「死」はすべてのものを失うことのシンボルです。私たちは死において、家族や友人と引き離され、それまで築いたもののすべてを失います。実は、不安に駆り立てられている人は、心の底で「死」を恐れているとも言えましょう。
聖書では、死は「最後の敵」(Ⅰコリント15:26) と呼ばれますが、キリストの十字架とは何よりも、「死」に対する勝利でした。肉体の死に恐怖を感じない人でも「死を腐敗のプロセス」と見ると、嫌悪と恐れを抱きます。「腐って行く」とは、誰にとっても嫌悪の対照です。
しかし、私たちは死の支配から「いのち」の支配に移され、私たち自身が「いのちにあって支配する」という生き方を始められるのです。
1.「死は……アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をも支配しました」
5章12節は原文の語順では、「ですから、ちょうど一人の人を通して罪が世界に入り、罪を通して死が入ったのと同じように、死がすべての人に広がったのです、それに基づいてすべてが罪を犯すことになりました (under which circumstance all sinned: Commentary on the NT Use of the OT: Mark Seifrid から)」と訳すことができます。
原文の流れでは「死がすべての人に広がった」その結果に基づいて「すべての人が罪を犯すことになった」と、「死」が「罪」の原因かのように描かれています。
しかし多くの翻訳ではその逆に「すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(聖書協会共同訳2018年版)と訳されます。
それはアウグスティヌスを中心とした西方教会の伝統的な原罪論の教理が翻訳に影響を与え、アダムの原罪をすべての人が受け継いで、罪を犯した結果としてすべての人が死ぬことになったと、原文の論理の逆に説明されているように思えます。
一方、東方教会では、すべての人が原罪を受け継いでいるというよりも、アダムの罪によってすべての人が「死の支配」の下に置かれているという面を強調します。
実際、創世記3章の文脈では、アダムが神の命令を破って、禁断の木の実を取って食べた結果に関して、神である主は、「見よ、人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのち木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」と言われたと記されます (22節)。
つまり、「神のようになり、善悪を知るようになった」人間が、「永遠に生きる」ことは、神が創造した世界を破壊することになるので、彼らを死の支配下に置いたと記されているのです。
その後、人はエデンの園から追い出されて、苦難の中を歩み、最初に生まれたカインは弟のアベルを殺し、そこから悪が世界中に広まっていったと描かれています。
神は、「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われましたが (創世記2:17)、エデンの園からの追放が、人の「死」を意味したと考えられます。
なお、5章12節以降に記された「罪」とは単数形で、すべての人を支配する根源的な悪、人格的な力のように描かれています。
禁断の木の実を取って食べたというアダムの最初の「罪」とは、神の善悪の基準が明確なのに、それよりも自分を善悪の基準、自分を神としたことにあると言えましょう。現在も、創造主を礼拝しない者は、みな自分を神とし善悪の基準として生きています。それをうまくできる人が成功者になるかのようです。
つまり、それぞれがアダムの罪を遺伝的に受け継いでいるというより、すべてのアダムの子孫が「死」に「支配され」ているという状況下で、「自分を神、善悪の基準」として生きているのです。
アダムの場合は確かに罪が死を招いたのですが、他のすべての彼の子孫の場合は、死の支配下に置かれた結果、すべての人が罪を犯していると描かれていると思われます。
事実、コリントの手紙第一15章32節では、「もし、死者がよみがえらないのなら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから』ということになります」と記されていますが、人は、死の力に支配されている結果として、刹那的に生き方に流れるとも解釈できます。
アダムの罪によって、死が全人類に広がったのですが、その後、人はみな自分の意思で神に逆らい、自分を善悪の基準として互いに傷つけあっています。
復活のいのちへの希望がない結果として、人は罪の奴隷になっているという側面も否定できないと思われます。
続けて、5章13、14節では、「というのは、律法の前にも罪(単数形)は世にあり続けたのですが、律法が存在しなければ罪は問題とされませんでした(新改訳2017訳:「律法がなければ罪は罪として認められないのです」)。
けれども、死は、アダムからモーセの間も支配しました(王として治めました)、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をもです。アダムは来たるべき方のひな型です」と記されています。
ここでは、罪の力が問題とされるのはモーセの律法以降である一方で、死の力はアダム以降のすべての人々を支配し「アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をも支配する」ことになったと記されます。
その意味では、すべての人は「罪の奴隷」である前に「死の支配」の奴隷になっているとも言えます。
そこで「アダムは来たるべき方」であるキリストの「ひな型」と言われますが、イエスも私たちと同じ肉体を持つ人として死の支配下にありましたが、同時に神と等しい本質を持つ神の子として死の力を無力化しました。
ヘブル人への手紙2章14、15節では、キリストが私たちと同じ苦しみを体験されたことが、
「子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました」と記された上で、その目的が
「それはご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、無力化するためであり、また死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした」と記されています。
つまり、イエスの十字架は、人々を死の恐怖の奴隷状態から解放するためであったと記されているのです。十字架は、もちろん私たちを罪の奴隷状態から解放する神のみわざですが、それ以前に、イエスは十字架によって私たちを死の恐怖の奴隷状態から解放してくださったことを覚えるべきかと思わされます。
2.「恵みと義の賜物をあふれるばかりに受けている人は、いのちにあって支配する」
5章15、16節は、「しかし、違反の場合のようなものではありません、恵みの賜物(カリスマ)は。
もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、なおいっそう、神の恵み(カリス)と、一人の人イエス・キリストによる恵み(カリス)における賜物(贈り物:the free gift)は、多くの人に満ち溢れるのです。
また、一人が罪を犯すことを通してのもののようではありません、賜物(贈られた物:the free gift)は。 さばきの場合は、一つが罪に定められましたが、恵み(カリスマ)の場合は、多くの違反が義と認められるからです」と訳すことができます。
15節は原文の語順では、「しかし、違反の場合のようなものではありません、恵みの賜物(カリスマ)は」と、神から与えられる「恵みの賜物」(カリスマ)の世界が、アダムの「違反」を帳消しにするばかりか、はるかに大きいことを効果的に表現しています。
その上で、「神の恵み」と「一人の人イエスによる恵みのうちにある」、人の期待をはるかに上回る「贈り物」の豊かさが描かれます。しかも、それは「多くの人に満ち溢れる」と約束されます。
先の5章9、10節で、「キリストの血によって義と認められた」、また「神と和解させていただいた」という現在、既に与えられている恵みと、「御子のいのちによって救われる」という未来的な「救い」を区別して考える必要をお話ししました。単純に「イエス様を信じて救われた」という表現は、聖書に約束された「救い」の偉大さを小さく見せる恐れがあるという意味です。
たとえば詩篇103篇35節では、「主は あなたのすべての咎を赦し」という「罪の赦し」に続いて、「あなたのすべての病をいやし……あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生(渇き)を 良いもので満ち足らせる。あなたの若さは 鷲のように新たにされる」と記されます。
私たちはこの地上で何らかの病名がついて死んで行きますが、聖書に約束された「救い」とは「すべての病」が「癒される」ことなのです。
しかも、この地では人から誤解や中傷を受けますが、約束の救いとは「恵みとあわれみの冠」が授けられるという「栄光」の回復です。
また、この地では体も頭も衰えますが、やがて「あなたの若さは鷲のように新たにされる」という若返りが保証されているのです。
それらはすべて、キリストの再臨の時の「身体の復活」に結びついた「救い」です。「救われた」という完了形の表現が独り歩きすると、これから保証されている最終的な「救い」の偉大さが見えなくなります。
キリストによって始まった「いのち」の豊かさを心の底から期待できるためには、「救い」を未来に保障されたことと理解する方が良いのです。それでこそキリストからの「贈り物」の大きさを理解できます。
さらに16節でも、「一人が罪を犯すことを通してのもののようではありません、賜物(贈られた物:the free gift)は」という逆説的な書き方から始まり、アダムの罪の結果とは比較されようもないキリストからの贈り物の偉大さが描かれます。
それは、「さばきの場合は、一つが罪に定められましたが、恵み(カリスマ)の場合は、多くの違反が義と認められるからです」と説明されます。
これはアダムの「一つの違反」から「すべての人」が「罪に定められた」という原罪論ではなく、「一つが罪に定められた」との比較で「多くの違反が義と認められる」ことの「恵み(カリスマ)」の大きさが強調されています。
15、16節では「恵み」の類語がカリス、カリスマ(賜物)、ドレア(贈り物)、ドーレマ(贈られた物)という翻訳の違いを表しにくい四種類も使われています。それは、キリストによって始まった「恵み」の時代の大きさを表すための工夫と言えましょう。
5章17節は「もし、一人の違反に基づいて、死が一人の人を通して支配する(王として治める)ようになったのであれば、なおいっそう、恵み(カリス)と義の賜物(贈り物:the free gift)をあふれるばかりに受けている人は、いのちにあって支配する(王として治める)ことになります、一人の人、イエス・キリストによって」と訳すことができます。
ここでは、アダムという「一人の違反に基づいて」、「死が」彼を通して「支配する(王として治める)」ことの比較で、「恵み(カリス)と義の賜物(贈り物:the free gift)をあふれるばかりに受けている人」である私たちは、「死」ではなく「いのちにあって支配する(王として治める)」と約束されています。
それはアダムと対比される「一人の人、イエス・キリストによって」可能になった、想像を絶する「恵み」です。
この背後にはダニエル7章13、14節、27節の預言があります。イエスはご自身が神の「右の座に着く」預言された「人の子」であると宣言して、神への冒涜罪で死刑に定められましたが、私たちはイエスこそが預言された「人の子」であり、全世界を治めておられるということを信じています。
しかしそこで忘れられがちな真理が、来たるべき世界では、私たちが「いと高き方の聖徒」として「すべての主権を」従えるという約束が記されていることです。
パウロは私たちが「御使いたちをさばくようになる」(Ⅰコリント6:3) とさえ言っています。
それが「恵みと義の賜物をあふれるばかりに受けている」と言われる私たち自身が「いのちにあって支配する」ということの意味です。
私たちはキリストにあって、アダムをはるかに超える存在とされているのです。これこそが、イエスもパウロもダニエル書を通して語った驚くべき「恵み」に他なりません。
3.「罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れました」
5章18、19節は、「こういうわけで、ちょうど一人の違反を通してすべての人が罪に定められたのと同じように、一人の義の行為を通してすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人(の立場)とされたのと同じように、一人の従順によって多くの人が義人(の立場)とされるのです」と記されています。
18節前半の「ちょうど一人の違反を通してすべての人が罪に定められた」とは、12節での一人の「罪」からの「死」、「すべての死」から「すべての罪」へという流れの言い換えです。
それは原罪の転嫁というよりも、「罪を通して死が入った……死がすべての人に広がった」ことの結果です。それが20節では、「罪が死において支配した」と言い換えられます。
私たちの問題は、アダムの罪によって死の支配下に置かれ、死の恐怖の奴隷状態とされたことなのです。
それに対し、先に引用したヘブル2章14、15節にあったように、キリストが私たちの罪を負って十字架にかかるという「義の行為」によって、私たちは死の恐怖から解放され「いのち」が与えられました。
なお興味深いのは、19節の「ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人(の立場)とされたのと同じように、一人の従順によって多くの人が義人(の立場)とされる」という記述です。
先に述べたように、すべての人はアダムの罪によって死の支配下に置かれ、死の脅しに屈する罪人の立場に置かれました。それは多くの人間が、日常生活では善意を発揮しながらも心の底では死の恐怖に怯え、自分の身を守ることを第一に考え、隣人愛を実行できなくなっていることに表されています。
一方、クリスチャンはキリストの十字架の「贖い」によって、死の支配から解放されて、脅しに屈する必要は無くなっているとはいえ、なお先祖伝来からの日常生活の中で刷り込まれた自己中心的な生き方に支配されています。
それに対し、私たちの罪を負ったキリストは、罪を抱えたままの私たちを「義人の立場」に置いてくださいます。
それは、イザヤ書53章11、13節で神ご自身が「わたしの正しいしもべは……多くの人を義とし、彼らの咎を負う……彼は多くの人の罪を負い、背いた人たちのために、とりなしをする」と記しておられたことの成就です。
私たちはどんな惨めな罪人であっても、キリストのうちにあることによって、「義人の立場」に置いていただいています。キリストのうちに生きる者は、汚れた姿のままで「聖徒」と見なされています。
5章20、21節では、「しかし、律法が入ってきたことによって、違反が増し加わりました。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れました。
それは、ちょうど罪が死において支配した(王として治めた)のと同じように、恵みもまた義(covenant faithfulness: 契約の真実)を通して支配する(王として治める)ためでした。それは永遠のいのちのためで、私たちの主イエス・キリストを通してのことでした」と記されます。
20節の最初は、「律法が入ってきた」目的が、「違反が増し加わるためでした」と訳されがちですが、それではまるで、神が人々の罪を増し加えるために律法を与えた?かのように、律法が悪の根源であるかのように誤解される恐れがあります。
確かに、誰よりも律法を重んじたパウロが逆説的な意味でこのように語ったとも解釈できますが、ここでは単純に「律法が入ってきた」という原因が、「違反が増し加わりました」という残念な結果をもたらしたという、皮肉が描かれているとも解釈できます。
問題は、律法(トーラー)という「恵み」の「教え」を機能させなくする、アダムの罪が「死において支配している」ためだったのです。
アダム以来の「罪」が日々の生き方の中に混ざり込み、私たちが「罪の奴隷」かのような状態になっていますが、それは「原罪」というより、「死」の脅しの奴隷にされている状態から生まれたことと言えましょう。
ところが、ここでは「罪の増し加わるところに、恵み (カリス) も満ち溢れました」という逆説が記されています。それはたとえば、極悪非道な「やくざ」がクリスチャンになったばかりか、牧師となって多くのやくざを回心に導くという圧倒的な恵みとしても表されます。それは先に「一人の従順によって多くの人が義人(の立場)とされる」という圧倒的な罪の赦しの恵みゆえです。
しかし、これはごく普通の信仰者が体験できている恵みでもあります。残念ながら、私たちはどれほど復活のいのちの福音を聞いても、死の脅しに屈しやすい弱さを持っています。アダム以来の先祖伝来の受け継がれた臆病さが、私たちのうちに芽生えた善意をも塞ぐからです。
しかし不思議に、自分の中に巣くっている罪の性質の醜さに圧倒されるそのただ中で、自分の知恵や力に頼るという、自分を神とする生き方の問題に心の底から向き合うことができます。
ただ、それと同時に、その絶望下の中で、聖霊があなたの心を支配するようになります。
それはパウロが「私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」と記している通りです (Ⅰテモテ1:14、15)。
ですから、「罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れました」という告白は、ごく普通の生活の中で、自分の罪の自覚から生まれる体験なのです。
最後に21節では、「ちょうど罪が死において支配した(王として治めた)のと同じように、恵みもまた義(covenant faithfulness: 契約の真実)を通して支配する(王として治める)ためでした。それは永遠のいのちのため(永遠のいのちに導くため)で、私たちの主イエス・キリストを通してのことでした」と記されます。
ここでは「死」の支配と、「義」の支配の対比が描かれています。キリストにおいて私たちは「死の支配」から「義」を通しての「支配」へと移されました。
ここでの「義」とは、1章17節で「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり、信仰に進ませる」と約束されていた神の救いのご計画の真実さを表すことばです。
また3章5節でも、「私たちの不義が神の義を明らかにする」という逆説が記されていました。
その「義」は、私たちの主イエス・キリストの「救い」のみわざの中に表されているものでした。ですから、私たちが「義の支配」の中に置かれているとは、私たちの最終的な「救い」が完全に保証されているという意味になります。
結論
私たちはキリストにすがりながら生きている限り、「救い」を失う恐れはありません。キリストが私たちの救いを全うしてくださいます。
たとい、死の脅しを受けても、そのただ中でイエスの御名を呼び求めるなら、私たちに力が与えられます。そのことが「永遠のいのちのため」あるいは、「来たるべき世のいのち」へと「導くため」と言われます。
「永遠のいのち」とは、現在のいのちが永遠に続くという意味ではなく、「新しい天と新しい地」で実現する「復活のいのち」が、今から始まるという意味です。
そこにおいて病の癒し、栄光の冠、永遠の若返りのすべてが実現します。それは、死に定められた「アダムの命」と対照されるものです。
私たちに既に与えられているキリストのうちにある「いのちの豊かさ」は、あらゆる人間の想像を超えたものです。
そして、私たちは「いのちにあって」、この世界をキリストともに「治める」ことができます。