連日、大谷翔平さんの通訳であった水原一平さんの通訳のスポーツ賭博のことが報じられています。
多くの大谷ファンにとっては、本当に心が痛むことかと思います。
一昨日の大谷選手の会見で、彼が、水原氏の行為を「窃盗」と「嘘」と断罪し、彼の過ちへの同情のようなことばを聞かれなかったことに、違和感を覚えた方もいるかと思います。
日本での記者会見であれば、「身近なところで公私ともに僕を徹底的に支えてくれた一平さんの過ちと苦しみに気づくことができなかったことを申し訳なく思います。彼の過ちは別として、彼に対する感謝の気持ちは変わりません」というようなことばが入ることを期待する向きもあったかもしれません。
そして、それこそがあの優しく謙虚な大谷翔平さんの心情かもしれません。
しかし、訴訟が文化のような国になっているアメリカでは、そのような発言は危険です。ですから大谷さんも、優秀な弁護士の徹底的な指導を受けて、あのような会見を行ったことと思います。
一介の通訳であるはずの水原さんが、大谷選手の銀行口座を自由に動かすことができるということは、多くのアメリカ人にとって理解しがたいことと思います。
まさに、そこに日本の「甘え」の文化の特徴が現れています。それは家族のような信頼関係をビジネスパートナーのような人とも築くことができるという極めて日本的な精神風土とも言えましょう。それが互いに「甘え合う」ことができるという精神的な安心感を生み出します。
ただ、このように一方の側が、依存症という病で、その背後にこの世の暗闇の勢力が関わっているような場合には、そのような甘えの関係が命取りになります。
まさに、甘えの文化の心地よさと危なさを象徴するような事件かもしれません。このようなときに、アメリカ的な訴訟文化を称賛することもなく、また日本の甘えの文化を否定することもなく、そこにあるそれぞれの危なさを理解しながら、このような事件から、自分の生き方、また人間関係の築き方を振り返ることができればと思います。
そのような際に鍵になることばは、「境界線(バウンダリー)」かと思います。これに関してガラテヤ人への手紙6章2、5節のことばがすばらしい導きになります。個人的にはこの部分は以前の新改訳第三版の訳の方がしっくりきます。
互いの重荷 (burden) を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい (ガラテヤ6:2)
人には、おのおの負うべき自分自身の重荷 (load) があるのです (同6:5)
日本語では、同じ「重荷」という言葉で訳されますが、原文では明確な使い分けがなされており、それを英語も表そうとしています。
最初の「重荷を負い合う」とは、この世の権力者や不条理な状況から、強制的に負わされてしまった重荷で、それを互いに助け合って支え合うという意味です。
後者の「自分自身の重荷」とは、たとえば登山のとき自分の水や食料はそれぞれが自分の分を必ず自分で背負うことがルールとされ、それができない者は、登山をする資格がないと見られるのと同じ意味での「重荷」または荷物です。
日本的な甘えの関係は心地よいのですが、互いの責任領域があいまいになってしまう危険があります。その危険を察知しながら、自分で管理すべきことを管理しないと、かえって周りの人に迷惑をかけ、また自分自身も墓穴を掘ってしまいます。
でも何でもアメリカ的に、自己責任を強調されすぎるのも、日本人にとってはきついのかなとも思います。
バウンダリーの築き方は、置かれた文化や、与えられている個性によってそれぞれ違いがあってしかるべきです。そのようなバウンダリーの築き方を学ぶきっかけになれれば幸いです。