみを避けたいと思います。しかし少なくとも、苦しみを避けようとすることの中にある罠を、常に意識しているべきでしょう。人生の目的は、苦しみのない状態ではなく、(ヤハウェ)を知ることにあるのですから。